地道に密教修行

天台寺門宗の祈祷寺院にて密教の修行しております「亮和(りょうな)」と申します。修行、信仰を通じて感じたことなどを綴っていきます。※過去(本格的な修行前)に「地道に観音信仰」というブログを運営しておりました。どうぞ気楽にコメントいただけると嬉しいです!

悲しさとは違う「喪失感」の正体

 愛犬「るびぃ」への沢山のお悔みのお言葉、改めまして感謝申し上げます。
 二夜、「るびぃ」の亡骸と共にしましたが本日、無事に荼毘に付すことができました。

 恥ずかしながら「るびぃ」の死によって、この歳ではじめて「喪失感」という感情に襲われました。

 近しい人の死としては、母の死を経験していますが、「悲しい」という感情はもちろん強烈にあったのですが、正直今回のような「喪失感」はなかったように記憶しています。

 誤解のないように言っておくと、これは「母よりも犬の方が大切だった」という話ではありません。人生の「別れ」としては母との死別の方が当然、より悲しいものでした。

 では、今回の喪失感は何なのだろうか?と考えてみる。

  いや、考えるまでもなくすぐに答は出た。 

 喪失感というのは、日常の自分をどれだけ急激に失うか、なのだと思った。

 母とは私が就職して他県に赴任して以来、年に何度も実家に帰るとはいえ一緒には暮らしてはいなかった。つまり母を思い出すことはあっても「私の日常に積極的に関与する」ことはなかったのだ。

 しかし「るびぃ」は、と考えると……

 朝起きれば、尻尾を振って餌を催促する。だから寝坊すればすぐに「るびぃ」の餌のことが気になる。妻が我々の食事をテーブルに運べばいつ「るびぃ」に横取りされるか注意深く警戒しなければならない。おしっこをすれば、猫がいたずらする前に(愛猫檸檬はなぜか「るびぃ」のしたおしっこのシートを丸めたがる)かたずけなければならない。夕方になれば「るびぃ」の散歩があるから常に天気が気になる。妻と外出した時も「るびぃ」の夕食時間(16:00)を常に意識して帰宅する習慣になっている……etc

 

 数え上げればきりがない。そんな手間のかかる「ペットの存在」に辟易することも多かった。

 最近では「猫の方が手間がかからなくていいね」なんて皮肉を「るびぃ」に投げかける機会も多かった(もちろん「るびぃ」がその言葉を理解はしていないが)。

 だからこそ……だったのだ。

 日常から「るびぃ」という存在がいなくなったできた物理的な時間もちろん、それよりも圧倒的な「心のスペース」が私の中に(そしておそらく妻はもっと)出来てしまった。

 もちろん愛犬が無くなるのは悲しい。でもそれよりも人間に大きなインパクトを与えるのは、いままで当たり前に毎日存在していた「るびぃ」に対する「私の時間、私の意識」の行き場がことごとくなくなってしまったことだと気付いた。

 養老猛司氏が番組で「(他人の)死を経験すると、自分の何かが死ぬ」と語っていたことがあった。その意味をようやく理解した。

 その養老先生が愛猫「まる」を失った後のインタビューを読めば……「ああ、そうだな」とつくづく思う。

「もともと、まるは動かない猫でした。最期にわかったけれど、心臓が悪かったからかもしれません。動きが鈍くて、抱かれるのが好きじゃなかった。走り回るっていうこともなくてね。事件は起こさないタイプで、食べ物以外に興味なし。朝起こしに来るのだって、お腹が空くからでね。何かこちらに働きかけをしてくるっていうことはとにかくないから、こちらが常に気に掛ける方になっていたんですよ。まるはどうしているか、気にするのはいつもこっち」

 養老さんは、まだまるが生きている頃の感覚が抜けない。生前は音を立てないで縁側のそばを歩くようにしていたが、いまでもついそうしてしまう。

「もうそんなことする必要がないことに気付いて、その瞬間に寂しく感じます」

引用元:一般社団法人共同通信社

 

