准胝院のブログ

八王子市で准胝仏母を本尊とする天台寺門宗祈願寺院「准胝院」のブログです。准胝仏母祈願、不動明王祈願、人型加持(当病平癒)、先祖供養(光明供)、願いを叶える祈願(多羅菩薩)、荼枳尼天尊(稲荷)の増益祈願等

感情に巻き込まれないための『檀拏幢』

 先日の記事で「鎌倉の仏像写真集」が沢山押し入れから出てきたという記事を書きました。前回は「当時好きだったお像」をピックアップしてご紹介しましたが、今回は「当時全く興味がなかったお像」だけど「今回(今現在)めちゃくちゃ気になったお像」を一つ紹介したいと思います。

 

まず画像から。

 北鎌倉にある「円応寺」にある『檀拏幢(だんだどう)』です。

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(引用:佛姿写伝ー鎌倉 駒澤晃写真集 神奈川新聞社

 かなりのインパクトですね。

 

ちなみに円応寺で有名なお像と言えば、むしろこちらの初江王坐像です。


www.yoritomo-japan.com

 

 さて『檀拏幢(だんだどう)』。

 当時はあまりの「おどろおどしさ」から速攻でページを飛ばして「見ない」ようにしていましたが、今回は「じっくり」目に留まり、いろいろ考えることがありました。

 

 このお像は……『浄玻璃鏡と共に閻魔大王の必携アイテムとして閻魔堂に配置されたり、地獄絵にも描かれる『檀拏幢(だんだどう)』と呼ばれるもの』と解説されます。「人頭杖」とも呼ばれますね。

 

 ちなみに私が引用した写真集でも「人頭杖」となっていました。

 

 「今現在」の私が気になった理由の一つは、私が「焔摩天」をこよなく「信仰」しているからということが大きいのですが、それとは別に今回はこの『檀拏幢』から「人間の心理」についても多くのインスピレーションを貰いました。それについては後半に記します。

 

 さて、まずはこの不思議な「お像」の解説を最初にやってしまいましょう。

 

 この双頭の『檀拏幢(だんだどう)』は、ちょっと調べた感じだと所謂「地蔵十王経」が典拠ということがわかります。同経を意訳しているサイトがありましたので、参考にさせていだきました。

 

 該当の部分です。

 

閻魔王国は無仏世界、預弥国、 閻魔羅国とも呼ぶ。大城で周囲を鉄垣で囲み、四方に鉄門を開く。門には檀荼幢が はためき、 その上に安置された人頭形人、これが人々の本性を見抜くこと、手中にある果物を見るが如し。 その右にあるのが黒闇天女の幢で、左が太山府君の幢である

 

 このサイトから引用しました。

ayiva.sakura.ne.jp

  ちなみに「閻魔大王」ではなく、密教系の菩薩形の「焔摩天」も「人頭杖」を持っていますが、頭は一つだけでしかも本尊同様に「柔和形」です。我が家の焔摩天もむろん持っています。

 

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 こちらの説明も確認します。

『人頭幢は檀拏印、檀荼印、檀荼杖、閻魔幢、死王節印等とも呼ばれ、棒の上の半月形に人頭を載せたものであり、『大日経疏』によると、衆生の善悪の行いを監視し、ヤマ(焔摩天)による死者の審判を補助するものとされる』

 

 形は違えど、働きは同じようです。

 

 少し調べるとこんな説明を見つけました。

 

『この人頭幢は、単なる持物から、「泰山府君幢」と「黒闇天女幢」という二体幢をへて、最後には二体幢が合体した「見る目嗅ぐ鼻」と呼ばれる一体二頭の形式へと変化する(日本における泰山府君の受容と展開)』

 

 さて、「地蔵十王経」には、この男女の頭の正体が説明されていました。

 

太山府君」と「暗闇天女」です。一見すると、どうしても「罪人の晒し首」のようで一瞬「ゾッ」としてしまいますが、そうではなくそのお顔は焔摩天の主要眷属である天部のお顔だったということが分かります。

 

 「太山府君」は、焔摩天の眷属で、十王信仰では「太山王(泰山王)」と呼ばれ重要なポジションにいることでも有名ですが、むしろ「太山府君」の知名度安倍晴明が使ったとされる陰陽道の死者を蘇らせる秘術「泰山府君の祭」でしょうか。

 

 余談ですが、なぜか息子たちがこの「太山府君」を知っていたので「なんで?」と聞いたら陰陽道を描いたライトノベル原作のアニメでこの儀式が出てくるそうです。

 

ja.wikipedia.org

 

