自分が生きる方向性を決めているのは「自分」である。
これに異を唱える人はいないですよね?
まさか
「いや、そうじゃないそれを決めているのはあなたです」
なんて人はいないでしょう(笑)
でも自分で決めた生きる道は、山あり谷あり。楽ではない。
「何が正解なんだろう?」
人は常にそんな悩みが絶えることがない。
「自分が意識できないところで神仏が見ていてくれる」と安心感を与えてくれるのが信仰心だと思う。
「自分で決めている」と思っていても結局、仏さまに導かれて、なるべくしてなっていた、だから全て任せてしまいましょう……そんな発想だ。
この「自分で決めた(と思っている)」ことは実は人生に与える影響はごくごく小さい。
いわば小さい矢印。
でも仏さまが指し示す方向は太くてパワフル。太い矢印。
歩みがそろっていれば大事にはならない。
でもたとえ「小さい矢印」でも、時に明後日の方へ行き過ぎて、仏さまが示す太い矢印から外れてしまうことがある。
そうそると太い矢印は「ほらほら戻って来なさい」と強引に正しい道へ小さい矢印を戻してくれる。
ただこの太い矢印は「言葉」で、それを伝えることができないので「出来事」「経験」で教えてくる。
間違った方向へ進んでいると「小さな矢印(私)」は予期しない出来事に巻き込まれて、結果、「会社を辞める」とか「別れがある」とか、「価値観を変える」とか、逆に「思っても見ない人との出会いがあったり」とかとにかく色々な「その人を変えるための」出来事が起こるかもしれない。
「私個人」で見れば「大変なことに巻き込まれた」となるが、広い目(長い目)で見れば、また方向性が定まっていくべき道に歩めていることになる。
おそらく上で見たような「急な変化」が必要な時ほど、「痛み」を伴うこともあって、そのやり方は強引に映る。
だからできれば例え「間違った方向」に向かってしても、緩やかな変化がいい。
さて、我々の信仰では何を気を付けたらいいのだろうか?
いつもブログで言ってることを繰り返します(繰り返しは大事ですからね)。
日常から「小さな変化」に気付ける人になる。これができる人は振れ幅の大きい急な 変化を要求されるような「大事」に巻き込まれることはあまりないように思う。
つまり日ごろの信仰を大事にして、小さな気付きを続けることができる人。
逆に、日常的に手を神仏に手を合わせる習慣はないが、「ご利益」は欲しいので信仰心はある。無理難題な祈願をすれば、神仏はそれを受け取るだけの「変化」を求めるので時に施主様は急は変化に巻き込まれがち。
「祈願をしたら反ってひどい目にあった」
というのはこんなパターンかな?と想像する。
また「験の強い」天部尊の祈願で時折見られる「障礙」も実は、天部尊が「意地悪」をしている訳ではなく、その祈願が叶う様に施主様に急激な変化を求めるが故に「きつい目にあわせてあげている」というパターンもある気がする。
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