准胝院のブログ

八王子市で准胝仏母を本尊とする天台寺門宗祈願寺院「准胝院」のブログです。准胝仏母祈願、不動明王祈願、人型加持(当病平癒)、先祖供養(光明供)、願いを叶える祈願(多羅菩薩)、荼枳尼天尊(稲荷)の増益祈願等

夢うつつ映像の対処法

 先の記事では行中「睡魔」に襲われることがもっとも難儀だ、という話を書きました。

ryona.hatenadiary.jp

 時に強烈な睡魔だと起きながらに「夢ううつ」の状態になるので、行中に「夢の映像」が視界に混じりこんでくることは案外多くある。

 こんな時は「なんとか起きておかなければ!!」という自分との戦いが勃発する!?

 ほとんどの映像は「夢うつつ」なので取り留めのないものが多く、壁から人がすり抜けて部屋に入ってきたり、いつのまにか隣に女性が座っていたり、本尊の顔が笑ったり怒ったり。

 レベルの違いこそあれ、これも一種の「魔境」ということになるのでしょうか。

 私も場合は、幸か不幸か強烈な「眠気」が伴っているのでそれが「夢の映像」とすぐに看破できていますが、これが「リアルの映像だ」などと勘違いするようだとかなり厄介なことになりますね。例えば私のように「夢うつつ」ではなく「深い瞑想状態」だったりしたならば「霊が出た、神仏が出た」という話になってしまうんでしょう。

 さて、このように意識レベルが下がってくると色々な幻視、幻聴が起きやすい状況になる訳ですがこの時に「やっかいなポイント」を取り上げてみようと思います。

 問題は「私は起きていた」「客観的な私が確かにいた」という主観が正しいとは限らないという事。

 「私は起きていた」と言っても脳波をとってみたら寝ていてたなんてことが大いに起こり得るという意味です。

 例えが適切ではないかもしれませんが、明らかにお酒に酔っている人が「俺はシラフだ!!」と頑なに主張する場面を想像すると分かりやすいかもしれません。こんな時、その人の主張は全くあてにできませんよね?

 「夢うつつ」とか「泥酔」など、もしくは場合よっては「深い瞑想状態」でも程度の差はあれ、自分でいくら「正常」と思っていても、そうではない可能性が高い。つまりそれは「自我が頼りない状態」であることを知っておくことが重要かな、と思う。ひいては安易に「魔境」のとりこにならない智慧にもなるのかなと。

 このような「覚醒状態」ではない特殊な意識状態のことを「変性意識状態」と呼びますが、この「変性意識状態」の難しさを知る上でよく話題になる「臓器提供の意志」に関する話があるので紹介します。

 このブログで再頻出の心理学者「ミンデル」がする昏睡状態の人と対話する「コーマ・ワーク」(コーマとは「昏睡状態」のこと)の解説にあった事例です。

 ある方は元気な時、「臓器提供」に前向きに合意したのですが、いざ病気になって意識が混濁して「変性意識状態」に入ってしまうと「臓器提供なんて絶対ヤダ!」と主張を始めたそうです。さて、家族はどちらの意見を尊重すべきか?という問題です。

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 元気な時の「健全な意識状態」の意見を尊重するか、意識が混濁した、つまり冷静な判断力を失っている「変性意識状態」での意見を尊重するか……なかなか難しい問題ですね。この場合、何といっても「一人の人間」が時と場合で「真反対の意見」を主張していることころが悩ましいです。

 ミンデルの主張は、この時点で「どちらかを選ぶ」のではなく「どちらの意識をも尊重する」ために「ワーク」を行い「意識」と「無意識」の対話で「意識」と「無意識」の溝を埋める手続きのための技術を提供します。

 ここから我々が学ぶべき「魔境」との付き合い方は、大げさに受け取ったり、反対に激しく拒絶したり、もしくは「くだらない」と捨ておくことでもなく「フラットに」「ニュートラルに」観察の対象として「その意味」を救い上げて上げることでしょうか。

 あくまで「冷静な時の自分で」が条件になりそうなので、(例えば行が終わった後の)覚醒状態の「私」が冷静な判断力で分析してあげることがまずは安全な気がします。

 「魔境」をあえて拒絶することなく、あくまで「慎重に」「フラットに」「ニュートラルに」という態度で「冷静に」無意識の主張を救い上げ意識と無意識の統合をはかる。

 ……言葉にすると難しそうですが、だからこそ「夢うつつ」の「魔境」でにしも「くだらない夢」と捨ておかず「無意識の統合」という「せっかくの機会だ!」と前向きな対処法を試みる「きっかけ」にすることで、頻回にそんな経験を積むのもいいのかなと。

 今日のところの私のベターな考えでした。

 

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