 さて「太山府君」と言えば「道教」の神というイメージが強いが、上で紹介した写真のお像は三眼の忿怒像でどうも「道教の神」とは違う。

 これはホントに「太山府君」なのか?と疑問に思っているとあることを思いだいました。それは『「そうだ、確か太山府君深沙大将と同体なんだ』ということ(参考文献:『修験道修行入門』羽田守快著(原書房)p.129-132)

 

 たしかにこのお顔のイメージは深沙大将なら納得できます。

 

 さてではもう一方の「暗闇天女」はどうでしょう。

 

焔摩天

②吉祥天の妹

 

そんな説明を多く見かけます。

 

①の解説文

サンスクリット語名をカーララートリー(Kalaratri)と言い、意訳して黒暗天、黒夜神等とも呼ばれる。因みに、カーララートリーはヒンドゥー教の女神カーリーの別名でもある。一面二臂で「胎蔵図像」などでは右手の掌に髑髏を掲げ、左手は髑髏幢を持しているが、現図曼荼羅では右手の掌を仰向けにし、左手は人面幢を持している』

 参考サイト

ameblo.jp

 ②の典拠としては『『涅槃経』12には「姉を功徳天と云い人に福を授け、妹を黒闇女と云い人に禍を授く。此二人、常に同行して離れず」とある(ウィキペディア)』でしょうか。

 

 さて、前置きが長くなりましたが、ここからが本題です。

 

 この『檀拏幢』のお顔が誰なのかという議論はさておき、お働きとしては「善悪」をジャッジするとあります。

 

 実はこの『檀拏幢』はうちの近所にある小さな「十王堂」と呼ばれるお堂にも安置されています。つまり比較的人目に付く機会も多かったのだろうと想像します。

 ameblo.jp

 とするとこれを見た多くの人々は「どんな心理になるのだろうか」ということを考えてみる。この見た目のインパクトを考えれば皆、こころを揺さぶられるだろうと想像します。つまり強制的に注目せざるを得ない。

 

 するとおそらく多くの人がこのお像をみて、過去を振り返りながら「ああ、俺のあの行為はきっと悪だな、でもあの行為はきっと善としてくれるだろう」なんてことを「あれこれ」と思い出しながら想像を巡らせることになると思います。

 

 その「善悪」の判断は「その人の価値観」で行われることと思うのですが、でもこのお像の前でそれをするときは、このお像は極めて「第三者的な」ジャッジをする「装置」として機能するんだろうな、と思いました。

 

 いわゆる「メタポジション」に自動的に入れる「装置」になり得ると。

 

 メタポジションとは、「ある状態や事象、経験に対して、第三者的な客観的な立場でみる立ち位置のこと」と説明されますが、これをするメリットは「自分の感情に巻き込まれない」ということになります。つまり脳の「感情パート」と「判断パート」を切り離すことで「感情の渦」から抜け出して冷静な判断力を発揮することができる一つのテクニックです。

 

 ただ、これはそう簡単にはできませんよね。感情が粗ぶっているとき、酷く落ち込んでいるとき、どうしてもそれに引きずられて「好ましくない判断(多くは考えなしに)で好ましくない行動」をとってしまいます。

 

 でもどうでしょうか……この『檀拏幢』の前に立った時、このインパクトのあるお像の前に立たされれば、それまで引きずられた感情はどこかに吹き飛んで「その行為は間違っていないのか」という善悪を冷静に判断「させられてしまう」のではないでしょうか?

 そして(何度もお参りして)そんなことを繰り返していれば、そのイメージはいつしか自分の心に残り続けて、お像の前に立たずともそんな「メタポジション」の「習慣」を手に入れることができるかも。

 

若いころは「おどろおどろしくて」避けていたこの『檀拏幢』

 

……感情に流されて失敗の絶えない私にとっては、常に心の中に持っておきたい『幢』と今は感じている。

 

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「何も出来ない」なんて幻想を捨てる

「ゼロか百か」

 若かったころ(実は私にもあったんですよ?若いころが……)、時に万能感で「俺ってすごい!」と思っていたかと思うと、ちょっとしたことで「俺って何をやってもだめだ」とどん底まで落ち込む。

