さて、皆さんは以下の文章を読んでどんな印象をもつでしょうか?
『認識対象ないし経験は完全な一体として見られやすい,対象にすっかり没入してしまう,自己超越的ないし自己没却的で無我でありうる,固有の本質的価値を担う,主観的に時間や空間の外におかれ時空を超越する,善であり望ましいばかりの認識であり評価を行なわない,自己の人生を越えて永続する現実を見つめているかのような強い絶対性が伴う,能動的というよりもはるかに受動的で受容的な経験である,経験を前にして驚異・畏敬・尊敬・謙遜・敬服という特殊な趣をもつ,多くの二分法・両極性・葛藤が融合し超越されて解決される』
『症状をとり除き,自分の見方を健康な方向に変え,他人についての見方や世界観に変化をもたらし,人間を解放して創造性・自発性・表現力・個性を高め,その経験を非常に重要で望ましい出来事として記憶し,繰り返そうとするなど,人生は価値があり,正当なものと感じられるとの生きがいをもたらす』
さあ、どうでしたか?凄い体験ですよね。
宗教体験のようにも感じます。
では答え合わせですが、この説明はビジネス界でも「承認欲求」というワードで割と引用される心理学者「マズロー」が提唱した「至高体験」についての解説文です。
皆さんが感じたように、宗教体験もここに含まれると想定していると思われます。
これらの「至高体験」は読んでもらえれば分かるようにとても「いい状態」であるし「魅力的な」体験であるのは間違いなさそうです。
マズローはこれらの体験を「自己実現的人間へと成長・発達していくうえでの啓示的体験」として重視します。
ただこの体験は「その場限り」という批判を良く言われます。つまり、一瞬上述したような(仮に)宗教体験をしたとしても「それっきり」で日常に戻れば「いつもの自分」に戻ってしまうという批判です。
実はこれは心理学で語られる「至高体験」でなく、仏教で語られる神秘体験でも同様の批判を目にすることがある。例としては、ある高僧が、空腹のまま禅に入り「無我の境地」入り、一旦は空腹であることを忘れ去るが、禅を終えて堂を出た後に発した最初の言葉が「何か食べるものはないか」だったという逸話(どこかで読んだ記憶がある……うろ覚えで申し訳ない!)
さて、私が好きな仏教学者さんに「正木晃」氏がいる。氏の図書「密教(ちくま学芸文書)」でこんな文章を目にした。
『密教でいえば、三密加持を実践したり、マンダラに融入したりして獲得する神秘体験は、たとえようもなく大切なものだ。それは誰にもわかる。しかし神秘体験は一時のものであって、永遠に続くわけではない。だから神秘体験を終えてしまえば、またもとの無明や煩悩に苦しむ状態に帰らざるをえないではないか……。』
この疑問に対して正木氏は同著で、「異本即身成仏義」にその答えがあると説明する。
「神秘体験の積み重ねの彼方に、すなわち日常にこそ大日如来の神秘が顕現している」
また同様に同著ではチベット仏教でもほぼ同様の結論に達したグル「ツォンカパ」が多くの著書で語っている言葉を紹介する。
「神秘体験の積み重ねの彼方に、日常がそのまま神秘体験となる世界が開けてくる。それがホトケの真意なのだ」
行の最中に訪れる「入我我入」の状態……最初は「行の最中だけ」でしょう。しかし上述にあるような「積み重ねの体験」つまり、「なんども行を続けること」でその体験が積み重なり、ついにはそれが日常生活にまで波及する(心理学的には般化する」。私は「現時点で」そう解釈しています。
また、これについては正解を理屈で探し出すのは難しそうなので「そうだ、そうじゃない」という議論は、個人的に意味がないのかな、とも思います。
だって結論は出ていると思いうからです。
つまり「ひたすら行をして」体験を積み重ねる。
自分ができること。
今はそれしかないっしょ?
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