昨日、兄弟弟子の一人から「飯縄明神のお像はないの?」と尋ねられた。師匠のお寺の本尊は十一面観音とならんで飯縄明神だから、弟子の中でも飯縄さまをまつる人は少なくない。私は「もしお迎えするなら、自分で彫るか、描くかするしかないかな」と答えた。
私はこれまでにいくつか仏像を自分で彫ってきた。荼枳尼天、尊星王菩薩、多羅菩薩、文殊菩薩――そうした像を祈ってきた経験から思うことがある。昔はオークションなどで仏像を手に入れることもあったが、今ではそういう気持ちは不思議となくなってしまった。理由は――と私が思っているのは――自分で彫った仏像の前に座ったときにだけ、特別な「拝みやすさ」を感じるからである。
この「拝みやすさ」とは、見た目の美しさや迫力といったものに限られない。像の前に座ると自然と心が落ち着き、祈りに入りやすくなる。そういう働きがあるように、私は感じている。過去に彫った像の前では、不思議と高揚感や安心感、幸福感がじわじわと満ちてくる。少なくとも私にはそう思える。
もちろん、これは「私が勝手にそう思っているだけ」といえばそれまでで、まあ他ならぬ私自身の妄想にすぎないのかもしれない。けれどその妄想は、行を妨げるものではなく、むしろ心を澄ませてくれる方向に働いているように、私は受け取っている。
自分で彫った仏像は、祈るときに余計な迷いを減らし、心をまっすぐ仏へ向けてくれる。人から見ればどう映るか分からないが、少なくとも私にとっては「拝みやすい」と感じられる存在である。
ここのところ忙しくて新しいお像を作っていないが、そろそろ再開したいとも思っている。まず候補に挙げたいのは、准胝仏母の大眷属である烏枢沙摩明王、で、そのほかには飯縄明神、そして十二臂の三面荼枳尼天etc……
一体作るのに少なくとも数か月はかかるのでついつい腰が重くなるのが難ですね。

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