 そんなことがよくあった。

 つまり心の振り子が端から端までいつも振り切ってしまって中間がない。つまりゼロか百か。選択肢が見えなくなってるんですよね。いわゆる視野狭窄を起こしている。

 しかし、それから数十年も経つと「自分の能力」というものが概ね分かってくる。何でもかんでもできる訳がないし、かといって得意なものが全くないこともない。

 最近では、振り子は左右に振り切ることなく正しく振れるようになったのかな、と思う。

 だからかつてのように「万能感」に溺れることもないし(そんな自分は何でもできる天才ではないことを知っている)、かといって「全てダメ」という理由でどん底まで落ち込む必要がないことも分かった……まあ、些細な事で落ち込むことは未だに日常茶飯事だが(苦笑)

 「自信」と「慢心」は表裏一体。

 だから「万能感」までいかずとも自分の能力を過大評価して自信過剰になってしまうリスクはある。

 ただ、人生を前向きに生きていくため、自分の長所についてはまず「自分で気づいて」「「自分で認めてあげる」ということを特に意識しないと、途端に生きづらくなるように思う。

 特にこの現代において「生きにくい」と感じている人の多くは「能力がない」ことよりも(そんな人はいない)「自己肯定感が低いだけ」なのは間違いない事実だと思う。

 「ストロングポイント(長所)は誰にでもある」

 皆そんなことは知っているはずなのに、なぜか「自分」にはそれが該当しないと思ってしまっている人が意外に多い。

 問題はそのストロングポイントに気づけないと自分は無能と思ってしまって、自己肯定感が下がってしまうという、そのことが問題なのだと思う。振り子がゼロ側に振り切れてしまっていて、それに気づけない。

 幸いにも、自分の長所に気づけた人はおそらく私なんかに言われないでも積極的に「その長所」を発揮できる「行動」を起こしていることと思う。

 私は場合では、割と「言葉」を使うのが得意なのでこんな風に「ブログ」を書いたり、仕事では積極的に「スピーチ」をする機会を増やしたり。

 この歳になってつくづく思う事……「何でも出来る」なんて幻想は捨てる。しかし「何も出来ない」なんて幻想も捨てる。

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 そんなことより早く自分のストロングポイントに気づく。そして行動する。

 今どきの言葉を使えば「選択と集中」というありふれたビジネス用語になってしまうが、仏教的には鎌倉仏教の「選択 (せんちゃく )と専修 (せんじゅ)」かな(ちょっと違うか?!)

 また、我々のような年長者が振り子を左右に振りまくって「生きにくさ」を感じている若者に出合ったなら「その人の長所」を教えてあげることだと思っている。そして場合によっては「短所」にも気づかせてあげて「短所を伸ばす」のか「長所で勝負するか」という選択肢があることを教えてあげる。

 私の周りには若い営業マンが多くいて、一緒に仕事をする機会も多い。でも話をすると有名大学出身で本来頭もよくて優秀なはずなのに「営業向きでない」という理由で、「できないやつ」というレッテルをはられていく姿を何度も見てきた。だから私はそん若者を見たらお節介でも本人に「別の道」を選択するようにアドヴァイスするようにしている。

 自分の息子と同じ年頃だからほっておけないというのもあるんだけど(笑)


 だから皆さん(特に若い方々……読者にいるのかな?)「何でも出来る」なんて幻想は捨てる。しかし「何も出来ない」なんて幻想も捨てる。

 

 これが、今日のおっさんからのお節介なアドヴァイスです(^^)

 

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繰り返しに「何か」が宿る

 途方もない繰り返しで目に見えない「何か」が宿る。

 これは私が大学時代に中国武術の型をひたすら繰り返していた時に「感じた」こと。

 

 私はご承知の通り?武道・格闘技が好きなので、YouTubeでもボクシングの井上尚弥選手だとか、キックボクシングの那須川天心選手だとか、総合格闘技の朝倉兄弟とかの動画は結構好んで見ていたりします。

 今、名前を挙げた選手はみな「格闘家」ということになりますが、今日は冒頭に書いたことを少しでも感じていただきたくある「武道家」の「型」の映像を紹介しようと思います。

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 伝統空手の界隈では、有名な動画です。武道経験がない人も是非、最後まで観て「感じ」てほしいと思います。私はこの動画を初めて見たときは打ち震えるほどに感動し、自然と涙がこぼれました。

youtu.be

 ブルース・リーはいみじくも映画の中で「Don't think! Feeeeeeeel!(考えるな!感じろ!)と言いました。有名なセリフですね。

youtu.be

 この「型」の動画を見ると、「速い」とか「力強い」とか「切れが凄い」とかではない「凄み」のような、また「凛とした何か」のような「佇まい」のような……そんなものを感じませんか?最初のお辞儀からしてもう違います。

 この数分の型の中にとてつもない数の繰り返しが作り出した「何か」が宿っていることを確かに感じませんか?

