准胝院のブログ

八王子市で准胝仏母を本尊とする天台寺門宗祈願寺院「准胝院」のブログです。准胝仏母祈願、不動明王祈願、人型加持(当病平癒)、先祖供養(光明供)、願いを叶える祈願(多羅菩薩)、荼枳尼天尊(稲荷)の増益祈願等

小さな矢印、大きな矢印

 自分が生きる方向性を決めているのは「自分」である。

 これに異を唱える人はいないですよね?

 まさか

「いや、そうじゃないそれを決めているのはあなたです」

 なんて人はいないでしょう(笑)

 でも自分で決めた生きる道は、山あり谷あり。楽ではない。

 仏陀はいみじくも「一切皆苦」とそれを表現した。

 「何が正解なんだろう?」

 人は常にそんな悩みが絶えることがない。

「自分が意識できないところで神仏が見ていてくれる」と安心感を与えてくれるのが信仰心だと思う。

「自分で決めている」と思っていても結局、仏さまに導かれて、なるべくしてなっていた、だから全て任せてしまいましょう……そんな発想だ。

 この「自分で決めた(と思っている)」ことは実は人生に与える影響はごくごく小さい。

 いわば小さい矢印。

 でも仏さまが指し示す方向は太くてパワフル。太い矢印。

 歩みがそろっていれば大事にはならない。

 でもたとえ「小さい矢印」でも、時に明後日の方へ行き過ぎて、仏さまが示す太い矢印から外れてしまうことがある。

そうそると太い矢印は「ほらほら戻って来なさい」と強引に正しい道へ小さい矢印を戻してくれる。

 ただこの太い矢印は「言葉」で、それを伝えることができないので「出来事」「経験」で教えてくる。

 間違った方向へ進んでいると「小さな矢印(私)」は予期しない出来事に巻き込まれて、結果、「会社を辞める」とか「別れがある」とか、「価値観を変える」とか、逆に「思っても見ない人との出会いがあったり」とかとにかく色々な「その人を変えるための」出来事が起こるかもしれない。

 「私個人」で見れば「大変なことに巻き込まれた」となるが、広い目(長い目)で見れば、また方向性が定まっていくべき道に歩めていることになる。

 おそらく上で見たような「急な変化」が必要な時ほど、「痛み」を伴うこともあって、そのやり方は強引に映る。

 だからできれば例え「間違った方向」に向かってしても、緩やかな変化がいい。


 さて、我々の信仰では何を気を付けたらいいのだろうか?

 いつもブログで言ってることを繰り返します(繰り返しは大事ですからね)。

 日常から「小さな変化」に気付ける人になる。これができる人は振れ幅の大きい急な  変化を要求されるような「大事」に巻き込まれることはあまりないように思う。

 つまり日ごろの信仰を大事にして、小さな気付きを続けることができる人。

 逆に、日常的に手を神仏に手を合わせる習慣はないが、「ご利益」は欲しいので信仰心はある。無理難題な祈願をすれば、神仏はそれを受け取るだけの「変化」を求めるので時に施主様は急は変化に巻き込まれがち。

「祈願をしたら反ってひどい目にあった」

というのはこんなパターンかな?と想像する。

 また「験の強い」天部尊の祈願で時折見られる「障礙」も実は、天部尊が「意地悪」をしている訳ではなく、その祈願が叶う様に施主様に急激な変化を求めるが故に「きつい目にあわせてあげている」というパターンもある気がする。

 

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