人生で「救急搬送」をされたことが一度だけある。
それは、密教の行中に起きた。
不動慈救呪、一洛叉(十万遍)
本格的な密教の行へ進むために通る、最初の行。
私は標高800m、飯縄山山麓にある奥の院で8日間籠って行をさせていたく予定だった。
それが起きたのは行の後半、六万念誦を過ぎたころだった。
・・・・・・ ・・・・・・ ・・・・・・
行中に、私の口から「ああ、ああ」としわがれた奇妙な音が漏れていた。
その奇妙な「音」の正体は、もちろん私の口から発せられた私の声なのだが、その「音」は私が意図しているものではなかった。
「なんだこれは?」
自分でも何が起こったのか、よく分からない。私は確かに不動真言を唱えようとしているのに口がそれに反応してくれないのだ。
だから、その「声」は気味の悪い音声となって私の口から漏れ出ていた。
すぐに「不動真言を唱える」という意思が、どうやら口に伝わっていないことに気付いた。最初は安易に「流石に口が疲れたのか?」と思い、一度大きく深呼吸し、再度、不動真言を唱えようとした。
「あ……あ……」
やっぱり唱えられない。しかもさっきは無意識的に真言が口から出ていた状態だったので、それほどの違和感は感じなかった。
しかし、今度は違う。「意識的に」「注意深く」唱えようとしたにも関わらず、声にならない。
想像してみてほしい。意識的に声を出そうとして口が動かない。これがどんな感じなのか?
……とにかく気持ちが悪いのだ。
私はその「気持ちの悪さ」が原因で、まるで内臓が「ぐるり」と廻ったかのような耐えがたい不快感に襲われた。
私が咄嗟に思ったのは「これは、もしかすると脳出血、脳梗塞か?」だった。
だとすれば一大事だ。
私は、もう一度だけおちついて注意深く真言を口にした。
理由はわからないが咄嗟にこの時口から出た真言が、准胝仏母の大呪だった。ここ数日ずっと不動真言を数万も唱えていたので「なんで?」と思う。
しかし、なぜか准胝仏母の真言は全く苦も無くスルスルと口から出てきたのだ。
「そうか、さっきのはたまたま口周りの筋肉が疲労していただけなのか?」と思い、もう一度「不動真言」を唱えようとした。
「ああ、ああ……」
准胝真言はあれほどスルスルでてきたのに、やはり不動真言は出てこない。
また先ほど感じた強烈な不快感が再び内臓を襲う。すると血の気が「サーッ」と引いていくのを感じ、視界までもがホワイトアウトしかけた。
気を失う前にと、這う様にお堂を出た。
「具体が悪くて……」
行の監督で堂外で控えていた上座の先輩になんとかそれだけ報告したが……今度は呼吸が上手くできないことに気付く。
「こ、呼吸が上手く……できません」
そう言いながら、この時ばかりは「死ぬかもしれない」と本気で思った。
「呼吸ができない恐怖」「死の恐怖」でパニックを起こした。
いや、もしかするとパニック発作が先で呼吸ができていないと「思ってしまった」のかもしれない。
ただ私は必死に呼吸をしようと頑張ったが……結果的にそれが「過呼吸」となって、全身は痺れ、いよいよ意識が混濁してきた(と思う……よく覚えていない)
しばらくして、救急隊員が慌ただしく院内に入ってくるのに気付く。
心電図、血圧、血中酸素飽和度のセンサーが取り付けられモニター画面にそれらのデータが表示された。職業柄(医療機器メーカ)それらの数字が意味することを一瞬で理解した。
私の予想を大きくはずして、それらの生体情報は全て「正常」だった。それの意味するところは?
先に少し書いたが、おそらく堂内で真言を唱えている段階で気づかずにパニック発作を起こしかけていた。パニック発作ではよく「死の恐怖」を感じて過呼吸になるという。
正にその通りの症状だった。後から調べてみるとパニック発作で感じる「死の恐怖」は本人は本気で死を感じているのでその恐怖はとてつもなく強大だ、とあった。
その意味が今思えばよく分かる。実際に私は死にかけていたわけではないのだが、確かに「死」を感じていたのは紛れもない事実だ。
結果的に搬送先の病院で医学的処置は一切なし。ただ抗不安薬を渡されて帰されたが……師僧からは「即下山」を言い渡された。
「行が途中で中断するようなことがあれば、二度とチャンスはないと思え」
行に入る前に、師僧からそう伝えられていた。
だから私はこれで「終わった」と思った。
医学的には「パニック発作」「過呼吸」で「大事に至らず良かったね」となるかもしれない。ただ密教の行という視点で見れば上述の「不動真言だけが出てこない」ということから鑑み「お不動さまにストップを掛けられた」となれば事態は深刻だ。
散々にご迷惑をお掛けした上座の先輩に駅まで車で送ってもらう道すがら、「何が悪かったのか」色々相談に乗っていただいた。
別れ際、「行は途中で終わってしまいましたが、自主的に家で続きをやります」と話したのを覚えている。
私が救急搬送をされている時、一つ不思議なことが起こっていた。
「何かあったんでしょ?」
私が「途中下山」の報告を妻に入れた時の第一声だ。
私「え?なんで?」
妻「具合悪くなったんでしょ?」
私「過呼吸で、救急搬送された」
妻「パニック発作でしょ?」
私「なんでわかった?」
妻「私も同じころパニック発作になったから」
概ね、こんな会話だったと思う。
これが偶然なはずがない。明らかにシンクロが起きていた。この話は、今日の話とは別なので詳細は割愛するが、このエピソードがきっかけで妻は得度をする道が開いた。
後日談。
①師僧は「里見は、おそらく行中に何かあるから注意しておくように」と、監督の先輩に事前に話があったらしく、まさにその通りになってしまったそうだ。
②「もう終わった」と思っていた密教への道だが、偶然に翌月、再チャレンジのご縁をいただくことができ無事萬行することができた。
エピローグ
「業が出た」ということはもちろんあったと思う。それにプラスして個人的な感想としては「ここで躓く必要があった」というのが一番しっくりくる解釈だ。
私はあの時、確かに「出直してこい!」とお不動さまから突き放されたのだと思っている。あの失敗がなければ気付けなかった「至らぬ点」が後々山ほど出てきた。また、妻の因縁も含め多くのことが明らかにもなって「私だけの行」では済まされないというステージにも追い込まれた。
だからつくづく「躓いてよかった」と思っている。
救急搬送までされて、身体に全く問題なかった。しかし「死の恐怖」を植え付けられるほどの楔は「グサリ」と深いところに突き刺った。きっとこの楔は一生抜けない。いや、抜けては困るのだ。
間違った方向に向かいそうになった時、この楔の痛さで気づくことがあるにちがいないから。
この楔は私にとって、もうなくてはならない大切な心の指針になっているのだ。
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