 「ペットロス」という言葉、「そんな大袈裟な」なんて気にもしていなかったが、ペットとは両親、子供とは違い必ず日常を共にする存在。

今にして思えば、ロスになるのは当たり前だったと認識を改めた。

 14年間、私の日常に入り込んでいた「るびぃ」の面影。それが私の日常から無くなるまでは、もうしばらくかかるのだろうと思います……

 

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ご報告 愛犬るびぃのこと

 先日、記事にした回復傾向だった愛犬るびぃ。昨日の昼間は、いつになく絶好調だった。久しくなかった「餌の催促」に元気に鳴いた。
散歩も足腰が大分戻って足取りも軽かった。

「ああ、もう直ぐ全治するかも」

 そんな期待をもしていた。

 そしてどうしても取れなかったオムツも外して元通りのるびぃが帰ってきたと思った。

…… …… ……

 夜、本尊供と理趣分の行を終えてリビングに戻るといつもは寝て静かしているはずのるびぃの「柵の中」からガチャガチャと異音がする。

「おや?」と思い柵の中にいる「るびぃ」を見て言葉を失った。

 2ヶ月全く出ていなかった「てんかん発作」をおこしてきたのだ。しかも、口から溢れる「泡」の量からしてかなりの時間発作が継続していることがわかった。

 重篤な重積発作。

 すぐに夜間診療を行う動物病院へ直行した。

過去に起こしたてんかん発作は数分で回復していたが、今日に限って30分以上も止まらない。

 「てんかん発作では死なない」という解説をよく見るがそれは「数分で止まる」発作のこと。30分も止まらない重積発作はその限りではない。

 ナースに呼ばれて診察室に入って、ドクターが必死に心臓マッサージをしている姿を見てすべてを悟った。

 7/9午前1時57分。

 るびぃは旅立った。

 今日元気だったのは、最後だから元気な姿をれせてくれたのかもせれない。

 でも元気だったからそこ「なんで?」と、全く受け入れられなかった。

 ビーグル犬は犬種の中でも「体臭」強い。

「今日もるびぃ臭いな」

昔は何度もそんなことを言って部屋に入った。

 今日、るびぃの亡骸と部屋に入ると、そんなるびぃのニオイがした。きっとこの臭いも日に日に無くなるのだろうと思うと、以前はあんなにくさかったその匂いを嗅いで、とどめなく涙が溢れた。

 ただただ楽しい時間をくれてありがとう。

 その思いしかない。

 明日の火葬まで、できる限りの弔いをしたいと思う。

在りし日のるびぃ

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持物にみる「剣」と「刀」の違い

「左手持如意宝珠、右手把大刀」

 先日、少し話題にした荼枳尼天のお経「刀自女経」の一節。

  如意宝珠を持し大刀を把むと読める。

だから 手元にある破損した荼枳尼天のお像を「刀自女経」のお姿に修繕する際に、結構悩んでいる。

 理由は右手に持つのは「剣」ではなく「刀」になっているから。「書き間違え?」かもしれないし、「刀」も「剣」も区別していない、という線もある。

「刀も剣も似たようなもんだろ?」

ですか?

……果たしてそうだろうか?

 手元に「諸宗仏像図彙」という江戸時代の「仏像事典」がある。これは有名な書物なのでご存知の方も多いと思うが、なんと800もの図像が紹介されている。

 この「諸宗仏像図彙」の掲載されている「刀」と「剣」を持つ神仏を注意深く見ていくと幾つかのことに気づいたので列記してみる。


①仏(如来)・菩薩は「剣」を持つことああっても「刀」は持たない。範囲を「明王」まで 広げても「刀」を持つのは「六字明王」というかなり特殊な明王様だけである(六字明王については過去に記事にしましたね)
②天部になると「剣」「刀」をもつ尊格が共に存在する
③「剣」の場合、その剣は必ず「三鈷剣」の形状をしていて、普通の「剣」を持つことはない。
④③とは逆に「刀」の場合は普通の「刀」であって「三鈷刀」というものは存在しない。

