「無意識のその先に神仏がいる」
ということをこのブログで何度か記事にした事がある。これは現代科学で証明云々なんていうことは土台無理な話だから個々人が「信じる」「信じない」の話になってくる。
「もちろん信じるっちゃ!(宮城弁)」という方は以下の話にもお付き合いください。
無意識の先に神仏がいたとしても、問題なのは無意識から発せられた情報が「個人の無意識」のものなのか、その奥の集合無意識なのか、さらにその先にある神仏からのものなのか区別がつかないということ。
だからきっと二種類の過ちに注意する必要がありそうだ。
①無意識の声を「神仏の声」と過大評価する
②神仏からの情報を「無意識の情報」と過小評価する
スピリチャルに興味があるとどうしても①に陥りやすいように感じて、現に二言目には「○○さん(例えばお不動さん)がこういった」と易々と言ってしまう人が結構いる。
逆に宗教に関心がない人は②のようなリアクションであることがほとんどでしょう。
我々のような駆け出しの行者だと「神仏」への信仰があるが(もしくはあるからこそ)簡単に「神仏の声」が自分に聞こえるはずがないと慎重な態度になりやすいし、それでいいと思っている。
ただ振り子も極端に振れると、つまり「全く神仏のメッセージは届かない」と思ってしまうとそれはそれで「違う」と思うのだ。せっかく神仏がメッセージをくれたのに「どうせ個人的な無意識の情報だ」と捨て置いたらそれこそメッセージをくれた神仏に失礼だ。
だから行者という修行者の立場なら「その情報が神仏からのメッセージである可能性がある」という「検証」をいちいちしていく努力をするべきだと思う。「個人的な無意識の情報だ!神仏からのメッセージだ」という安易な決めつけをせず「どちらの可能性もある」として一旦受けとめて慎重な検証、判断をする。
その繰り返しも重要な「修行」と私は思う。
無意識を入り口とした情報がもっとも入ってくるタイミングは信者の方であれば「礼拝」「勤行」をしているときだろうし、我々であれば行の最中だと思う。その時は礼拝、行に集中しつつも注意深く「心に浮かんだこと」は心に留めておくことが重要だと思う。
またほかのアプローチとして心理学者が紹介するワークも取り入れるのもいいと思う。個人的にはアーノルド・ミンデルのワークがお勧めです(ミンデルの著書に多く紹介されています)。
先日、妻と新しくできたショッピングモールに出かけた時、妻は「一人でゆっくりウインドウショッピングしたいから」と時間を決めて私から離れた。
私は特にやることもないので、休憩スペースに座ってミンデルのワークをやってみた。
ベンチに座ると店の喧騒が自然と耳に入る。うとうとと覚醒レベルが下がると耳から入る喧騒に時々浮かび上がるお客さんの「声」に意識が向く。沢山のお客さんの会話の中で私の耳に留まった「言葉」の意味を考える。その言葉を捉えたのは偶然ではなく「無意識の意図(もしかすると神仏の意図)」の可能性があるからだ。
ミンデルはその言葉から連想されるイメージに集中して、例えば体の不調部分とリンクさせたり、過去の記憶を想起させたりとそのイメージを膨らませて「その言葉」の裏にある「ストーリー」を引っ張り出す。
そんなことをしていると耳に入ってくる「喧噪」の「ガヤガヤ」という雑音が雅楽のメロディーが重なってくるような錯覚を覚えた。
現実的には雑音がたまたま「そう聞こえた」だけなのだと思うが、私が「メロディーだ」と思った時点で意味を持つ、と考える。
そして、さらにそのメロディーの背後にある「ストーリーを探る」……なんてことを繰り返す。
すると「はっ」とした気づきがあり、何らかの問題解決のヒントという具体的な「成果」が降りてくることもあるし、何もないこともある。
「行」や「礼拝」の時だけでなく、ちょっとした「隙間時間」こそ、案外こういった無意識の情報に触れやすいということもあるのでお勧めです。
ではまた。
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