地道に密教修行

天台寺門宗の祈祷寺院にて密教の修行しております「亮和(りょうな)」と申します。修行、信仰を通じて感じたことなどを綴っていきます。※過去(本格的な修行前)に「地道に観音信仰」というブログを運営しておりました。どうぞ気楽にコメントいただけると嬉しいです!

観音の精髄・六字大明尊と准胝の関係

 前回までの記事は少し、マニアックな方に話を振り過ぎたので、今回は少し軽めの話をします。

 さて今回は「仏像」の話をしたいと思います。

 いや、いままでもほとんど尊格の話だったのですが……

 私がはじめて「仏像」を「祈る」ことを目的に自宅にお招きしたのは、まだ今のお寺にお世話になる以前の話です。

 当時は、今ほど仏像の知識もなかったので「どの仏さま(なんの尊格か)」ということはあんまり考えず、たまたまオークションで見つけて「ああ、いいなあ」「この仏さまお祈りしたいな」というフィーリングだけで「即買い」しました。

このお像です↓

f:id:spincast:20200712230240j:plain

 こんな私が言うのもなんですが、こういう仏像の買い方はあまり好ましくない行動なのでマネしませんように……(私はいまだに師匠に「勝手に手に入れるな!」と怒られます:汗)

 さて、この初めて手に入れたお像のオークションでのタイトルは「般若仏母」となっていました。今にして思えばオークションのタイトルはかなりいい加減で間違ったものが多いのですが、当時は分かりません。

 私はこのお像が来てから「般若仏母」をネットで調べてみました。そして「どうもこれは般若仏母ではないぞ?」ということにようやく気付きます。四臂であるという特徴は般若仏母であっているのですが、持物(手に持っている物)が違う。特に般若仏母が必ず持っているはずの般若経典を持っていない。だから「これは違うだろう」と確信しました。

 そしてよくよく調べると「四臂観音」「六時観音」という後期密教ではとてもポピュラーなお像があることにたどり着きます。

「いや、でもまてよ?このお像、観音というには体形が明らかに女性なんだが」

ということが引っかかります。

 観音が女性というイメージを持っているのは日本、中国であってチベット、インドでは明確に男尊として表現されるということは一応知っていました。

 

このお像はチベット仏教様式のお像なので、観音なら男尊に作られるはずなのにそうはなっていない。

 

 また、画像検索で見つかるチベット仏教様式の「四臂観音」「六字観音」はどれも男性の体形をしています。

 

 つまりこのお像は「儀軌沿った正確なお像でない」ということだと思いました(後々中国製のお像は結構こういった儀軌にいい加減なお像が多く出回ることを知るに及びました)。

 そしてこれが間違いなく「儀軌に沿っていない」と確信したのは、このお像と同じ容姿で腕と足の組み方だけが違う「ターラー女神」のお像の画像を見つけるに至るからです。おそらく同じ顔・胴体の鋳型を使って腕と足は後から取り付けるというような安易な製造がなされたお像だった可能性が高いという結論に達しました。

 証拠にこの後同じお顔と胴体をしたマンジュシュリー(文殊菩薩)やアミタユース(宝冠阿弥陀)という男尊も同じ女性の胴体で作られているお像を見つけてるに至りこの結論が間違いないと確信します。

(※文殊菩薩は、般若仏母との共通性から女尊だという説もあるけど……)


ただ、私が話したいのはここからです。


 確かのこのお像が「間違ったお像」であることはゆるぎない事実だと思います。しかし私は随分後になってこの「偶然誤ったお像を手に入れてしまった」ことが「ある偶然」と結びついて鳥肌が立つほどに驚愕します。


 先の准胝尊の特集記事をしっかりと読んで頂いた方は(難しくて読み飛ばしてませんか!?(笑))、気付かれたと思います。准胝尊は「大乗荘厳宝王経」において「オン・マニ・パドメ―・フーム」というチベット密教における六字真言を説いたお像との関連があることを先の准胝尊の特集で書きました。

 そして、この六字真言の尊格化したお姿が、先に記した六字観音(四臂観音)であることはご想像の通りです。

 つまり私は准胝尊とこの六字観音の関連については全く知らない時に偶然、准胝尊と極めて近いしい「六字観音」のお像を随分以前に手に入れていたということに気付きます。

 

しかし偶然はそれだけではなかったのです。

 

 上述したように私の入手したお像が「誤って女尊になっている」ということを思い出してください。つまり私の入手した「六字観音」は女性の身体をしているので観音であって観音でないというある意味中途半端なお像です。

