昨日「行者は、日常の行こそ大事」という話をした。とすれば読者としては「なら在家の信者は何をしたらいいのか?」と思ったに違いない?!
ということで、昨日の続き。
これは過去に何度も同じ話題をしているので「またか!」と思われると思いますが、重要なことなので繰り返すことにします。
要は「大切なのは日常!」という話です。
例えば下記記事。
具体的には、例えば日々のお勤めをしっかりやること。
これに尽きると思います。
「何をどれだけやるか?」は、人の数だけ正解があるものだと思います。
上の記事でも書いていますが、ポイントは「どれだけ神仏を身近に感じられるか」と思います。
逆にこれがなければ(神仏を身近に感じることができなければ)いくら時間をかけてお勤めしても的を外していますかもしれません。
私も在家信者時代は「どのお経をどれくらい?」「真言は?」「お供物は?」とやることをどんどん増やして、終いには唱えるお経、真言の数が膨大になり数時間コースになってしまったことも。
ただ、それだけやっても、例えば「これだけやってる俺、凄い!」という勘違いを起こしたり、時に(疲れているとき)「義務感」で「いやいや」やるようになってしまい本来の目的を失ってしまっていたこともありました。
「神仏を身近に感じる」
シンプルだけど難しい。
それを思うとき、かつてそれを聞いて感動したあるエピソードがいつも思い出される。
そのエピソードは過去にこのブログでも紹介した「生きた信仰に触れられる」おススメ番組「日本風土」のワンシーンにあった。
この「日本風土記」で、即身仏・本明海上人の法要を紹介する回があった。番組ではこの法要に訪れていた人にインタビューをするシーンがあり、そのインタビュー②私は心動かされた。
そのインタビューは、概ね以下のような内容だったと記憶している。
その方は漁師をしており、毎年の法要に訪れて、漁の安全を祈願しているという。
この方が、「毎年法要にくるようになった」きっかけのエピソードを語ってくれた。
漁に出たある日、酷い時化(しけ)にあい、海に投げ出されそうになった。その時、咄嗟に「本明海さん!」と叫んだという。
生死にかかわる咄嗟の時。
思わず口を着いた上人の名前。
「ああ、これが信仰だ」
と思った。これが「神仏を身近に感じること」だと思った。
以来この方は、その時の感謝の意もあり毎年法要に訪れるという。
そして思った。
私は命に関わるとっさのときにどんな言葉が口をつくのか?
行者だから、在家信者だからと関係ない。まだまだ偉そうなことは言えない。
私も常に神仏がいる信仰の境地をめざしたい。
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