ここ数回、愛犬「るびぃ」のネタばかりで恐縮だが、先日「妻」との話で少し思うことがあったので記しておきます。
妻は,先だって旅立った「るびぃ」を「はやく逝けてよかったね」と表現した。
「良かった?」
ペットの死を「良かった」と表現するのはとても違和感があるが、妻に言わせると二か月前に「最初の発作」で「るびぃ」はすでに「亡くなった」という。
「いやいや、二か月生きたでしょ?」
と突っ込みたくなるが、実は私にも思い当たる節がある。
発作の後のるびぃは所謂「認知症状」になって「我を失った」のは紛れもない事実。その認知症状も改善に向かっていたのはこのブログでも触れたとおりだが、それでも「我を取り戻す」ことは全く見込みがないことは私も承知していた。
飼い主にとって一番決定的なのが「もう私や妻のことを飼い主として認識できない」という部分。
だから確かにるびぃは二か月生きていたが、「かつてのるびぃはもういない」という想いは二か月前にして痛い程感じていた。
もちろん「動物の本能」の部分のるびぃはまだまだ生きたかったに違いない。しかし、現実的に待っているのは不自由な老後だ。これから繰り返す発作、肉体的苦痛、精神的苦痛を強いられるのはおそらく避けようがなかった。
「だから、長年苦しむより早く逝ったほうが」という妻の意見は一理あるのは事実だ。もちろん妻にしても「悲しさ」を紛らわすために「良かったこと」にしたいという想いから出た言葉であって、本心で「良かった」と思っている訳ではない。
二か月前、不動尊華水供養で最初の発作から持ち直したるびぃ。ただその後私の行は「本尊供」と「理趣分」になっていたので、るびぃの祈願は不動尊華水供養ではなく理趣分で行っていた。
最後の夜、私がリビングに入ると「るびぃ」まさに発作の最中だった。私がリビング来る直前、「理趣分」でまさに「るびぃ」を祈っていた。
師僧はよく「理趣分」を「早めの祈祷」いう話をされる。
るびぃがこれに依るのか否かは私には判断しかねるが、妻の話を聞いてそんな可能性もあるのかと思った。
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