 ここから考察できるのは「剣」は三鈷剣=宝剣(利剣)というより宗教的「法具」としての意味が多く付されており、「刀」はより武具としての性質を強くのこのしている。ゆえに仏・菩薩は「剣」しか持たない(あくまで私の考察です)。

 ちなみに、戦闘用の用途としての「刀(カタナ)」と「剣(ツルギ)」との違いは皆さんご存知であろうか?

 私は特に刀剣に詳しい訳ではないが、武術的な観点でなら「刀」は「斬る」ことに優れ、「剣」は「突く」ことに優れるということはよく聞かれる。

 日本武術は「日本刀」を使うので、「突き」もあるが「斬る」という動作が多い。これに比して「剣」を多用する西洋では「突き」の動作が多く、それはフェンシングの技が突きに特化しているのと無関係ではないと想像する。

 さて、荼枳尼天の持物の話に戻るが、日本の荼枳尼天が「弁才天」の容姿に影響を受けている(派生してる)ことは周知のととだと思うが、ではその弁才天が「刀」と「剣」のどちらを持っているか改めて確認しるとまた新たな問題にぶち当たった。

 二つの八臂弁才天の図像を紹介する。この弁才天、持物(手に持つ法具など)が随分違う。

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参照引用:「諸宗仏像図彙」㈱賢美閣 復刻版

 向かって右のお像の方が、皆さんもなじみがあると弁才天で、左の弁才天は金光明最勝王経で説かれる弁才天のお姿。時代的には左の金光明最勝王経の形が古い。

 「刀」「剣」の持物に注目すると、なんと方や「刀」で方や「剣」であるのだ。具体的には「金光明最勝王経」の弁才天は「刀」、通常の八臂弁才天は「剣」を持つ。

 冒頭に戻るが「刀自女経」の記載は「大刀」である。弁才天には「刀」も「剣」を持つ容姿が存在する。

 さてどうしてものか?

 ちなみに「お経のタイトル」にある「刀自」だから「刀」という訳ではおそらくないようで、「刀自」とは『女性に対する古風な尊称。現代でも旧家の女性に対して使われる。古代の后妃(こうひ)の称号の一つである夫人(ぶにん)も和訓はオホトジである』とあるように刀とはどうも関係がなさそうだ。

 先に紹介した弁才天の持物を再度確認すると「如意宝珠」を持っているのは通常の八臂弁才天。だから「剣」「如意宝珠」という「組み合わせ」とうい観点でみるとやはり「刀」を持つ弁才天はなく後世に登場した通常に弁才天のように「剣」であることが正しいように思える。

 そこであらためて「宝珠」「剣」という組み合わせて、仏教の教義にあたると例えば「宝剣」「宝珠」を持つ虚空蔵菩薩では虚空蔵菩薩が右手に持つ剣は、悟りを求める菩薩の徳目のうち智慧の資糧、左手に持つ宝珠は、悟りを求める菩薩の徳目のうち福徳の資糧に対応するとされる(「両界曼荼羅の仏たち」田中公明著(春秋社)」とある。 

 これを「祈願」という場面に落とし込んで解釈すると宝珠のもつ「福徳」の力で私利私欲に走りがちなところを「剣」による「智慧」の力で制御する……なんて解釈もできそうである。

 とすると「宝珠」を持つ荼枳尼天は、天部とはいえ上述したように天部が武具として持つ「刀」より、仏・菩薩が「智慧の象徴」としてもつ「剣」を持つ方が正解という気がする。

 事実、「刀」を持つ荼枳尼天像を見たことはないので「剣」にするのが限りなく正解な気がしています。

……ということで少し話が「マニアック」になってしまいましたが、「剣」「刀」一つとっても調べると知らないことだらけであることを痛感する。

 「剣」「刀」という一見小さな違い。されどその違いは案外深いのかもしれない。

 皆さんも今後仏像を見るときにはその違いに注意してみることをお勧めします(^^)

 

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るびぃ……まだまだ生きるぞ!

