本山の修験に参加した時、ある時間帯に「バタバタ」と同時に何人かが足を滑らせて転んでしまったことがあった。現実的な理由を考えれば「滑りやすい足場に差し掛った」とか「疲れがたまり精神が散漫になるタイミングだった」といった説明がつくのだろう。
でもこの時、ある先達の方が「魔が差すタイミグだから気を引き締めよう」と声掛けをした。
「魔が差す」
日常使う慣用句だが、我々が「魔」を含む言葉を使う場合、一般の方が使うほど「比喩的」な意味ではなく、リアルな「魔」をイメージしていることが多くある。
それは行者が神仏を拝む時、「魔」をリアルに意識するからこそ、それを結界で締め出すということをできるのだ、という理屈となる。
だから、上述の先達の方も、よりリアルな「魔」をイメージしての声掛けだったように感じた。
話変わって。
先日今や人気ユーチューバーのオリラジのあっちゃんこと中田敦彦と古舘伊知郎のコラボ動画を見ていた時のこと。
古舘伊知郎さんが仏教に詳しいことは、割と有名な話。だからだだろうか、古舘さんの口からちょいちょい仏教的な話が顔を出す。
その動画の中で。
「魔が差すのも本能の仕業」
その古舘さんがそんな言葉を使った。
この言葉は、文脈的にはあっちゃんが、調子に乗って「やりすぎ」たことで失敗したが、結果的にその失敗が長い目で見てよかった、と振り返った時の古舘さんの言葉でした。
私はこの古舘さんの言葉を「魔が指すのも神仏の仕業」と言い換えると「ストン」と肚に落ちた。
神仏を信仰していればその神仏(本尊)から守られていて、だったら魔に差し込まれることなんて起きようないじゃないか?という疑問があったとする。
しかし、「その魔を差し向けた」のも、もしかして「本尊の仕業かもれない」という解釈をしたらだろうだろうか?
あっちゃんは、謙虚にするべき時に「調子に乗る」という「魔」が差した。でもそれを自覚できたことで(気付いたことで)軌道修正することができたのだ。
魔が差さなければ、その直すべき修正点は放置されてしまったかもしれない。
そう考えれば本尊が「眷属である魔」を遣わせて、修正点を教えてあげたと解釈できないだろうか?ということ。
さて、毎度の「今日の結論」です。
1)魔に対抗するためには、それが「魔」と気付けるための「感度」を上げておく必要がある。それはいつも言う様に常に神仏に手を合わせることで達成できるはず。
2)「魔」に気づけたら、それを毛嫌いするのではなく「本尊からのメッセージ」と受け取ること
3)本尊から遣わされた「魔」の仕業から「何の学びがあったのか」まで精査すること。そしてそれを改善する努力をすること
こんなところでしょうか。
では、また。
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