准胝院のブログ

八王子市で准胝仏母を本尊とする天台寺門宗祈願寺院「准胝院」のブログです。准胝仏母祈願、不動明王祈願、人型加持(当病平癒)、先祖供養(光明供)、願いを叶える祈願(多羅菩薩)、荼枳尼天尊(稲荷)の増益祈願等

文殊菩薩と般若菩薩は同体?

 前回に引き続き、文殊菩薩シリーズ第二段。今回の話題もコメントでいただいた「文殊菩薩が覚母」と言われるように「仏母」としての属性もあるのでは?という質問について私なりに調べてみました。特に般若菩薩(般若仏母)との比較をすることで考察していきたいと思います。

 文殊菩薩というのは、仏像に詳しい方はご存知かもしれませんが「母」というよりは「童子形」が強調されます。儀軌にも容姿は「少年のように」となっています。

 文殊菩薩がなぜ「童子形なのか?」ということについては、スカンダとの共通点が指摘されています(参考:インド密教の仏たち 第三章「文殊」)。スカンダとは……

 以下ウィキペディア

「父はシヴァ、母はデーヴァセーナー(パールヴァティー)もしくはガンガー(パールヴァティの妹)で、代理父がアグニ、代理母がスヴァーハー。軍神インドラに替わって新たな神軍の最高指揮官となる。仏教にも伝わって韋駄天(異名クマーラからは鳩摩羅天)となった」

 スカンダとは仏教的に捉えると「韋駄天」であり「倶摩羅天」のことですが、文殊菩薩との共通点は「倶摩羅天」の方になります。倶摩羅天は孔雀に乗る六面の少年神であることは周知のこと。

ja.wikipedia.org

 倶摩羅天が文殊菩薩にどうかかわっているか?についてはこの記事の趣旨からは外れるので興味ある方は上述した著書に詳しいので是非読んでみてください。(下記リンク)

 さて、文殊菩薩が「少年形」であるなら般若菩薩=般若仏母であるとするとその印象は随分と違ってきます。

 ただ「持物」に注目すると、「梵経(般若経)」を持つという部分で文殊菩薩と般若菩薩は丸被りです。また、般若菩薩は胎蔵曼荼羅では持明院にその姿を見ることができますが虚空蔵院にいる慧波羅蜜菩薩が般若菩薩と同体とされ、この慧波羅蜜菩薩は文殊菩薩同様に「利剣」を手にしています。

 つまり「般若菩薩」と「慧波羅蜜菩薩」の持物を合体されれば文殊菩薩と同じになります。またチベット仏教の般若仏母の容姿を確認すると四臂で二臂は腹前で定印を結び、左手に梵経(般若経)、左手に金剛杵を持つ姿が確認できます。文殊菩薩でも青蓮華上に金剛杵を持つ像が多く作られていることからここでも共通点はあります。

(般若仏母画像リンク↓)

http://www.b-i-a.net/d-t-m/books/book38_3_gb.html

 そもそも般若菩薩がなぜ「仏母なのか?」という事に関しては、般若経では「般若波羅蜜を説く際に口から出た言葉そのものが仏の言葉であり、故にそこに仏が現れていることである」と説くので、つまり般若経を説けば仏が生まれる=仏の母という意味が付される訳です。

 だから般若経が尊格化すれば当然「仏母」になるのは全く自然なことと思われます。そしてその般若経般若波羅蜜ブッダの代わりに説くのが文殊菩薩でもあるので文殊菩薩も仏を生み出していることにもなる。だから文殊菩薩が「覚母」と呼ばれるもの全く不思議ではない。

 事実、少なくとも日本では「文殊菩薩」と「般若菩薩」が同体と見られていたとの記述がある文献を見つけたのでご参考までに引用します。

西大寺像(文殊菩薩)は経巻を持すという伝統的な形式を踏襲しているが、その経巻を蓮茎の上に載く形式をとる。この形式は「五字心陀羅尼品」には説かれず「文殊師利菩薩法」に説かれるものである。上半身はがい襠衣で覆い、腰には裙裳を着け、右足をはずして安座する。文殊菩薩の服制としては違例では上半身裸体の菩薩形が古い伝統的なものである。がい襠衣を着すことは、文殊菩薩を般若菩薩と見なし仏母としてはの梵珠菩薩として女性の服装がい襠衣を着すことによる(東海大学起要「文殊菩薩造立の一系譜 藤澤隆子氏 より引用)』

