愛犬「るびぃ」への沢山のお悔みのお言葉、改めまして感謝申し上げます。
二夜、「るびぃ」の亡骸と共にしましたが本日、無事に荼毘に付すことができました。
恥ずかしながら「るびぃ」の死によって、この歳ではじめて「喪失感」という感情に襲われました。
近しい人の死としては、母の死を経験していますが、「悲しい」という感情はもちろん強烈にあったのですが、正直今回のような「喪失感」はなかったように記憶しています。
誤解のないように言っておくと、これは「母よりも犬の方が大切だった」という話ではありません。人生の「別れ」としては母との死別の方が当然、より悲しいものでした。
では、今回の喪失感は何なのだろうか?と考えてみる。
いや、考えるまでもなくすぐに答は出た。
喪失感というのは、日常の自分をどれだけ急激に失うか、なのだと思った。
母とは私が就職して他県に赴任して以来、年に何度も実家に帰るとはいえ一緒には暮らしてはいなかった。つまり母を思い出すことはあっても「私の日常に積極的に関与する」ことはなかったのだ。
しかし「るびぃ」は、と考えると……
朝起きれば、尻尾を振って餌を催促する。だから寝坊すればすぐに「るびぃ」の餌のことが気になる。妻が我々の食事をテーブルに運べばいつ「るびぃ」に横取りされるか注意深く警戒しなければならない。おしっこをすれば、猫がいたずらする前に(愛猫檸檬はなぜか「るびぃ」のしたおしっこのシートを丸めたがる)かたずけなければならない。夕方になれば「るびぃ」の散歩があるから常に天気が気になる。妻と外出した時も「るびぃ」の夕食時間(16:00)を常に意識して帰宅する習慣になっている……etc
数え上げればきりがない。そんな手間のかかる「ペットの存在」に辟易することも多かった。
最近では「猫の方が手間がかからなくていいね」なんて皮肉を「るびぃ」に投げかける機会も多かった(もちろん「るびぃ」がその言葉を理解はしていないが)。
だからこそ……だったのだ。
日常から「るびぃ」という存在がいなくなったできた物理的な時間もちろん、それよりも圧倒的な「心のスペース」が私の中に(そしておそらく妻はもっと)出来てしまった。
もちろん愛犬が無くなるのは悲しい。でもそれよりも人間に大きなインパクトを与えるのは、いままで当たり前に毎日存在していた「るびぃ」に対する「私の時間、私の意識」の行き場がことごとくなくなってしまったことだと気付いた。
養老猛司氏が番組で「(他人の)死を経験すると、自分の何かが死ぬ」と語っていたことがあった。その意味をようやく理解した。
その養老先生が愛猫「まる」を失った後のインタビューを読めば……「ああ、そうだな」とつくづく思う。
「もともと、まるは動かない猫でした。最期にわかったけれど、心臓が悪かったからかもしれません。動きが鈍くて、抱かれるのが好きじゃなかった。走り回るっていうこともなくてね。事件は起こさないタイプで、食べ物以外に興味なし。朝起こしに来るのだって、お腹が空くからでね。何かこちらに働きかけをしてくるっていうことはとにかくないから、こちらが常に気に掛ける方になっていたんですよ。まるはどうしているか、気にするのはいつもこっち」
養老さんは、まだまるが生きている頃の感覚が抜けない。生前は音を立てないで縁側のそばを歩くようにしていたが、いまでもついそうしてしまう。
「もうそんなことする必要がないことに気付いて、その瞬間に寂しく感じます」
引用元:一般社団法人共同通信社
「ペットロス」という言葉、「そんな大袈裟な」なんて気にもしていなかったが、ペットとは両親、子供とは違い必ず日常を共にする存在。
今にして思えば、ロスになるのは当たり前だったと認識を改めた。
14年間、私の日常に入り込んでいた「るびぃ」の面影。それが私の日常から無くなるまでは、もうしばらくかかるのだろうと思います……
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