先の「スピリチャル」に関する記事に対して以下のような「コメント」をいただきました。
『亮和先生
似たようなことを考えていたところにこの記事。
仏教に関してはずぶの素人です。ご教授くださると幸いです。
記事を拝見しますと無意識という言葉がよく出てきますが、仏教では魂といいますか、個はあまり意識しないのでしょうか?
無意識の領域にいらっしゃるのが神仏と捉えるとどうも無人格のような気がするのです。
人も神仏も魂、霊、肉体(依り代)があるように思うのですが、これが無意識とかとどう関係するのかその相関関係がさっぱりつかめません。
例えば不動明王にしても巨大な大元はきっとどこかにいらっしゃるのだろうと思いますが~お不動さん、~の波切不動、~の水掛不動というように個の魂が分かれているように思います。その魂を分けたのはきっと大元たる不動明王もしくは大日如来ということになるのでしょう。
そこに無意識などがどう介在するのかちょっと掴めないでおります。
お時間あるときにお教えいただきましたら嬉しいのですが。』
私は大学で心理学を専攻していたことと、また大学卒業後も割と心理学の勉強は続けていたのでこのブログでも心理学の話題をすることも多くありました。
これまで散々、仏教を心理学という切り口で記事にしてきた私が言うのもなんですが、実は「仏教を心理学で解釈する」というのは、本音はあまり好きではなかったりします(笑)
理由は色々ありますが、根っこにあるのは神仏を「学問」で解釈できるなんて「勘違い」を起こしたくないため、でしょうか。
それにもかかわらず、敢えて心理学を切り口に話をするのは、あくまで「方便」と了解しているなら「理解が進むこともある」と思うから。現代人にとっては特に。
心理学といっても色々ありますが、例えば実験心理学のようにサイエンス寄りの心理学ではなく、深層心理学のなかでもユングの流れをくむ学派は「学問」としてはかなり「キワ」にいるので宗教との親和性は高いので「方便」としては使いやすい。
……ということで、前置きが長くなりましたが、上記コメントに対して私見を述べたいと思います。
以下、私の返答
『私が無意識という言葉を使うときは、深層心理学でも「ユング」の仮説を前提しています。
少し専門的になりますが、ユングが扱う「無意識」は大きく分けると2つ。
1つは後天的に(フロイトの言う自我の防衛機制などで)意識から蓋をされてしまった「個人的無意識」という領域。
もう一つは、人間が誰でもが先天的に持っている「普遍的無意識(集合無意識とも)」という領域。
神仏との関係を見るときには後者、つまり「普遍的無意識」に注目します。
「普遍的無意識」は上述の説明では分かりにくいと思いますが、「この世の経験がない」胎児が見ている夢を考えてみましょう。
胎児はまだ何も経験していないので、後天的な所謂「個人的無意識」はないはず。なのに夢をみるのはなぜ?という疑問。
これは先天的に人間が持っている「イメージを見てるから」と言われている。その先天的に存在するイメージはいくつかのパターンが存在するらしい。
曰く「偉大な母のイメージ」だったり「賢者のイメージ」だったり「女性のイメージ」だったり「男性のイメージ」だったり「子どものイメージ」だったり。もっともっとあります。
人間が現実の(人間の)母を「母」と認識できるのはもともと「母のイメージ」が無意識に存在しているからと解釈されます。それがなければ、赤ちゃんは、たとえば母を見ても他人と区別ができなくなる。でもそれができるのは「もともとある母のイメージ」を重ねることで認識できると解釈する。難しくると「イメージと同一化する」なんていいます。
そして深層心理学ではそのもともと人間が持つ「イメージ」は、仏教に限らずあわゆる宗教で登場する神仏に酷似しているとする論説があります。神仏ように人間に対して強大な影響力があるともいいます。
そんな「強大な力をもつ」という「普遍的無意識」はだから例えば観音さまとマリア様は全く別の宗教から生まれた存在だがそのベースに共通点はありそうだ……なんて解釈が生まれる。
