准胝院のブログ

八王子市で准胝仏母を本尊とする天台寺門宗祈願寺院「准胝院」のブログです。准胝仏母祈願、不動明王祈願、人型加持(当病平癒)、先祖供養(光明供)、願いを叶える祈願(多羅菩薩)、荼枳尼天尊(稲荷)の増益祈願等

形に生命が宿る~狛犬さまの声~

「おい、ちょっとこっちきなさいよ」

 そんな声がした気がしたので、私は参道の真ん中でふと立ち止まる。声の主を探してみると、どことなく視線を感じる。

 感じる視線の方へ足を向けると「おやおや」とその声の主「狛犬さま」がいた。

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 随分と前の記事だったか、「無意識には自律性がある」という話をしたように記憶している。無意識の声は自律的だから自分の声には聞こえないし、自分の「考え」にも及ばない言葉を話す。

 だからそんな「無意識の言葉」を「空耳」と捨ておくには随分と勿体のない話だ。

 また、密教行者の端くれなら「無意識」なんて心理学用語を引っ張り出す野暮なんてしないで素直に「狛犬さまからのメッセージ」と受け取ったって構うもんかである。

 そう、安易に人さまに話さなければね。

 仙台市秋保温泉の先に、山形の山寺として有名な「立石寺」の奥の院とも呼ばれる不動尊霊場がある。曰く「秋保不動尊」だ。そこで私は上述の狛犬さまに出会った。

itp.ne.jp

 なぜこの狛犬は話掛けてきたのかな?と思う。

変な話だが、その姿を見て「ああ、確かに話しかけてきそうなお姿だなと」と思った。それは『霊的な何か』なんてものではなくて、単純にその容姿が「話しかけてきそうなお顔」をしていただけということだ。

 どう見てもこの狛犬の「造形」は話しかけてきそうな「形」をしている。写真をみてそう思いませんか?(笑)

 

 天台寺門宗の本山が主催する「修験」の修行でいつも顔を合わせる方に、仏教の修行者でありながら「彫刻家」である方がいる。別に「仏師」という訳ではないのですが、かなり本格的に彫刻を勉強された方で、ある時こんな話をしてくれたのを思い出した。

「ひと彫りで生命が宿る瞬間もあるし、ひと彫りで生命力が消えうせただ置物になってしまう瞬間もある」

 言葉では説明できないが、ほんのわずかな「形の違い」で生命力を感じたり、また逆にそれを失ってしまったり……芸術的な才のない私には到底及びもしない話だが、どうやら彫刻家の中ではこのような瞬間を「あたりまえ」のように経験するらしい。

 「形そのものが力を持っている」

 そんなことがあるのかもしれないと思った。だってこの狛犬はどう見ても話しかけてきそうな「生命力」がある。凡庸な私でも辛うじてそれは分かる。

 だから、今までも、この狛犬を見た参拝者の多くが進んで「声を掛けた」ように思った。

 見るとこの狛犬は『文政11年(1828)戊子10月建立』と書いてある。文政年間といえば幕末に活躍する多くの偉人が生まれた時代だ(勝海舟西郷隆盛etc)。そんなに前から、この狛犬を見た参拝者が立ち止まりこの狛犬に声を掛けてきたというイメージが膨らむ。

 文政年間からつもりつもって200年近く年月が経っている。一体、どれくらいの数の参拝者がこの狛犬に声を掛けていったろうか?

 そんな「つい声を掛けたくなる」狛犬さまだからこそ、沢山の参拝者に声を掛けてもらい……200年経った今、その人の無意識が反応して声を掛けてきたと勘違いするくらい確固たる集合無意識が形成されている……

 なんてまた中途半端な密教修行者の私は心理学用を引っ張り出しては野暮な説明をしてしまう。

 「いいじゃないか、私と話したと素直に思えば」

そんな声を聴いて、今日のところは素直にそう思うことにした。

 

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