 淵源を探れば文殊菩薩と般若菩薩は確かに違うと思われますが、その属性(役割)の共通点がこれだけあれば歴史が下るにつれて同体に見られることになったのは大いに納得できますね。

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文殊菩薩と青蓮華

 先に多羅菩薩(ターラー尊)の記事を書いた際に「青蓮華」に触れました。

ryona.hatenadiary.jp

 その記事に「文殊菩薩も青蓮華を持つ」というコメントを頂いたのでそれについて少し調べてみました。

 文殊菩薩と言えば「三人寄れば文殊の知恵」という諺で聞くように「知恵」の尊格として有名です。

 そういえば先日山形の「置賜三十三観音巡り」を萬行する過程で「日本三大文殊」の一つである「亀岡文殊」を参拝するご縁を頂きました。

奈良県桜井市安倍文殊院京都府宮津市の切戸の文殊とともに、日本三文殊の一つに数えられる「亀岡文殊

というように京都、奈良と並ぶ文殊が山形におわすのにはビックリしましたが、やはり智慧の尊格として「学問の神様」として祀られていました(神様ではなく菩薩様ですが……)

 さて、そんな知恵の仏、文殊菩薩ですが仏教徒ならその「知恵」が実は「智慧」のことであって一般的に用いる「頭が良い」という「知恵」ではなく「悟り至るための智慧」とニュアンスがかなり違う事と、その智慧を「パンニャ」といってその音写が「般若」ということもご存知だと思います。

 その「般若」が尊格化したのが「文殊菩薩」と言えばもちろん間違いではないのだが、もっと直接的に「般若仏母」という尊格も存在するので「その違い」ということになると話がマニアックな方向に行くのでそれは次回するとして、今回は「青蓮華」について少し記したいと思います。

 さて「文殊菩薩」の持物といえば「利剣」「般若経典」「青蓮華」の3つがあると思います。青蓮華の上に般若経や金剛杵が乗ることもありますが、一番目につくのは「利剣」「般若経典」のような気がします。

 「容像学」的に見ると「利剣」を持つ文殊菩薩が登場するのは「密教以降」のようで、それまでの文殊菩薩は「与願印」「青蓮華+経典」という姿が一般的であったようです。

 つまり文殊菩薩は「密教以前」「密教以後」で容姿が変化しているということです。

 そうなると最初期の姿から「青蓮華」を持っているとなると「文殊」と「青蓮華」の関係性はより深いと想像します。

 しかしながら、色々調べてもその「青蓮華→智慧」の「淵源」にたどり着くことがなかなかできない。

 文殊菩薩と青蓮華のことを調べて出くわす文献は「密教経典(つまり変化後の姿)」
である「大日経大日経疏含む)」です。

大日経疏「具縁品」曰く……

「畫文殊師利。身鬱金色。頂有五髻作童子形。左持泥盧鉢羅。是細井葉青蓮華。(中略)青蓮是不染著諸法三昧。以心無所住故。即見実相」

文中にある「泥盧鉢羅」が「ウトパラ=青蓮華」のことですから左に手に持つと確かに書いてあります。

 しかしこれだけだと「青蓮華」がなぜ「智慧」に繋がるのかよく分かりません。

 その他「青蓮華」で文章を拾うと以下のような文言があるようです。

青蓮は智の働きが煩悩を克服する精進の徳をもつことを意味する

青蓮華は不染着の義なり

青蓮華は最勝(自己に打ち克つ)の故也

青連は菩提心が開花する勢と精進の徳を示す

 ピシャリなのは「智の働きが煩悩を克服する精進の徳をもつ」でしょうか。

 このように「青蓮華」が「智慧」なのかは「お経にそう書いてある」と言われれば確かにそれも一つの答ですがいまいちピンときません。

 そこでここから先は「想像たくましく」話をしたいと思います。

 多羅菩薩が青蓮華を持つ理由は「青蓮華」が「仏の目」と関係していることを前の記事で書きました。

 なぜ「目」が「青」なのでしょうか?

