准胝院のブログ

八王子市で准胝仏母を本尊とする天台寺門宗祈願寺院「准胝院」のブログです。准胝仏母祈願、不動明王祈願、人型加持(当病平癒)、先祖供養(光明供)、願いを叶える祈願(多羅菩薩)、荼枳尼天尊(稲荷)の増益祈願等

公暁は「くぎょう?」「こうぎょう?」 天台寺門宗なら知っておきたいネタ

 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」も佳境に入っているが、鎌倉幕府第3代征夷大将軍源実朝」を暗殺したことで知られる「公暁(こうぎょう)」がドラマでフューチャーされている。

 

 ドラマにある通り、この公暁が修行したのが我が天台寺門宗総本山の園城寺です。

ちなみに我々が受験するころに習った際には公暁を「くぎょう(呉音)」と読ませていたが、最近では上述の通り「こうぎょう(漢音)」と読ませるようになっている。

 

 「どちらが正しいの?」はあくまで「仮説」らしいのだが、鎌倉時代の公式な歴史書である吾妻鑑では「くげう」とルビが振ってあるそうなので、今までは「くぎょう」と読ませていたらしいが……

ja.wikipedia.org

 公暁の師匠になった園城寺阿闍梨である「公胤」が「こういん」と呼ぶことから、その弟子である公暁も「こうぎょう」と呼ぶようになったとか。

 

「そんなん、どっちだっていいだろう?」

 

という人が多いと思うが、総本山園城寺も関係したとなれば私としては「ええ!そうだんったんだ!」と割と目から鱗だったりする。

 

参考動画

www.youtube.com

 

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蓄積された北極星のイメージ

 星の話。

 小学生のころ、一番嬉しかった親からのプレゼントが天体望遠鏡だった。

 望遠鏡を買ってもらったこの年、ちょうと「土星の環」が消えるという珍しい年だった。

 調べてみると、1980年。

 当時から今とかわらず?「のめり込む」タイプだったので毎日夜になれば近所の畑に望遠鏡を担いでは、夜空を旅した。

 そんな小学生の時に空を見まくったおかげで、今でも「当時の癖」で空が暗くなれば自然と視線は夜空に向いて、好きな星々を探す。

 北極星、金星、木星、火星、土星。これらの天体は空を見上げれば、この歳になってもすぐに見つけることができる。

 ちょっと専門的な?ことを言うと、望遠鏡の「架台」には単純に上下、左右に動く「経緯台」とよばれるものと、軸を北極星に合わせて星の運行に合わせて動かせる「赤道儀台」という2種類のタイプがある。もちろん単純な「経緯台」の方が安価であったため、私がもらった望遠鏡も「経緯台」だった。

 ただ、これでは物足りなくなった私はついには、中学生にして「赤道儀台」を自作までした。

さて、なぜこんな話をしたかというと、赤道儀台を使うということは、天体望遠鏡を使う際に、毎回台の軸を「北極星」に合わせるという作業が発生するということ。

 だから天体観測は「まずは北極星から」ということになり、もっとも目を向けなければいけなくなるのが「北極星」ということなのだ。

 つまり当時から最も身近であった星が「北極星だった」ということを自分でも改めて思い出したのだ。

 最近ではその北極星を神格化した尊星王を作成し、さらには作成中の多羅菩薩のTaraは、サンスクリットで「ドゥルヴァ」といい「北極星」の意味があることは先のブログでも話題にした通りだ。

ryona.hatenadiary.jp

 少年時代に数えきれない程「見て、感じて」蓄積された北極星のイメージ。

 それが私の中では今でも残っている。そのイメージは自身の過去と結びついた超個人的なイメージで決して普遍的ではないかもしれない。

 それでも40年以上の蓄積だし自身が拝むお像だから、そのイメージを作成中のお像にも反映しようと思っているのだ。

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「引き寄せ」と「祈願」

「引き寄せ」と「祈願」について質問をいただきました。

まず、「引き寄せ」って知ってますか?

割と人気のコンテンツですよね。

基本的には「スピリチャルな話でしょ?」という感想を持つ人が多いと思います。

確かに「スピ要素」が全くないと言えば、嘘になりますが、割と「ビジネス系」の図書でもこの「引き寄せ」の話は好まれます。一般企業に勤める私もビジネス系の図書で何度か「引き寄せ」の話に出くわすこともあります。

私の知る限りでは「浅見帆帆子さん」が走りかな?という気がしますがどうでしょう?

