准胝院のブログ

八王子市で准胝仏母を本尊とする天台寺門宗祈願寺院「准胝院」のブログです。准胝仏母祈願、不動明王祈願、人型加持(当病平癒)、先祖供養(光明供)、願いを叶える祈願(多羅菩薩)、荼枳尼天尊(稲荷)の増益祈願等

霊能力と無意識

 霊能力という話題。みんな好きですよねー(笑)

f:id:spincast:20200717224725p:plain

 仏教来談をするようになればおそらく「無視」はできないであろう?この「霊能力」というパワーワード

 

 ということで今日は、『現時点で』『私個人が』どう思っているかということを、少し書いてみようと思います。


 『現時点で』『私個人が』をあえて強調したのは、将来的に考えが変わるかもしれないし、また「個人の意見」なので異論反論は当然あるでしょ?と言うことを前提に書くという事です。

 さて、この話題を語る上で私が「心理学」のバックボーンがあることが大きな意味を持っているんだろうなあ、と自分でも思っています。

 つまり多くの「霊能力」と言われる現象を、知らず知らず「心理学」で考えてしまう「くせ」が出来てしまっているであろうということ。

 カッコよく言えば「心理学還元主義」ってな感じでしょうか(笑)

 でもこんな「くせ」は密教修行者にとってメリットにもなるし、時にデメリットにもなるのかもしれません。ただ自分で注意すべきポイントは『メリット、デメリットを自覚できるている』ことかなあ、なんて思っています。

 

 心理学という学問はとても「扱いにくい」という側面があります。

 だって学者によって呆れるほどに解釈が違うから。

 例えばスピリチャルの分野では最多登場?のユング心理学は、「オカルト」を肯定していてユング自身の体験談を読んでも「神秘体験」のオンパレードです。

f:id:spincast:20200717224752p:plain

 それに対してあくまで「自然科学(サイエンス)」というスタンスを崩さない実験心理学は、ユングのやっていることなんかとてもじゃないが「心理学」とは認めないでしょう。

 では、私はどんな心理学をベースにしているのか?

 大学で学んでいた時は「生理心理学」とか「学習心理学」といって「自然科学(サイエンス)より」の心理学を学んでいましたが、大学卒業後は全く逆向きのベクトルの心理学を学び続けました。

 具体的には私がもっともリスペクトする心理学者は先に「オカルト肯定」「神秘体験バンバン」と書いた「カールグスタフ・ユング」と、その系統にある「アーノルド・ミンデル」です。つまり神秘体験を積極的に肯定する心理学に強く傾倒しているということ。特に私は「アーノルド・ミンデル」が大好きで、日本で出版されているミンデルの図書はもちろん全て読んでるし、今でもお気に入りのミンデルの図書は座右の書として読み続けています。

(この辺がお気に入り↓)

 

 少しだけ宣伝するとこのミンデルの心理学をモチーフにした小説も書いてたりもしてます(※投稿サイトに趣味で投稿した普通の青春小説です)
https://ncode.syosetu.com/n6138ei/

 

 先にユングが神秘体験(オカルト要素)満点ということを書きましたが、ユング心理学で私が外してはいけないと思うポイントを今日は一つだけ書いておきます。

 それはユングが扱う「無意識」という領域が、一般的な「無意識」とは比較にならないくらいに「でかい」ということ。いや「でかい」どころの話ではなく「無意識=宇宙」と表現してますから密教の宇宙観に照らせば「無意識=曼荼羅」と解釈したくなるほどの内容になっています。

 人間なら誰でも持っている「無意識」という領域が「宇宙大」ならば、人間の心はみな宇宙大という話になります。

 まあ、イメージできませんな(笑)

 でもその「イメージできないほど大きい」ということが重要だったりします。つまりこれが「偉大」「畏怖すべき」という「神」が持つ属性にも繋がるからです。

 この「無意識」が「宇宙大」という事が分かると「無意識には絶大なポテンシャルがある」という理解が生まれます。すると「霊能力」という能力は十分「無意識が発揮できる能力」として全く問題ないことに気付きます。

 ここが分かってくると、「霊能力は幻覚なのか、本物なのか」などという議論がいかにピントはずれかという事が分かってきます。

 乱暴に言えば「霊能」も「幻覚」も、どちらも無意識の働きという「共通点」がある……すなわち入り口は一緒ってことだからです。

 例えばこのことを雑に説明すると、「無意識のより深い領域(普遍的無意識)へのアクセスが行われればより神に近い存在とのアクセスになるし、浅い領域(個人的無意識)へのアクセスならより個人的な妄想へのアクセスになる。入り口は同じでもアクセスする対象の違いでアウトプットされるものが違ってくる」なんて分析が『一つの方便として』できるようになります。

 

 さて、皆さんは「霊能力」と言うと「見える人」「聞こえる人」を想像することが多いと思います。

 それを裏付けるようにユングは一般的に「霊能力」と呼ばれる「アウトプット」については「視覚(霊視・幻視)」「聴覚(霊聴・幻聴)」という感覚にフォーカスしていました。

 ただミンデルが面白いのは、その対象を「身体感覚(痛み、具合が悪い)」「身の回りに起こる事象」、それ以外すべての五感まで広げたところ。

 だから「霊を受けて身体がだるい」なんていうこともミンデルなら「無意識のアウトプット」ということでアプローチができるといことになります。

 この理屈で押し切れば「霊能者」というのは「見える人」「聞こえる人」に限らず「痛くなる人」「悪いことが起こる人」「病気になる人」も出方が違うだけで「無意識のアウトプット」の範疇なので「霊能者」ということになります。ただこの場合「その解釈」が難しくなるのでそれを判断する(解釈する)スキルは必要になりますが……

 ミンデルの考えが正しいなら人間は誰でもどこかの感覚を使って「常に」無意識をアウトプットしてることになります。言い方を変えれば「常に」霊能力が発動しているとういこと。そしてその常に発動している「無意識のシグナル」に注意をはらうことをミンデルは強調します。彼は「24時間、明晰(意識化できること)であれ!」と言います。

 くどいですが、明晰になるのは「聞こえる」「見える」だけじゃなくて、「痛い」「不快だ」「悪いことが多発してる」「虹が出た」「太陽が急に射した」etc……身の回りに起こる全てです。

 上座部ヴィパッサナー瞑想でいう「サティ」「気づき」というキーワードもこのミンデルが目指そうとしてることと同じなんだろうな、なんて素人ながら思ったりしています。

「サティ」用語リンク

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%86%E3%82%A3_(%E4%BB%8F%E6%95%99)

 さて、冒頭で書いたように、心理学で解釈をすることが「密教行者」にとって正しいのか、間違っているかということは人によって意見が分かれるのは分かっていて書いています。

 ただ私も独り立ちすれば、自分の「スタイル」というのは持って行かないといかんな、という強い思いがあります。だから教化するための武器としてそんな「方便」を持っていくことは必要なのかと考えもします。もちろん「密教」という軸はブラさずにということは常に意識しないといけないとは思いますが……

 

 記事が参考になったら

クリック↓お願いします!

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へ
にほんブログ村