 きっとロボットが同じ動作を同じように再現することができても「それ」を感じることはないような気がします。

 

「繰り返しの中に何かが宿る」」

 

 これは今でも割と信じていて、ただ動作を繰り返すだけだとしても、必ず「それに付き合っている」がそこに存在していることが私は肝だと思っています。もちろんその時の集中力とか気持ちの持ち方でその「心」の状態は一様ではないと思いますが、それでもそのような心の「質」と別に費やした「時間そのもの」が単純に効いてくると私は思っています。「心の蓄積」とでも言いましょうか。

 

 密教の行者は仲介者であって「自分が何とかする」世界ではないと教わります。だから上述した型の繰り返しのことを密教の行に当てはめて「行を数多く繰り返すことで自分に何かが宿る」という発想は間違っているのだと思います。

 しかし、「そういう何かを期待する」という発想を持たない限り「ただ覚えました」で良しとせず、只管「繰り返す」ことで「その行とともに長い時間を過ごす」経験は必要かな?と思ってみました。

 

修行者の皆さん、どう思いますか?(^^)

 

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鎌倉の美しい仏像たち~少年の初恋!?

 今日、押入れを整理していたら、仏像マニアだったころ(今もか!?)、夢中に買いそろえた鎌倉の仏像写真集が沢山出てきた。

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 「なぜこれほどまでに鎌倉の仏像ばかり!?」

と思われる思うが、もちろん理由はある。

 実家は埼玉県。仏像が好きになった小学生時代。そうやすやすと京都、奈良には行けなかったが、ギリギリ鎌倉へ足を運べたのだ。

 そして、仏像鑑賞で鎌倉へ通う中、中学時代に衝撃の仏像に出会う。

 それが鎌倉二階堂にある「覚園寺」薬師三尊像の脇侍である日光菩薩だ↓

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(引用:佛姿写伝ー鎌倉 駒澤晃写真集 神奈川新聞社

 恥ずかしげもなく言えば、このお像に「恋をした」と言っていい。

 しかも当時、中学生だからきっと初恋だ(笑)

 以来、とにかくこのお像が好きすぎて、このお像の写真が載っている写真集を集めたら上述のごとく大量の鎌倉仏像の写真集がそろってしまったという訳だ。

 中には一冊2万円する本もあるので結構な出費だった。

 

 さて、さすがにこの歳になると(そして仏教に帰依する今となっては)、少年がするような「仏像に恋する」という感覚は持ち合わせていないのだが(寂)、今日は昔を懐かしんで時間がたつのを忘れてこれらの仏像写真集のページをめくっていた。

 

 その中で、上述の日光菩薩以外にも当時好きだった、鎌倉のお像をいくつか紹介したいと思います。当時の自分の好みがよく理解できるのと、また、自分で拝むようになった今、そして稚拙ながらも自身で仏像を作るようになって当時の「好み」の影響を色濃く受けているなあ~と改めて思ってみたりする。

 

東慶寺水月観音(&もうひとつの水月観音)」

https://tanosii-kamakura.jp/pin/1502/high/1424227858.jpg

 言わずもがなですね。おそらく鎌倉の仏像ではダントツの人気だと思います。きれいな女性にも見えますが、イケメンな男性にも見えるので女性にとても人気の観音様ですね。妻「蓮奈」も大好きなお像です。

 ただ、当時あまのじゃくだった私は実は「もう一つの水月観音」のほうが好きでした。これは同じ東慶寺にあって宝物殿に安置されている像です。

 以下説明文とともにその写真を貼っておきます。

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(引用:佛姿写伝ー鎌倉 駒澤晃写真集 神奈川新聞社

 

光明寺 聖観音菩薩坐像(阿弥陀三尊の脇侍)

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 これは上述の覚園寺の薬師三尊像と共通点が多く、よく比較されて紹介されます。三尊像にもかかわらず脇侍の観音像が単独で冊子の表紙になるのもうなずける美しいさですね。

 

九品寺 勢至菩薩阿弥陀三尊の脇侍)

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(引用:佛姿写伝ー鎌倉 駒澤晃写真集 神奈川新聞社

 おそらく修繕されているようですが、とても美しいですね。

 