 

 するとなんと!「大乗荘厳宝王経」をよくよく読んでみると、このお経に登場するお像は、六字「観音」ではなく六字「大明」という女尊だったのです。

「え!?女尊!?」

私はここで気付きます。

「うちのお像、間違って作られたけど偶然「六字大明」になってないか?」

ということに。

つまり今多く見かける「六字観音」の原形は女尊の「六字大明」だったということになります。

 これについて詳しい文献を見つけたので、その文献を抜粋してみます。

「『カーランダ・ヴューハ』における観自在菩薩の身体観 佐久間留理子著」という文献です。

※『カーランダ・ヴューハ』というのは「大乗荘厳宝王経」のことです。

「女尊の六字大明について説明する」

「六字の呪文が観自在の最高の精髄であると説かれ」

阿弥陀の右にマハーマニダラ菩薩が,左に六字の呪文を女尊として神格化した六字大明が存する」

「六字大明は四臂をもち,その内の二臂は一切王の主の印を結び,残りの二臂の左手に蓮華,右手に数珠を持つ」

「このように呪文を神格化するという発想は,初期密教的な信仰を背景としており,その点では六字大明も上述の観自在も同格である」

「しかし六字大明の場合には,六字の呪文を女性形の明呪(vidya)として,即ち女尊として直接的に表現するという点で,その身体は男尊の観自在の身体とは区別されている.」

「それは観自在の身体と完全に同格なのではなく,観自在の多様な身体の基盤となるべき特質をも有すると考えられる.」

「換言すれば,六字大明の身体は,観自在の多様な身体をマンダラにおいて象徴的に統合していると言える.」

 私はこれを読んで「とりはだ」が立ちました。たしかに私が手に入れたお像は「間違って」女尊として作れていますが、実は「六字観音」の原形として(神髄として)四臂の女尊が存在していたことがこのお経で明らかになりました。しかもそれが語られている「大乗荘厳宝王経」は、先の記事「准胝は観音?仏母?」で書いた通り、日本で「准胝尊が観音である」の根拠としたお経です。結論はこの六字大明という女尊こそ准胝尊と大いに関係のある尊格であるのは間違いないのです。

 また中国で良く売られている准胝独部法で使う鏡にはこの六字が刻まれていて、また実際法の中でこの六字を唱えますが、その典拠が「大乗荘厳宝王経」にあるのは想像に難くありません。

 

「縁」を重んじる仏教者はこれを「これは間違いなくご縁だね」と前向きに捉えてくれます。

 しかし「偶然でしょ?」と鼻で笑う方が大半だと想像します。

他人からしたらただの偶然です。これは正しいと思います。

 この偶然がただの偶然ではなくて唯一意味があるのは「自分」だけです。ここがポイントだと思います。

 起こった出来事を見れば、般若仏母というタイトルで、何もわからず手に入れたお像。それは儀軌に忠実ではない粗悪な六字観音像だった。しかし間違って女尊に作ってしまった六字観音が偶然六字大明という女尊の特徴に一致してしまった(六字大明はメジャーな尊格ではないのでこの像が作られたことはおそらくあまりないと想像できる)そしてその六字大明という女尊は准胝尊とメチャクチャ関係の強いお像だった。

そしてここからがとても重要なんだけど

 この結果私は「より准胝尊への信仰が深くなった」ということです。そしてきっと「大乗荘厳宝王経」というお経を深く勉強しようなんて発想にもたどり着けなかったと思います。

 これは仏教を修行する私にとってはとてもありがたい「ご縁」で、准胝尊をより深く信仰するきっかけにもなった訳ですし、さらに「大乗荘厳宝王経」というとてもありがたいお経を勉強しようと思うきっかけになった訳です。

 まさに「無上甚深微妙法 百千万劫難遭遇 我今見聞得受持 願解如来真実義」だと思います。

 ということで今、毎日行じている准胝独部法では准胝尊の真下に安置したこの六字観音改め六字大明を観想しなら行を行っています(もう一度上の写真をご覧になってください。准胝尊の「お前立」のように安置しています)

 

 きっと仏教を修行している方の元にくるお像って絶対「意味がある」と思います。ですから皆さんも「なぜこのお像は私の元に来てくれたのか?」なんてことを深堀すると思いがけない「発見」があるかもしれません。

 そしてきっとそれはあたなたにとって意味のある御縁であることに気付く事になるのではないでしょうか!?

 

 記事が参考になったら

クリック↓お願いします!

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へ
にほんブログ村