誤解してほしくないのは、これは例えば「観音さま」は無意識にあるイメージにすぎないと言っている訳ではありません。個人的には、無意識の先におわす「観音さまという存在」が無意識を経由して人間が理解すると、上記のような解釈も成立するといえばまだ近いでしょうか(あくまで私の理解)
また割と理解されていない(誤解されている)ことが、無意識というのは意識では決して直接的に触れることができないということ。それを知るには「間接的に」でしかない。
上述の例でいえば「観音さま」が無意識を経由して人間に近づいたとしても、「観音さま」という人間が作り出した「形」と同一化して初めて人間は理解できるということ。「人間的な容姿をしている」ということが、もうすでに「人間さまの都合」で「間接的に」してしまっていると理解しましょう。
宗教的な表現をするなら「観音さまが自分を理解してもらうために人間に近しい姿をとってくれた」となる。
私がこのユングがいう普遍的無意識を「神仏の入り口」と解釈している理由に、その普遍的無意識の領域が無限大と表現されることもある。つまり小さな小さな「意識」では、とても理解できない程の大きいということ。
先に述べたように無意識は我々「意識」は直接的に認識することができず「間接的」という煩わしいやり方しか理解できない。だから「意識」にとって無意識はもう「未知の存在」でしかない。
ユングは「無意識」という心理学用語は使っているものの、その先はおそらく人間では理解できない領域=神の領域まで続ていると気づいていた節がある。それゆえか、ユングはオカルトに傾倒しフロイトと決別したのは有名な話。
つまり心理学用語でもある「無意識」というのは、「学問」として説明しきれる言葉ではなく「底が知れない存在」を表現する言葉として理解している学者も多くいて、私もそれに同意しているということ。
だから上述した「観音さまは無意識のイメージ」ではなくて「その先にある未知なる領域におわす誰か」と解釈すれば違和感(不快感)がない訳です。
だから、こう考えるとすでに学問の概念を超越している「無意識」という領域は、私がこのブログで表現するように「神仏のおわす領域」と表現しても間違いではないかなと。
「領域」という言葉は「閉じた」イメージがりますが、上述したように全く閉じていない、宗教的な言い回しを使うなら「宇宙的な広がりを持つ」と表現するのがいいと思います。
ここまでくるとその説明は「曼荼羅」のそれに近づいてくるのが分かります。
上述の説明がご理解いただけると、例えば最初に優れた修行者の「感得」によって混ざりけのないイメージに近い状態で出現した「不動明王」「観音菩薩」も(それでも人間的解釈は経由している)、その国の、土地の、民衆のといういろいろな立場の人たちが理解するために「より分かりやすい形=個」に変化していくのは、そうしないと人間は理解できないから、と考えるといいと思います。
「その人」が認識できなければ、「その人」へ影響を与えることはできない訳で、だからこそ神仏は衆生のために変幻自在に姿を変える。世界的に最も人気がある観音さまが「変化する」ことを得意としていることが、その論拠にもなりそうです。形を変えて「その人」に近づくことができるなら、より多くの人に影響力を及ぼすことができるということ。』
ざっと思いつくままに書きましたが、まだまだ言葉がたりないですね。
くどいようですが、冒頭で書いたように「方便」として「無意識」という言葉をあえて使って説明しているので限界はあります。微妙なニュアンスの違う多々あるでしょう。
最後に、きっと「神仏」を「無意識」という心理学用語で説明することに「違和感(不快感?)」を覚える方もいると思いますが、上述したように私の中では「無意識」ということば心理学用語の域をとうに超えていているので「世界」「宇宙」と同義と思っているので、そこは「無意識」という言葉の解釈の違いがあると思います。
近い将来、リモート勉強会でもこんな話を詳しくすることも検討したいと思います。
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