 また、できたらこんな感じで鎌倉のお像を紹介する機会もあるかもしれません。

 今日のところはここまで。

 

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猫に学ぶ「よい環境となれ」という話

同い歳の二人。白猫の「みいこ」と、三毛猫の「檸檬

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「きっと檸檬の方がストレス多くて早死にしちゃうよね」

 この子達の行動を見ていて、よくかみさんがそんなことを言う。

 「檸檬はストレスが多いから」

 檸檬は未だに「抱っこ」をさせてくれません。むりに捕まえでもしたらダッシュで逃げてから距離をおいて「シャーッ!」と威嚇の声を上げるに違いありません。

 野生なら檸檬のこの行動は大正解。野性味を残した、たくましい子だ。

 でも、飼い猫にあってはこれでは明らかにストレスが多くて「生きにく」と思う。

 生まれつきの性格なのか、幼猫時に怖い思いをしたのか……。

 理由はわからない。

 それに比して、みいこは「抱っこ」を拒むことはまずない。また寒い季節は「暖」を求めて自分から腕の中に入ってくることすらあります。

 飼い猫としては「得する性格」なのは間違いなくみいこ。

 つい先日ちょっとびっくりしたことがありました。

 みいこの「抱っこ」で腕が疲れるとよく安座(あぐら)をしている両足の上にみいこを置くのですが、それでもみいこは足の間にすっぽり納まって逃げる気配を見せません。そんな時、私はスマホをいじったり、本を読んだり、お茶を飲んでいたりと作業をするのでうっかり「肘」がみいこの「頭」に「トンッ」とぶつかってしまったことがありました。

 万が一、これが檸檬だったら激怒間違いなしです(まあ抱っこさせてくれないのでこのシチュエーションは起こり得ませんが……)


 すると、みいこは「何事だ!?」とびっくりして「キョロキョロ」を首を回すのですが、最後まで「私がやった」とは思わないんですね。だから私の足の間からは逃げようとしない。

 「まさか人間が私を攻撃するはずがない」

 きっとそう思っているのだと思いました。驚きの信頼ですね(笑)

 もしかするとみいこには「攻撃される」という概念そのものがないのかもしれません。だとすれば野生では絶対生きていけないですね(笑)

 ……しかし攻撃されることを知らないって幸せかも、とも思いました。


 檸檬はみいこのような「楽に生きられる」性格に変わることはできるのでしょうか?

 動物には「自我はない」と言われますから、自分でそれに気づいて「性格を変えよう」なんてむろんできやしませんね。

 だとすれば、檸檬が生きやすい人生を歩むための最後の砦はやっぱり「人間」なのだと思う。

 飼い主である私が、かみさんが「人間は怖くないんだ」という経験をしつこく、しつこく条件付けしてあげるしかない。

 みいこのように「まさか人間が攻撃するはずがない」というところまでは無理かもしれないけど………

 それでも、たしかに檸檬が我が家に来た当初よりはだいぶ「距離感」は近くなってきている。

 つまり「変われている」という事実は確かにある。

 そんな檸檬を見ると「やっぱ環境は大事だよな」を改めて思う。


 人間さまの世界でも、時に「環境のせいにするな」「自分が変われ」「置かれた場所で咲きなさい」と叱咤激励することがある。

 確かに前向きに生きていくパワーのある人にはとても力になる言葉かもしれない。事実、それで勇気づけられる人もいるでしょう。

 でも「それでは生ききれない」人もいる。

 「檸檬」への関わり方を模索するに、やっぱり「人間」は「環境」として「外部」からしか関わりようがないことを思い知る。

 そして、これは何も「猫」ばかりではないと思った。人が人に接するときそれは「外部」の「環境」としてでしかない。でも逆にまた私たちが「外部」から「環境になって」人を救える事実もまたあるのだということ。檸檬ですら成長を見せてくれるのですから。

 諦めずに「よい環境」になることで救えることもある。

 また猫に教えられた(笑)

