准胝院のブログ

八王子市で准胝仏母を本尊とする天台寺門宗祈願寺院「准胝院」のブログです。准胝仏母祈願、不動明王祈願、人型加持(当病平癒)、先祖供養(光明供)、願いを叶える祈願(多羅菩薩)、荼枳尼天尊(稲荷)の増益祈願等

「言い訳」という負のスパイラル

 人間というのはつくづく「私も含めて」なかなか自分の非を認めたくない生き物だと思う。

 私は二十代のころ(あったんですよ、私にも二十代:笑)、座右の書としていた図書に「デール・カーネギー」がありました。「人を動かす」「道は開ける」の二冊が有名ですが、個人的には「道は開ける」が好きでよく多く読みました。

ja.wikipedia.org

 仕事に不慣れな若いころに、仕事で思い悩んではこの著書に何度救われたことか……

 

 さて、このカーネギーのロングセラー「人を動かす」の冒頭に、ある凶悪犯のエピソードが書いてあります。

 その凶悪犯は、『免許証を見せてくれ』と頼んだ警官を何も言わずに乱射するという極悪非道な人間です。誰の目から見ても「悪」です。しかし、彼自身は自分のことをどう思っていたのか。なんと死刑が執行されるその瞬間になっても自分は悪くないのになんでこんな目に遭わされるんだと本気で思っていた……というエピソードです。

 そしてこのように多くの犯罪者が自分は間違っていないと信じ切っている人多くいると聞きます。

 この意味するところは、なんだと思いますか?

 これは何も犯罪者だからそう思ってしまうのではありません。自分は悪くないと思うのは人間の特性です。例えば明らかに自分が悪いのに全く非を認めようとしない人、このような人がいてイライラした経験皆さんにもあると思います。

 それは、人は批判されると『自分を守るため』に自分を正当化しようとする本能があるからだということです。

 だから、人は他人から批判されると簡単に「間違い」を認めようとしません。

 

 ここで少しだけ心理学的な話をしますと、このように「非を認めない」人の特徴として概ね2つの原因をよく聞きます。一つは「プライドが高い」もう一つは「精神性が低い」です。

 ただこの二つの根っこにあるのは共通していますね。

 つまり表現を替えれば「自分を守ることに必死」です。少し心理学的用語を使えば「自我を守ることに必死」となりますね。

 このような特徴を示す人は「精神性が低い」というセンテンスで概ね予想できる通り、基本的に「自己肯定感が低い」という特徴があると言われます。

 だから批判されて、自己肯定感が下がってしまうことを何よりも「無意識に」恐れている。「無意識に」というところが厄介ですね。だから本人にその自覚はもちろんありません。

 私も仕事場では「部下」や「後輩」がいます。彼らの中には注意するとまず「言い訳」から入る人がいる。なかには最後まで「自分が悪くない」と頑張ってしまう人もいます。そんな彼らを見ていると「すいません」の一言をいうことがそこまで「恐ろしい」ことなのと閉口してしまいます。

 

 そんな「他人」のことを偉そうに言っている私ですが……

 私もそんなことしょっちゅうやらかします。

 特に仏教の修行という場面では、それがより「シビアに」試される場面に遭遇することが多くあります。

 私が先月行った護摩行。

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 その行をするための伝法や準備で、一日おきに二日間、行をする道場となる師僧のお寺にお邪魔していた時のことです。一日目に自身が行う「行」のと為に内陣の準備をおおかた終えて、その翌々日に再度お寺を訪れました。

 ただ朝、お寺に入るなり師僧からかなり厳しく指導が入りました。理由は護摩の灰を入れるバケツが庭に置きっぱなしになっていたからです。師僧からは「今回だけは私は許すが、本尊が許すとは限らない。だから行中どんな障礙があるからしれないからそのつもりで行に挑め」と厳しく諫められました。

 この時、私は危うく「あ、それは私が置きっぱなしにしたものではないので」と口から出そうになりました。しかし「幸いに」寸でのところでその言を発することを止めました。それはきっと私が訪れていた2日前にもそこに置かれていて、内陣で準備をしていた時に、内陣にそれがないことに気づけなかった私にも落ち度があったことが間違いないからです。そしておそらく師僧も、この「言い訳しやすい」場面で「分かっていて」私の反応を試されているように思いました。

 また、少し「宗教的」に話を振ると、これも師僧が試したことと同時に「神仏」にも試されていると解釈する目を我々は持っていないといけないと思いました。つまり「護摩加行」という重要な行の直前に、このような「トラブル」をどう受け止めることができるのか?私はきっとそれを神仏から試されたと後から思いました。

 今にして思えば、あの時には既に護摩の加行がスタートしていた、そう思えてなりません。

 

 さて、「言い訳」は必死に自我を守っている「私」も無意識にそれに気づいているといいます。つまり「言い訳」という行為そのものが、自分の自己肯定感の低さを認めてしまっている行為=自己肯定感をさらに下げてしまう行為→さらに言い訳がましくなるとまさに負のスパイラルに捕まっている状態。

 だからその「負のスパイラル」を断ち切るために、その根っこにある「自我を守ろうとする自分がいる」に気づけるかどうか?難しいようですが、「あ、これは言い訳だ」と気付けるかどうか。

 「言い訳しない」……結果的にそれが自己肯定感を上げる第一歩だと感じています。

 

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