私は「引き寄せ」の話にそこまで詳しい訳ではないのですが、「引き寄せ?聞いたことないんだけど?」という人のために簡単に説明しておくと……

「その人のレベルにあった人が集まる」「その人のレベルが上がると、成功に必要なものが引き寄せられてくる」

だいたいこんなイメージではないでしょうか。つまり「レベルが上がる」と成功に必要なものが「引き寄せられる」という考え方。人も、状況(環境)も、お金も。

「レベルが上がるってなんなん?」と思いますよね。

「なるべくポジティブな環境に身を置く」ことで「自分もポジティブな行動を選択できるようにする」という感じでしょうか。

ポイントは「ただただ強く念じるポジティブシンキング!」という話ではなくて、「ポジティブな環境に身を置く」ことで「自分をポジティブに染めていく」という感じ(私の理解)。

例えば「陰口」「悪口」をするような人から遠ざかる、相手の足を引っ張るような人から遠ざかる、とか。逆に前向きにチャレンジしている人と、実際に成功している人と積極的に関わる、教えを乞う……等。

裏を返せば、周りに「陰口」「悪口」ばかりをする人が目につく人は「それが今自分がいるレベル」という話になる。だからそれを自覚して付き合う人を変えてレベルを上げましょう!という方法論です。

そう考えると、実は、これを実践ことは決して「楽な話」では全くなく、むしろ正攻法。ひたすら楽観主義のポジティブシンキングとは一線を画するという印象。この現実逃避していない感じがビジネスマンに好かれるポイントかな?とも思う。

 

さて、前置きが長くなりました。

冒頭の「引き寄せ」と「祈願」の違いは?ですね。

あくまで「私個人の意見」として述べてみたいと思います。

当たり前ですが「引き寄せ」と「祈願」では目的が違います。

片や「成功すること」、片や「仏道を正しく進むこと」です

まず「ここ」をしっかり区別する必要があります。

区別できた上で……(←ここ重要)

上述した引き寄せで言う「レベルを上げる行動」を「仏道を正しく進む行動」に置き換えるならば、「悪い行動を遠ざけ(戒律)」「気づきを大切にする」など割と近しい関係性があると思います。

でも仏教なら「引き寄せ」という言葉よりも「縁」という言葉を使いたいですね。

仏道を進むための縁を(例えば祈願を叶える過程で)神仏が与えてくださる」

こんな感じでしょうか。

そしてもし「引き寄せ」からの学びがあるとすれば、「祈願が叶う」場合はピンポイントで即物的な「験」に一喜一憂するといよりは、身の回りが仏道で言うところの「正しい環境」に整ってきているか?という視点になってその祈願を「修行」に昇華できるかどうかですね。

現代の「流行り」のコンテンツは、先入観だけで厭忌してしまう人も多いと思うますが、時に「理解を助ける方便」として参考にするのもありだな、と思います。

仏教の図書や難しく、とっつきにくいものが多いですからね。

 

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秋の高尾山〜蓮奈の低山修行記

最近、滞っていました妻、蓮奈の低山(ほぼ高尾山)修行記です。

そろそろ紅葉の季節なので、平日とはいえかなりの登山客だったようです。

 

定番の1号路から

鮮やかな赤と黄色のコントラストですね。
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1号路はアスファルトで足場はいいが割と急登なのでキツイですが……

蓮奈は慣れたもので楽々山頂

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富士山がよく見えてますねf:id:spincast:20221111171422j:image

これでは全く物足らない蓮奈はそのまま小仏城山まで足を伸ばす。

途中のアップダウンはかなり「エグい」です。

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小仏城山からの富士山
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では、また
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北極星より衆生を観ている星はいない

『星は数あれど北極星より衆生を観ている星はいない』

 このブログの読者さまでもあり、当道場の篤信者さまもあり、また神仏をとても研究されている「どうたぬきさん」から考察メールをいただきましたが、上記フレーズはその考察にあった一文です。

「確かに!」

 と私は声を上げて唸ってしまいました。

 常に「天にある存在」としてまず思い浮かぶのは「お天道さまが見てる」のフレーズ通り「太陽」であることに異論はないでしょう。

 世界を見渡しても太陽を神格化した「太陽神」がもっとも崇められる存在であることは周知のこと。


 ただ、太陽は日没となれば、地球の裏に去っていく。月もそうですね。もっと言えば天にある惑星、ほとんどの恒星は地球の自転により「天にはいない」というタイミングがある。

