公衆トイレに入ったら、そのトイレがとても汚れていた。
「ああ、なんだよ!ツイてないな!」
これが普通の反応でしょう。
また「前に使ったヤツ、ちゃんとキレイにしておけよ!」なんて憎まれ口を叩くかもしれませんね。
私も本音ではついつい同じような反応をしてしまうことが多いのですが、「努力目標」として、できればまったく違った反応をしようと思いっている。
それは……
「ああ、こんなにトイレが汚いのは、私も心が汚い証拠だ」
汚いトイレに出会ってしまった責任は「自分」にあるという発想です。
言い方を変えれば「汚い心」が「汚いトイレ」を引き寄せてしまった、という感じでしょうか。
自己啓発書、ビジネス書で「トレイ掃除」を勧めるものをよく見かける。
これらの本の中には、内容が「薄っぺらい」感じのものもあるが、元祖「掃除道」提唱者ともいえるで「イエローハット」の創始者「鍵山秀三郎」氏の図書は、お勧めです。地に足がついた「ど正論」がとても心地よい。私が今でもとても参考にしている座右の書でもある。
ただ、今日したいのは「自己啓発」「ビジネス」の話ではない。
今日したいのは「その先」の話です。
自己啓発書やビジネス書でいう掃除の重要性はトイレ掃除をすることで、心が綺麗になる、という順番になっている。これはこれで「正しい」と思う。
ただ冒頭の話は、この話に仏教的な「縁」の話を持ち込んで、汚いトレイと「縁」を持ったのは自分に責任があるという発想を持つことがポイント。
つまり順番が逆ということ。だから「心が汚い」が先。その結果として汚いトレイと出会に出会ってしまうと解釈する。
この話のポイントは、汚いトイレに出会った時に「あ、心が汚れているかも」という「気づき」が持てるかどうか?ということ。
「気づき」があれば、自分の心の持ちようを反省し、行動を改善するきっかけになる。
「行動が変われば運命が変わる」という話は以前にもした。
今回も、ポイントは違うが同じくキーワードは「行動」だ。
このような「気づき」の機会を増やすとどうなるのか?
つまりこの繰り返しで行動が変わる機会を増やせるということ。
それによって人生をよりよい方向に向かうチャンスになるということ。
だから、そのための重要な「発想」だと思うのだ。
特に神仏とよくコンタクトととろうとしている人、つまりよく神仏を拝んでいる人はきっとこんな「気づき」が多いと想像する。
仏教徒ならその「気づき」を「神仏が気づかせてくれている」と解釈するべきだというと思う。
だから神仏とコンタクトをとっている人ほど「行動力が変わる気づき」の機会が多くなるはずだ、というのが私の持論。
だから「礼拝次第」を皆に送って「拝む」ことを勧める。ただ祈願をお願いするだけでは片手落ち。
ということで、今日入ったトイレは綺麗でしたか?
★ご相談はこちらから★
記事が面白かったら
クリック↓お願いします!