 そこで「目」と「青蓮華」をキーワードに調べると以下の文にたどり着きました。

「阿難は迦毘羅城の釈迦族の出で、釈尊の従弟でありました。生まれながらにして容姿端正、面は浄満月のごとく、眼は青蓮華のごとく、その身は光浄にして明鏡のごとくなり」

 阿難と言えば十大弟子中、多聞第一といわれました。当時のインドでは一般に学問は書物ではなく、師から弟子への口伝ですから、「聞く力がある=博学多識」ということを意味します。だから阿難は弟子画「青蓮華の如く」とあるのは、いろいろ想像を掻き立てます。

 つまり青い瞳の象徴として多羅菩薩、その瞳を持つ阿難の智慧の象徴として文殊菩薩とするとつじつまが合います。

 まあ、ここは私の想像の域ですが、皆さんはどう思いますか?

参考:なぜか青蓮華を持つのが普賢菩薩という十六善神図(文殊と普賢の持物が逆転している……割とこうなっている図が多いと聞きます)

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ちなみにインド人に青い瞳を持つ方が多くいるのはご存知の通りです。

 

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ワクチンの副反応について

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二日ほど臥せっていました。

 

原因は「ワクチン」の副反応です。

 

私はモデルナ社製のワクチンを接種したのですが、一回目は8/23、二回目が9/20、つまり一昨日です。

 

一回目は注射を打った側の腕が翌日かなり痛みがあり腕を上げるのがつらかったのですが発熱まではしませんでした。

 

ただ一昨日の二回目接種後、その日の晩から38度オーバーの発熱。今日の夕方まで倦怠感が抜けない程の副反応がありました。

 

今も少し頭痛が残っています。

 

ただ通常のインフルエンザや風邪の発熱とは違い、解熱剤が驚くほど効いて解熱剤が効いている間はかなり症状が軽減したのはよかったです。

 

個人的に私は「発熱」耐性があまりなくて、37度で動けなくなります。平熱が低い訳ではないのですが……よく38度オーバーの熱があっても普通に仕事をしている人を見かけますが私的には考えらない!(笑)

 

子供の頃は「根性がない」とよく友達からも言われていましたが、そうなのかもしれません!?

 

こんな私なんで例えば39度オーバーになると、そして成人してから何度か経験しているのですが、あまりの「つらさ」に発狂して精神が先にやられると思うほどでした。

 

だから割と発熱に対する恐怖心が強い方で、このコロナの副反応も打つ前には割とビビっていました。

 

だから上述したように解熱剤がよく効いてくれたのが救いでした。

 

ということで、多くの方は既にワクチン接種は終わっていることと思いますが、これからの方は今更ですが副反応への準備は事前にしておくこことを改めてお勧めしておきます。

 

具体的には「解熱剤」と「水分(アルカリイオン飲料など)」と栄養ゼリーなどは準備されているのがよろしいかと思います。

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荼枳尼天 完成

荼枳尼天、これで本当に完成とします。
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前回の画像からそんなに変更点はありませんが以下の点、修整しました。

①白狐の顔を朱を入れて、かつ額に紋様をつけました

②頭上の黄狐の顔を塗り直しました

荼枳尼天さまの胸に金、碧の模様を入れました

また、厨子への配置は通常正面だと思いますが「躍動感」を感じるには「斜め横」がベターかな?なんて思っています。

ちなみにかみさんに見せたら「怖い」と言われた……まあ、ある意味それはあってるかな。
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荼枳尼天は速い!だから優しい!?

荼枳尼天の験は「速い」と聞く。

なぜか?

『その狐は金翅鳥が翼をひと「はばたき」で一千里飛ぶが如く疾走する(其狐疾走如金翅鳥一翼翔一千里)


「刀自女経」に依る荼枳尼天が乗る白狐の描写である。

 狐の走力を「金翅鳥」に例えるのは不思議な感じがするが、とにかくとてつもなく「速い」というのが分かる。

 さあ、ここからは「想像力」を働かせましょう。

 なぜ荼枳尼天はそんなに急ぐ必要があるのでしょうか?