 ただ例外がありますよね。

北極星(厳密にはその周りの星々も)です。

北極星は、沈むことはない。もちろん日中は太陽の光によって見えなくなるが「天にありつづける」ことには違いはない。

 だから24時間356日、欠かすことなく我々の頭上にあるのが北極星ということになる。

……とするならば『星は数あれど北極星より衆生を観ている星はいない』というどうたぬきさんのフレーズが「確かに!」となる。

 

 さて、最近よく話題にしている多羅菩薩。

 その多羅菩薩が生まれたエピソードを思い出してください。

『ある時、観音様が全ての衆生を救い尽くして、これからブッダの世界に行こうとしたときに、後方の遠くの方で微かに鳴き声が聞こえました。何かと思い振り返ると、遥か彼方に未だ救われることなく「助けてください」と苦しみの声を発する衆生が大勢いたのでした。「あぁ、可哀そうに」とその衆生を思って流された涙が「ターラ菩薩」に変化したといわれています。(中略)ターラ菩薩は慈悲の目で全ての衆生を見て(※観音様でも見逃してしまった衆生を見つけ出して)、救いの手を差し伸べる愛溢れる女性の菩薩です(慈悲の光彩 林久義著(星雲社)より引用)※は私が入れた注釈です。

 こんな説明でした。

 この話の本質が「衆生を見逃さない」ということであるなら、それはつまり「常に見ていてくれる存在」と言い換えることもできそうだ。

 もうピンと来たと思います。

 この多羅菩薩の説明は、常に我々の頭上にいて見守ってくれる存在である北極星と近しい説明になりました。

 そしてなんと多羅菩薩のTaraには上のエピソードから「瞳」という意味があると同時に「北極星」の意味があるとあります。

彼女(多羅菩薩)は北極星サンスクリット名であるドゥルヴァと名付けられています(英語版ウィキペディア

 

そんな話から「どうたぬきさん」は鋭いことを言ってきます。

妙見菩薩も『北極星』で『見る』と『眼』ですよね」と。


 何度もこのブログで書いている話ですが、得度前の信者時代、師僧の著書「密教宿曜占星術」に収録されていた「在家星祭」を毎日数か月(200座くらい)続けたのが、最初の「尊星王さま」とのご縁。

 直近では去年、道場を立ち上げ信者さまのために(初行ゆえに)星祭を100座やった。そして、それを機に尊星王のお像を作ることにした。

 そしてよく覚えている。そのお像が完成した直後、多羅菩薩の話を師僧から頂いた。

 このご縁の根幹に何があったのか?を改めて考えてみる。

 すると、やっぱり「在家信者時代からよく拝んだからなのだろうか?」と思う。

 正解は分からない。ただ、私個人の感想としては強く「これこそ重要なことだったんだ」と肚に落ちた。

 

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榊が突然枯れたんです!!その意味とは?

「昨日、突然榊が枯れました」

 今朝、開口一番そう言ってきた会社の女性の同僚がいる。むろん彼女が私にそんな話をするのは私が仏教の教師であることを知っているので、事あるごとにアドヴァイスを求めてくる。

 

 その方は信仰厚く、決めた神社でお札を受け毎日神棚に手を合わせている。その信仰は「しっかりされているな」という感想を持っていた。
 そして、冒頭で触れた「榊」だが、その榊の水は朝晩と一日に二度換えているそうだ。

 

「きっと、昨日愚痴を言ったのを諫められたんだ」

 

 彼女はそう続けた。

 気温もずっと下がったこの季節にいきなり榊が枯れるのは、確かに不思議な感じがする。すくなくとも一日に二度しっかり水を替えているなら尚のこと。しかも枯れた榊は左右のうち片方だけ。その姿は異様だと。

  

 さて、このエピソードからの「学び」を考えてみたい。

 

 ポイント①当人が「榊が枯れた」ことに気づけたのは毎日神棚の前に立ち、榊の水を替えていたという「日常」があったから。だから、その「変化」に気付けた。まさに日常のお勤めこそ、験を受け取る「土台だ」ということを教えてくれる。

ポイント②

彼女が「神さまから諫められた」と感想を持ち、「その悪しき行動」を正すきっかけになったということ。


 ここから少し「野暮な」説明をしてみましょうか。

「愚痴を言う」「榊が枯れる」

一般的にはただの偶然の一致と捉える。

 ただ心理学的には「偶然の一致」には2種類あると考える。

「意味のある偶然の一致」と「意味のない偶然の一致」だ。

 この差はどこからくるか?