 愛犬「るびぃ」が、脳の疾患で重篤な発作を起こし、「もうダメかも」と覚悟した事を、記事何度か触れた。
ryona.hatenadiary.jp
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  丁度、不動尊華水供の加他行修行中だったため急遽「るびぃ」の病気平癒を願目に加えて祈った。

当時、何とか発作は無くなり急は乗り越えた事を実感した。しかし後遺症として「認知症」を患い「徘徊」「夜中の奇声」「飼い主がわからない」「糞尿のコントロールができない=オムツがはずせない」等の症状か残った。

  これついては「助かっただけでも」と御の字と感じていた。

しかしである……

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 散歩を楽しむまでに回復しています。ほとんど「何も理解できない」程に認知症状が進んだと感じてていたが、散歩のリードを見せると尻尾を振って喜び、そして一番驚いたのは、ご飯を貰うときに昔の常だった「おすわり」「お手」をするようになったこと。

 このまま悪化していくものと諦めていたが、ここまで来ると「完治するのではないか?」と驚くしかない。まだおむつはしているが、よく見ると「オシッコ」もいつも「同じ場所」に移動してやっているのでもしかするとオムツがとれる日が来るかもしれない。

 お不動さまに助けていただいた「るびぃ」。

 簡単には、人生(犬生)を諦めてない。

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一日一回だけ

 昔、武術の技を習得するためには、一日何回の反復練習が必要なのかよく考えた。当時、結局結論は出ずに「なるべく数多く繰り返すことが肝要だ」という大雑把な理解でいた。

 皆さんも何かを習得するためには悩まれた事あるのではないでしょうか?スポーツ、習い事、語学、etc……
 私は元来「多趣味」なので何かを始めてはすぐ飽きてしまうという悪癖がある。「面倒になってくる」「上達が目に見えない」等が継続しない理由でしょうか。
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 そんな私も、最近になって全く別の考えをするようになってから少しづつその「悪癖」が改善されつつある。それがタイトルにある「一日一回でいいじゃないか?」というアイデア。  
 「え?一回だけ?そんな楽でいいの?」と思われるだろうか?
 ただ、これには重要な条件がある(と、私は思っている)。
 それは「毎日欠かさない」ということと「継続し続ける」ということ。
「継続」がとても重要なのわかっていても、いかにそれが難しいかは私が今更言うまでもないが、その継続を可能ならしめる最大のコツが「一回だけやる」だ。

 一日一回なら、例えば武術の「蹴り」なら数秒で終わる動作ゆえ時間的に「できない」は、絶対に言い訳にはならない。実際、どんなに忙しくても、どんなに疲れていても「今日だけはやらず、明日またやろう」の言い訳を回避しくれる。
 継続が途切れる最大の原因は何だかんだ「理由」をつけて「今日だけは休もう」とやってしまう事。どんな理由であれ「今日だけは」とやってしまうと、次もなんだかんだ「理由」をつけて休むのが人間の弱さです。だからいかなる理由があれ「休む」理由を排除する。そのための最大の工夫が「一回だけ」。
 私はこのおかげでいろんな事が継続できるようになった。「一回だけ」なので成長は遅々としているが、ポイントは「それでも必ず成長している」ということ。

 と、言う事で……さあ、皆様と今から「一回だけ」何かをはじめて見てはいかがでしょう?