 私はそれは荼枳尼天という神さまが「はやく助けたい」という想いが殊更強いのだと想像します。

 荼枳尼天は「天部尊」という尊格の中においてもどこか「人に近しい神さま」という印象がある。……まあ私の思い込みかもしれないが!?

 また神さまをつかまえてそんな言い方をすするのはとても失礼だと思いうがどこか「人間臭さ」を強く感じる神さまに思えてならない。

 だから必死にお願いする「衆生」を見つければ、我先に白狐にまたがり「現場に駆け付ける」というイメージが思い浮かんでくる。

 荼枳尼天は数万の眷属を引き連れると聞く。でもそんな大勢の眷属の後から悠々と来るイメージではない。むしろ眷属が追いつかない程に先陣を切って突っ走っていく姿が想像されてしまう。

 そう思えば「速い」ということは「いち早く助けたい」ということであり、だとすればそれだけ「衆生想い」の「優しい」神さまだということだと思うのだ。

 荼枳尼天には「怖い」というイメージが付きまとう。でも敵弾の正面を自ら先頭をきって突破するような鬼のように怖い大将は、だいたい部下想いの優しい大将と相場が決まっている。

 今にして思えば冷や汗ものだが、昔のブログで「荼枳尼天は部下想いのレディースのリーダーのよう」と形容したことがあったが……実は当たらずも遠からじという気が今でもしている!?(冷汗)

 さて、昨日「完成間近」として紹介した、制作中の「荼枳尼天」は以前にも記事にした通り「刀自女経」という荼枳尼天のお経の記述を忠実再現した(↓ご参考)。

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 ただ、その「お経」では表現されない上述したイメージをこのお像にはふんだんに盛り込んだつもりでいる。

 例えば、白狐さまが小さすぎて「重そう」にしている荼枳尼天像をたまに見かけますが個人的には「これは速く走れなそう」と思ってしまうので思い切って白狐のサイズを大きくしました。参考サイズは実はもののけ姫のサンがまたがる山犬です(笑)。最初大きすぎるか?とも思いましたがお経の表記も「大白狐」となっているし、いまではこの大きさがむしろ普通に思えています!?

 また、「より速く走れる」という意味で白狐のポーズも特徴を持たせました。これは3秒で100kmに到達するという驚異の加速力はフェラーリを超えるという地上最速チーターのトップスピードの画像を大いに参考にしました。(狐はイヌ科でチーターはネコ科じゃん!なんて野暮なツッコミはしないでね?狐は猫の特徴を多く持つと言われているし。狐が持つ目が猫目だったり大きな尻尾でバランスととりながら走ったりは猫の特徴)

 つまり極めて個人的な「イメージ」を盛り込んでしまっていますが、「儀軌」に忠実に作るのは最低ラインとするなら、その先では「拝む人」のイメージを乗せることも意味があるという気がしている。

 その方が「拝む側」としては「感応」しやすいと思うから。

 どうやっても通常の神仏のイメージは「大きすぎて」人間がアクセスするには存在が大きすぎるのは言わずもがな。

 そんな時、自分なりのイメージは持っていた方がアクセスしやすいのではと想像する。

 まあ、そうは言ってもろくに信仰もしない適当なイメージでは当然ダメ。

 私は少なくとも「守護神」として信仰し、毎日上述の「刀自女経」を読み、真言を唱え最終的にたどり着いたイメージを書いています。

 神仏からの「声」をイメージとして捉えらたいなら「まずは信仰」が先で、「よく礼拝して」がいいと思う。

 私の場合は「自分で作る」という方向でご縁を頂きましたが、もしかするとその強い信仰でその神仏に近づくためのイメージをいただけるかもしれません。

 

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荼枳尼天像 完成間近!(写真追加)

 以前から何度となく記事にした製作中であった荼枳尼天像……彩色で苦労しまくりました(泣)

 なにぶん初めての試みで、なかなか思ったように出来ず、危うく挫折しそうになりました……

 自分がイメージしていたクオリティーにはとても届きませんが、一旦どこがでケリをつけないと一生完成しないと思ったので先程ようやく仕上げに入りました。

 この後出来ることは彩色の微修正くらいでしょうか。

 色々突っ込みどころ満載だと想像しますが、現時点での画像アップしておきます。
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