 少し考えてみてください。どうでしょう?

 答は簡単です。

 本人が「意味がある」と捉えれば、それは「意味のある偶然の一致」となって「意味を持つ」ということなり「たまたま」と思えば「たまたま」以上の意味はないという解釈。これを「たまたま」ではなく「意味がある」という発想まで引き上げてくれるのが「信仰」であろうと思う。

 また、「意味がある」と思うには「ある条件」が必要になりますね。

 それは、まずその偶然に「気付ける」ということです。そもそも偶然に気付けなければ「何も起きません」

 「気付く」とは何に気付くのか?「変化」に気付くです。

つまり「変化」は「日常の土台」なければ気づきようがないという話です。今回のエピソードで言えば毎日榊の水を替えてていたという「日常」が土台です。

 

……そして私も朝からそんな「気づき」を貰えたことに、ご本尊に感謝ということですね(^^)

 

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何度も聞かれる!「粘土の仏像ありなの?」

 まずリンクの仏像を見てください。

 すべて国宝なのでご覧になったことがある方が多いと思います。

ichigoichie.exblog.jp

ichigoichie.exblog.jp

www.shinyakushiji.or.jp

yellowdog.jp

www.facebook.com

なぜこの仏像を紹介したかというと、これら有名な仏像が全て「粘土製(塑像)」だからです。


「いやいや、その話は前の記事で読んだよ?またその話?」」

という方もいるのでしょうか。

ryona.hatenadiary.jp

でもですね~多いんですよ、質問が。

「粘土でいいんですか?」

ってね(笑)

 多いというか、私が作った仏像の話をするとまず必ずといっていいほどこの話をされます。

 歴史的な話をすると、本来のインドでは金銅仏が最初。あと石仏。共に中国(朝鮮半島)を経て日本へ伝来します。飛鳥大仏や法隆寺の金銅仏をイメージしてもらえばOKです。

 その後、金銅仏では費用も手間もかかるので金銅仏の制作途中で使う「粘土の像」がコストカットのために流行ったのが奈良時代

 当時の大寺院の特徴として、本尊は金銅仏(もしくは脱活乾漆造)で作るが、周りを囲む象はコストカットのために塑像というパターン。

 上述リンクの東大寺の日光・月光菩薩、執金剛神、新薬師寺十二神将がまさにそうですね。

 ただその後の日本においては「木材」というローコストの素材の出現と、優れた仏師の登場で塑像は淘汰された、ということなんでしょう。

 また特に日本に木造の仏像が多い理由に山岳信仰との習合で「ご神木信仰」から「木製は尊いと考えた」という説を聞いたことがあります。たしかに「神聖な木」から彫刻したお像である意義は大いにあるように感じます。

 それでも本来的には「金銅仏→塑像→木造」という歴史があり時代、時代の背景ありきでの「材質」なので、「材質だけ」を取り上げて「良い、悪い」と結論づける性質ものではないのかな、と感じます。

 一般的な答えとしては、すくなくとも日本でも奈良時代を中心に多くの優れた塑像の仏像があるのでその事実一つとっても「粘土でいいの?」の答えは「もちろん大丈夫」になりますね。

密教の儀軌では、時に「木材」の材質、サイズまで指定がある場合もあるので「全てのケースで」という意味ではありません。

 実際に、現代でも私と同じ石粉粘土で仏像作成している仏師の方はいます。

 また「粘土で大丈夫?」という疑問をもたれる方の中には、制作途中の画像を見ると、一見「紙粘土のように見える」からかな?とういう気もします。ハッキリ言っておきますが石粉粘土と紙粘土は、質感、強度、剛性など、全然違います。同じなのは「白色」ということぐらいでしょうか(笑)

 石粉粘土は、比較するなら、むしろ「木材」に近いと考えてもらっていいと思います。

 具体的には木材と石粉粘土を強度的に比較すると、ネット情報ではなかなか出てきませんでしたが「硬度」は石粉粘土が優れるが、「弾性」は木材の方が優れるとありました。

 個人的な(経験的な)感想としては、彩色してしまえば「見て、触って」も木材と区別できる人は少ないように思います。

 

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