以前に祈願をすれば修行が進むという記事を書いた。
ポイントは、祈願が叶うということは、叶うために自分の行動が変わらなければならないし、そこに学びが伴うことにもなるし、場合よっては価値観を変えなければならない状況に追い込まれることだってある。
身の回りに起こるこれらの「変化」に気づけば「叶う」方向に進むだろうが、無自覚な場合「なんか最近いろんなことが起こるな」となって行動が変わらなければその祈願の成就も遠のいてしまうように思う。
経験的に神仏は「簡単に見捨てない」ので、当人が「叶ってほしい」と諦めなければ、あの手この手で「その望みが叶えたいなら変わりなさい」と促してくる。むしろ神仏は見捨てないどころか「強烈な」状況に願主を追い込んでで無理やりでも「こいつを変えてやろう」とやってくることもあるように思う。
そんな例を実際に時折目にする……
お願いすればするほど状況がどんどん悪化しているように見えるが、それは「変わる」ための神仏からのシグナルに気づけないから。すると上述したように神仏からのシグナルが強烈になってくるのだと思う。
よく「仏(如来)菩薩は緩やかにメッセージが来る」からまだ強烈なことは起きないといい、天部は験が早い分だけ急な変化を要求するから「きついことが起こる」なんてことを聞く。行者としてはこれについてまだ確たることは言えないが「信者として」「祈願をお願いする側として」そういったことは十分するぎる程に感じるところである。
だから「祈願」をする場合には「これは修行なのだ」という自覚が必要と思う。無自覚で無理難題な祈願をするとただただ「えらい事」に巻き込まれてついにはその祈願を諦めることになりかねない。
むろん「祈願」をしていなくとも日ごろから神仏のメッセージに耳を傾ける(むろん具体的に何かが聞こえるという話ではないですよ?念のため(笑))修行をしていれば常にアイドリング状態ともいえるので「祈願」をしたさいに受け取りやすいと思います。
そのための少しでも神仏に向き合う時間、つまり日々の勤行っていまさらだけど大切だと思います。勤行もただルーティンをこなすだけという意識ではなく、一日ひとつでも神仏からのメッセージを貰うぞ!という高い意識を持ちたいですね。あまり期待し過ぎる態度も良くないと思いますが。ただただぼんやりお経を唱えるだけではせっかくの大切な時間がもったいないと思います。
ということで……今日も寝る前に神仏と向き合う時間をとって寝ましょうね(^^)
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