仏像にまつわる、感動的な奇跡のお話を紹介します。
二体、離れ離れになっていた仏像が奇跡的な偶然で再開した、という話です。
ところで仙台市民にとって愛すべき2人の存在があります。
誰でしょう?
仙台市民ならマッハで回答できると思いますが(笑)さとう宗幸(むねさん)と伊達政宗です。十年前に仙台に越してきて、この二人に対する仙台市民の「愛の深さ」にドン引きしたほどです……
さとう宗幸は全国的観れば「あの人は今」的な存在ですが、仙台のローカル番組では毎日のように「むねさん」が出演しているのでとても身近な存在です。
そして伊達政宗。言わずもがなの戦国武将ですが、仙台市民にとって伊達政宗は織田信長より豊臣秀吉より徳川家康より武田信玄より上杉謙信より強くて偉大と信じています。「もしものあの時~だったら伊達政宗が天下を獲っていた」という「もしも話」は仙台市民の大好物です。私もこの話なら小一時間できます(笑)
話が随分と横道にそれましたが、その伊達家の話。伊達政宗以降、全国区で有名な「事件」として伊達騒動があります。
三大お家騒動の一つとして数えられる程の騒動で、伊達家はこれでおとり潰し寸前まで追い込まれます。山本周五郎の小説『樅ノ木は残った』などの題材になっていて大河ドラマにもなっています。
その伊達騒動の渦中の真っただ中で、むりやり僅か2歳(満年齢で1歳4か月)で家督を相続した亀千代こと将来の伊達綱村公。亀千代はこの騒動の権力争いに巻き込まれ暗殺未遂にもあっています。
そんな亀千代が成人して第四代藩主伊達綱村公として実権を握った時、そんな過酷な騒動を経験したからでしょうか、「争いごとのない世界」をきっと目指されたんだと思います。証拠に、綱村公は仏教を篤く信仰します。仙台に「仙台三十三観音霊場」がありますが、これを制定したのも伊達綱村公とされています。
「伊達綱村公の念持仏が見つかった」
数年前、私はそんなニュースを陸奥国分寺の准胝観音御開帳の際に、村山住職から聞きました。
しかもその仏像が「准胝観音」だというのだから、准胝信者の私としては驚いた訳です。「なんだって准胝さんなんだ?」と思いました。だって准胝尊は珍しい部類の尊格なんであまり念持仏という話は聞きません。
さらに……驚きはそれだけではありませんでした。
陸奥国分寺准胝堂に安置されている准胝観音も、伊達綱村に大いに関係のあるお像だったからです。
整理すると、陸奥国分寺の准胝堂に安置されている准胝観音は、仙台藩の第5代藩主伊達吉村(綱村の子)の正室、長松院の念持仏だったとされています。
長松院(冬姫)
つまり先に「伊達綱村公の念持仏が見つかった。それが准胝観音だった」と書きましたが、綱村公から見て息子の正室である長松院の念持仏もまた准胝観音だったといことなんです。
だからこの二体のお像はもともと「セットだった可能性が高い」ということです。だって普通、珍しい尊格である准胝観音をそうそう念持仏としては持たないですよ。この二体が関係ない訳ないと思われます。
そしてこの伊達綱村公の念持仏が「仙台で見つかった」というならまだ分かります。でもそうじゃないから驚きなんです。
なんとこの念持仏は、(確か)広島の骨董商から「准胝だから」という理由で、たまたま紹介されただけのようです。つまり、仙台の地に来たのはまったくの偶然。だから仙台で調べてびっくりだったようです。
こんな偶然あります?
こういうことを目の当たりにするとお像が意志をもって、あるべき場所に戻ってきたとしか思えません。
私の中ではもちろん間違いなくそうだと思っていますが……
実は、この伊達綱村公の念持仏である准胝観音は、現在仙台市博物館にあるということまで調べがつきました。そして今ちょうど仙台市博物館に問い合わせをしています(もっと詳しい縁起とか教えていただければと思っています)。
なので追加情報(上記の修正情報)がありましたらこのブログで紹介しようと思います(需要はあまりないと思いますが!?)
記事が参考になったら
クリック↓お願いします!