准胝院のブログ

八王子市で准胝仏母を本尊とする天台寺門宗祈願寺院「准胝院」のブログです。准胝仏母祈願、不動明王祈願、人型加持(当病平癒)、先祖供養(光明供)、願いを叶える祈願(多羅菩薩)、荼枳尼天尊(稲荷)の増益祈願等

神仏の声?それホント?

 仏教を信仰していると「〇〇菩薩さまがこう言ってた」等と主張する人に、想像以上によく出会います。それは密教の修行を長年やってきたとか、生まれながらに霊能力があるとか、そういった能力者でなく「信仰を初めて間もない」という方でもそう主張する人がいます。

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 この事に関して、私の「現時点」での個人的な考えを述べたいと思います。

 私は密教の修行者としては末端の末端に座る初学者ですが、『無意識』に関する考察は数十年のキャリアがありますので、その辺りを加味して読んでください。

 内容は(私も含めた)初心者向け……ということを了解の上ご覧になってください。

 まず、私は『無意識の情報はなるべく意識化させた方がいい』という信念があるので、それが「妄想」だろうと「神仏の声」であろうと「なるべく多く拾ったほうがいい」というスタンスです。

 ただ、重要なことは「安易に神仏の声」と断定するのは色々不都合があるので、慎重にした方がいいと思っています。

 「神仏の声だ」と断定したときに生じる具体的な不都合とは2つほどあると思っています。

 一つは「神仏の声が聞こえた」には多かれ少なかれ「本人の主観」が必ず入っているということ。だからダイレクトに鵜呑みにするのは間違える可能性が極めて高いと思われます。ここで重要なのは「そのメッセージを適切に判断する」という「判断能力」だと思っています。そんな判断のない、自分の勝手な解釈で無意識(神仏)の貴重なメッセージを歪んで受け取ってしまうのはあかんですよね。

 つまりここで必要なのは「安易に断定する」のではなく「これは何を意味するんだろう?」という考察の機会を増やして、何度もトライ&エラーを繰り返して「解釈の精度を上げる」というスキルを上げることだと思います。

 私のスタンスでは「無意識の声(神仏の声)」は以前にアーノルド・ミンデルの図書「24時間の明晰夢」の解説をしたときに書いた通り「24時間、常にある」のでキャッチする事自体は特殊能力でもなんでもないとしています。だから重要なのは「解釈する能力」となります。

 話を戻すと常にそこにある「神仏の声」に耳を傾けてそれを拾い上げる「習慣」はとても重要な「修行」だと思います。ただせっかく拾った「メッセージ」を「安易な解釈」をして間違ってしまったらもったいない。しかもよく見かけるように「自己主張の道具」になってしまうと、より解釈にバイアス(拡大解釈など)がかかってしまうリスクもあるように思います。

 ということで問題の2点目は今書いた通り「自己主張の道具」になってしまう可能性。「誰も常にメッセージを受けてとれる」という大前提にいれば「特殊な能力」なんて勘違いは起きないのだけれど、霊能力はやはり人より優れた能力という認知がされているので仏教に興味をもっただけでインスタントに自分もそんな特殊能力が身についたなんて「勘違い」を起こしやすい。さらに「神仏」という絶対無比の存在に近づいたと勘違いしてしまうと所謂「自我肥大」を起こして自分は特別な選ばれし人間なんだと思い込んでしまう悲劇にまで発展しかねません。

 まとめると……

 上述したように「常にメッセージはある」という「ウェルカム」状態を常に意識することは必要。その中で、どんな些細な出来事の意味も考える癖を持つこと。ただそのメッセージには「様々な可能性がある」ので「安易な断定をしない」こと。そして後々「答え合わせ」をして「考察は正しかったのか?」「間違っていたのか?」「なぜ間違ったのか?」までをしっかり結論を出しておくこと。

 また私の場合は、行者の端くれなので「本尊の前」で突如思い浮かんだ事象は「より重要なメッセージ」としてすぐに書き留めておくことにしています。くどい様ですがこれとて「神仏の声だ」と断定することなく、「考察の材料として」です。特に私の場合、「言葉」「文字」を多く扱う仕事をしているので(今がまさにそうですが)、壇で思いついたことを文字にしていると「自動書記」のようにスラスラと文字が出てくること多々あります。

 深層心理学の間では常識ですが「無意識には自律性がある」のでこういった一見「自分で書いている気がしない」という体験は珍しくありません(私は小説を書くこともあるのでこんなことはしょっちゅう経験します)から、これをもってエドガー・ケイシーばりに?自分が霊能力者だなんて勘違いして自我肥大を起こさないよう注意が必要だと自分でも思っています(笑)

 また、自分の得意なチャンネル(私の場合は「文字」と、あと「身体」にでます)は把握しておくことが有利だと思います。「視える」「聞こえる」が得意な人もいると思います。自分の得意なチャネルを知ることは逆に苦手なチャンネルも分かってくると思います。

 くどい様ですが「安易な断定」ではなくて色んな可能性を想定して、「考えて」「間違えて」を繰り返して、精度を上げる努力をするという「修行」として捉えるのがいいように思います。

 

 ということで……この内容も「お勤め」の最中に浮かんだことの「メモ書き」なので、「間違い」が多々あるとは思っていますから(笑)ご指摘がありましたら是非!!

 

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