准胝院のブログ

八王子市で准胝仏母を本尊とする天台寺門宗祈願寺院「准胝院」のブログです。准胝仏母祈願、不動明王祈願、人型加持(当病平癒)、先祖供養(光明供)、願いを叶える祈願(多羅菩薩)、荼枳尼天尊(稲荷)の増益祈願等

繰り返しに「何か」が宿る

 途方もない繰り返しで目に見えない「何か」が宿る。

 これは私が大学時代に中国武術の型をひたすら繰り返していた時に「感じた」こと。

 

 私はご承知の通り?武道・格闘技が好きなので、YouTubeでもボクシングの井上尚弥選手だとか、キックボクシングの那須川天心選手だとか、総合格闘技の朝倉兄弟とかの動画は結構好んで見ていたりします。

 今、名前を挙げた選手はみな「格闘家」ということになりますが、今日は冒頭に書いたことを少しでも感じていただきたくある「武道家」の「型」の映像を紹介しようと思います。

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 伝統空手の界隈では、有名な動画です。武道経験がない人も是非、最後まで観て「感じ」てほしいと思います。私はこの動画を初めて見たときは打ち震えるほどに感動し、自然と涙がこぼれました。

youtu.be

 ブルース・リーはいみじくも映画の中で「Don't think! Feeeeeeeel!(考えるな!感じろ!)と言いました。有名なセリフですね。

youtu.be

 この「型」の動画を見ると、「速い」とか「力強い」とか「切れが凄い」とかではない「凄み」のような、また「凛とした何か」のような「佇まい」のような……そんなものを感じませんか?最初のお辞儀からしてもう違います。

 この数分の型の中にとてつもない数の繰り返しが作り出した「何か」が宿っていることを確かに感じませんか?

 きっとロボットが同じ動作を同じように再現することができても「それ」を感じることはないような気がします。

 

「繰り返しの中に何かが宿る」」

 

 これは今でも割と信じていて、ただ動作を繰り返すだけだとしても、必ず「それに付き合っている」がそこに存在していることが私は肝だと思っています。もちろんその時の集中力とか気持ちの持ち方でその「心」の状態は一様ではないと思いますが、それでもそのような心の「質」と別に費やした「時間そのもの」が単純に効いてくると私は思っています。「心の蓄積」とでも言いましょうか。

 

 密教の行者は仲介者であって「自分が何とかする」世界ではないと教わります。だから上述した型の繰り返しのことを密教の行に当てはめて「行を数多く繰り返すことで自分に何かが宿る」という発想は間違っているのだと思います。

 しかし、「そういう何かを期待する」という発想を持たない限り「ただ覚えました」で良しとせず、只管「繰り返す」ことで「その行とともに長い時間を過ごす」経験は必要かな?と思ってみました。

 

修行者の皆さん、どう思いますか?(^^)

 

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