霊現象の「代名詞」に「金縛り」がある。
「嫌な奴」と思われると思うが!?あえて書きましょう。
私の中では「金縛り」は霊現象とは全く思っていなくて「睡眠麻痺」という生理現象であるとほぼほぼ確信している。
野暮を言うようだが、具体的にはREM睡眠で(その特徴は肉体の麻痺がおこる)で意識が必要以上に覚醒してしまった状態。思春期の入眠時REM睡眠が有名だが、私も中学時代よく金縛りになったが、ほぼほぼこの入眠時REMだったと思っている。
私はここまではっきり言う理由は、私自身が思春期以降にも金縛り経験を非常に多く経験しているから。
私が金縛りに頻繁になっていた(=過去形)ことには「ある」理由がある。それは気功法で意識的に夢に入り込むトレーニングをしていたのだが、この夢に意識的に入る過程でよく「金縛り(睡眠麻痺)」になってしまうのだ。最終的には当時はやろうと思えば意識的に金縛りになるまでになった。だから私の中では金縛りは「かかる」ものではなく「自分でなるもの」という感覚が強い。
さて、ここまでは金縛りを霊現象としている人からすると「不快な」説明になってしまったと思うが、一つ言えることは、この「金縛り状態」は「覚醒」と「眠り」の中間地点なので「無意識との接触」ということが起きやすい状況にあるという意味で「価値がある」とも思う。
ただ無意識のイメージは時に「霊」よりも恐ろしく強烈に自我を襲う。だから私も金縛り経験中で「睡眠麻痺」という生理現象と分かっていても「強烈な恐怖感」に襲われてパニックになるなんてことはよくあった。その時には「幻視」「幻聴」のオンパレードなのでこれを「霊」と思ってしまうのは「さもありなん」とも思う。今にして思えば割と危険なトレーニングだったようにも思う。
その後は、そんな「恐怖心」の回避方法も身に着け、最終的にはよほどのことがない限り恐怖も感じないしパニックになることもなくなった。
具体的には「夢の中」に意識的にダイブできればその時点で(夢に入った時点で)不思議と恐怖心はピタリと消えるということを学んだ。だから「怖い」と思った瞬間に「夢に飛び込む(これは少しコツがいる)」ことができればOK。ちなみにその夢は「意識を持ったまま」入り込んでいるので、所謂「明晰夢」になる。
さて、なぜ、急にこのような話をしたのか?
つい先日印象的なことがあったのだ。
連日の睡眠不足で昼間寝てしまったとき、久々に金縛りとなり。いつもの癖でそのまま明晰夢にもちこんだ。
するとその「明晰夢」で「あるお堂」が出てきたのでそこに入ってみた。そこにはなんとそこには私が先日作成した「多羅菩薩」と同じ顔をした「お像」が安置されていた。色はグリーンではなかったので多羅菩薩ではなかったのかもしれない。「仏さま」は普通に夢に出てくるのと明晰夢に出てくるのでは「その存在感」はまるで違うと思った。私はその多羅菩薩(?)の強い視線を感じたのを覚えている
ちなみにその強い視線と、目があった瞬間にその明晰夢が強制終了した。せっかくの多羅菩薩の邂逅はたったのこれだけ。とても残念。
非常に残念だったので、せっかくだからまた「明晰夢」に入る頻度を増やそうかな?と思うきっかけになった。
チベット仏教の「夢ヨーガ」を意識する訳ではないが意識を保ったまま夢に入ることは、なんらかの修行のヒントになるとも思ったのだ。
最初は先日も話題にした明恵上人の「夢記」のように「夢(私の場合明晰夢)を記録する」というところからスタートしてみようと思う。あまりガツガツいくとよくないように思うので「敬虔に」「真面目に」「少しづつ」取り組んでいこうと思う。
興味深い内容の場合はこのブログでも紹介しようと思います。
今日のところはここまで。
では、また。
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