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仏像修繕にみる「失錯行為」と「夢」の情報

 「尼僧・漫画家の悟東あすかさんの話ではご神仏を描くと、ご神仏から色々と描き方に注文が入るらしく……」とコメントで教えていただいた。

 これに関しては「あ、わかるな」と思った。

 私レベルが何言うぞ?と思われるかもしれないが、神仏相手だ、個人的には「そりゃそうなるでしょ?」という理解をしている。

 精神分析学に「失錯行為」という概念がある。

 これは自分が意図しない「言い間違え」「見間違え」「行動」をとってしまうこと。むしろ自分の意志とは正反対のことを「うっかり」やってしまうとき。こんな時は精神分析学は意識に抗おうとする「無意識の声」の存在を指摘する。

 私は馬頭観音像の修繕をやっていた時に、この「失錯行為」を何度も経験した。具体的には、「彫り損ねる」ということが起きた後によくよく調べると「間違った形」をつくろうとしていたということが何度も起きた。

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 時にこのブログでも紹介したように「夢」でそれを訴えてくることもあった。

ryona.hatenadiary.jp

 これも神仏の声なのか、私の忘れていた無意識の情報が「失錯行為」や「夢」として表にでてきたのかもしれない。

 しかし、無意識のその先に神仏が繋がっているとするなら、わずかでも神仏の「声」を拾っている可能性もゼロではないと考えている。

 私は仏像修繕をするときは必ず「本堂」で行い、修繕途中のお像も関らず本堂に安置しておく。修繕中とはいえ神仏の身体に「刃」を入れることもあるので自分の中の最低限の「決まり事」としてそうしている(あくまで個人の決まり事)。

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 必然的に行中はその修繕中のお像も眼中に入る訳で、そんなときにふと「○○をこうせよ」というイメージがふと湧き上がることもある。こんな時はそれが無意識の声だろうと関係ない。私はそれについては鵜呑みにすることはしなくともしっかり調べて修繕に反映しようとしている。

 そう言えば上述した馬頭観音の「舟形光背」だが、完成後「やり直し」のメッセージを貰ったような気がしたので現在修繕し直しています(汗)

 

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刀自女経

 得度して間もないころ、荼吉尼天をお迎えするにあたり師僧より「荼吉尼天尊・稲荷大明神礼拝次第」をいただきこの次第書にある「刀自女経」をよくお唱えするよういわれひたすらこの経を拝んでいたことがある。

www.yamasa-bunseido.com

 私がお迎えするお像の「お姿」が高松稲荷ゆえ法華経のいくつかの品も合わせてお唱えするのがよいとも。私は「荼吉尼天尊・稲荷大明神礼拝次第」に主だった法華経の品を加えて自分様に次第書を作って勤行していた。

 

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 この「刀自女経」には荼吉尼天のお姿や特徴を説明するくだりがある。そのお姿は少し一般的な荼吉尼天にはない特徴がいくつか書かれている。

 皆さんもそうだと思うが、お経の「お姿」のくだりを毎日読誦していると自然そのお姿のイメージが頭の中に定着してくる。だから「刀自女経」を空で唱えられる程にお唱えした私は荼吉尼天というとこの少し特徴的な「刀自女経」の荼吉尼天の姿を思い浮かべてしまうようになっていた。

 

 さて、先日、(おそらく)荼吉尼天と思われる破損したお像を手にした。顔・胴体・何かを跨いでいる脚しかないそのお像は元がどんなお姿だったかこのお像からは分からない。ではどんなお姿で復元するか?と少し悩んだ。

 しかし私の中に一番強烈にある「刀自女経」のお姿しか選択肢はないように思われた。お像や仏画でもちろん多く荼吉尼天のお姿を目にすることがあるが、私が知る正式に典拠のあるお像のお姿は実は「刀自女経」しかない。

 お恥ずかしながらあれだけ読誦していた「刀自女経」は最近の行に圧されてお唱えすることがなくなっていた。だからこれを機にもう一度、使っていなかった次第書を引っ張り出して毎日「刀自女経」をお唱えすることにした。

 しっかり自分の中でイメージを持って作業に掛かろうと思う。かつてあれだけお唱えしていた「刀自女経」のお姿。

 いまようやくご縁ができたと思いたい……

 

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