★みいこの前では唯一リラックスできる檸檬

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「蛇と龍」談義

 同期の兄弟弟子とは、毎月一度の例祭では概ね顔を合わせるので色々情報交換をする。

 みな「個性的」なメンバーが多く、それぞれ「得意不得意」も違うので、この情報交換の場は色々と勉強になる。

 つい先日の例祭では、ある同期メンバーが多頭の蛇のお像をお祀りすることになった。

 話は自然、その話題になりました。

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Oさん

「龍の元はナーガ(蛇)でイコールって考えることもあるけど、蛇だとオドロドロしい感覚がどうしても伴うよね?」

「心理学の理屈で言えば、原始的な形をした生物ほど、そのイメージの集合無意識は深いところに存在するから「怖さ」「不気味さ」を感じる可能性は高いよね」

Nさん

「原始的な形って例えば?」

「蛇もそうだし、分かりやすい例では毘沙門天の眷属のムカデかな……人間の姿かたちから遠ざかれば遠ざかる程、表層意識から離れるから、自然深いところでアクセスせざるを得なくなって「怖さ」「不気味さ」と結びつきやすいのだと思う」

Nさん

「へえ~、それって深い方が「怖い」けど、同時に「強い」ってことでもあるんだよね?」

「ああ、確かにそうかも。さすが鋭いね(笑)」

Mさん

「なら龍って蛇にある「怖さ」と「強さ」のうち、「怖さ」を封じるイメージとして存在するのかもね。蛇が裏の顔なら龍は表の顔。だから龍神って神仏としては「蛇」よりも人が近づきやすい存在としてある。だから、とっつきやすくて龍神は人気なのかも」

 まあ、皆思い思いの「感覚」で話しているだけなので、正解かどうかなんてもちろん分かりませんが、こうやって皆で意見を出し合うと存外に面白い「答え」が出てくるもので興味深いです。

 

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なぜ密教を選択したのか?

 なぜ密教の修行をすることを選択したのか?

 私や周りにいる上座の方、同期の兄弟弟子と話してみても、その答えは決して同じではなくその思いは「いろいろ」であることが分かる。

 私は場合どうだったのか?という事に関して割とはっきりしている。

 それは「その決意」をした時が、前のブログを書いている時期で、そのことをしっかり記事としても書いていたので私もよく覚えている。

 当時は、恥ずかしながら「世のため人の為」ということを意識はしておらずただただ「もっと拝みたいから」という以外に理由はなかったと記憶している。

 もちろん「拝む」ということは密教をせずとも可能ですね。

 でもなぜ「密教」を選択しなければならなかったのか?

 それは私が密教の行者でなければ拝めない神仏を拝みたくなってしまったからです。

 具体的には以前のブログにも記事にしたのですが、摩多利神(七母天)の掛け軸を手に入れた時、はっきりと師僧からは「これはあたなが持つべきものではない」と言われました。だから即刻「発遣(魂抜き)」してもらい「むやみに開けないようにしまっておくように」言われました。

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 この時私は「ああ、それなら仕方ない」とはならずに「だったら密教をやらねば」と思ってしまったんですね。

 誤解してほしくないのだけれど、別に私自身が摩多利神のご後利益が欲しかった訳ではありません。疫病神である摩多利神に火急に助けてもらう状況でもなかっですし……ただ理由もはっきりせず「拝みたい」しかなかったように思います。

 この「きっかけ」となった「拝みたい」という理由は正しいのか?正しくないのか?ということを考えた時に、人によっては「それはただの自己満足じゃないか!けしからん!」とのおしかりを受けるかもしれません。

 ただ「きっかけ」に関しては「大正解」でスタートするのは結構難しいのかな、とも思います。だって誰だって最初は「無知」からスタートする訳ですから。

 事実、きっかけがどうであれ、修行の過程で「その人なり」の「試練」を突き付けられて(それは大抵、相当しんどい)「その人のなり」の「方向性」が示されていくように思います。私と、また周りを見ていてもつくづくそう思います。

 自分の「間違い」に気づかされては「学んで」「直して」の繰り返し。未だに私なんかは間違いに気づけなければ、いつでも神仏から「終了」の「引導」を渡されかねないとう恐怖感すらあります。

 だから常に「感度を上げて」「謙虚に学ぶ姿勢」は忘れず「生涯修行」の覚悟は必要不可欠だと思っています。

 ただふと自分の本音を探っていくと、そんな「学び」を多く経験しつつも(もう摩多利神に限ったことではなく)「もっと神仏を深く拝みたい」という気持ちは自分の中心に依然としてあることに気づかされる。

 自分が進むべき道が示されて、そのために「~ねばならない」ということをやらねばならないとき……「もっと拝みたい」という気持ちがそれを後押ししてくれる。

 だから「この想い」は大事に胸に抱えて、この先も進んでいきたいと思っている。

 たとえそれが「自己満足」でも……

 

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