「家どのへん?」
と聞かれれば
「観音さまの近所」
と説明していたほどに仙台在住時代の私はこの記事にある仙台大観音のすぐ近所だった。
上の記事にあるロケーションは有名で、まるで観音さまが住宅地を歩いているようで、またそれが夜だと余計に「現実離れした」雰囲気を醸し出す。
以前にもこのブログで取り上げました。
これだけ大きな(100m)お像だと、仙台市のどこにいても見えてしまうほどなので日本でも最も多くの人の目に入っている観音さまの一つだと思う。
このお像作成を発願したのは、宗教家ではなく実業家でその意図の中心は「観光」にあったかもしれない(そして地域住民の反対は多くあった)。しかし今となっては世界から仏教徒がここを訪れるというから……この実業家の方がおこなったことはとても広い仏法繁栄に貢献したとんでもない功徳を積んだともいえる。
そんなことを思うと、最初は「どういう意図があったか」と「結果」はかならずしも一致しないんだな、ということ。逆に高尚な意図ではじめても衆生に対して全くの影響力もないなら「無いのと同じ」ということになってしまう。
難しいですね。これは自身ではコントロールできることでもないから。
だからこの仙台観音のことを考えるときにいつも思うことは「最初は間違っていてもまずはアクションを起こすことの重要性」だ。高尚なアイデアがでなくていつもまでも何もアクションを起こさなければ衆生への影響力はゼロだ、という「事実」。
正しい修行が根っこにあるなら、最初その行動がたとえ間違っていても必ず軌道修正という神仏のお導きが入るはず。
そう信じることができるのが信仰の力だと思ってアクションし続けるよう自分を鼓舞する。
そこで二の足を踏むという事は、ある意味信仰が足りないのだとも思うから。
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