三面荼枳尼天 ― いただいた御姿
あるとき修行の中で、不思議に心に浮かんできたお姿がありました。
それは「三面荼枳尼天」と呼べる姿でしたが、伝わる定型とはすこし違っていました。
私はそれを「勝手に改変した」とは思っていません。
むしろ「こういう姿であれば、私が祈りやすく、また拝む心が深まるのではないか」と示されたものだと受けとめています。
拙いながらも、そのいただいた御姿を筆に写し取ったのが今回の図像です(まだラフの段階ですが……)。
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本来の姿との違い
ここで描いたお姿は、伝統的な荼枳尼天像と比べるといくつか違いがあります。
頭部
ふつうは宇賀神をいただきますが、当院に祀る荼枳尼天(『刀自女経』を典拠に私なりに受けとめてきた姿)から、白蛇の上に黄金の白狐を乗せました。九尾であるのは、私の理解の延長で加わったものです。
乗り物
本来は白狐単独ですが、ここでは龍もともにしています。これは、師僧の寺院に祀られる弁才天のお姿を拝した際に「なるほど」と感じたことがきっかけでした。
座と姿
天部尊は荷葉座に坐すのが通例ですが、私は蓮華座としました。というのも三面荼枳尼天は偏袒右肩のお姿をしており、より菩薩に近い雰囲気を感じたためです。
さらに偏袒右肩は飯縄明神にも共通する特徴ですし、そこに翼を携える点を重ねれば、飯縄明神を思わせる姿とも読み取れます。
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安易な変更ではなく
今日の世には、伝承から大きく外れたお像が流布していることもあります。
私は中学生のころから仏像が好きで、図像学についても学んできました。だから今回の描写は思いつきではなく、象徴性を壊さない範囲で、むしろ強調する形になった部分が多いと考えています。
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謙虚にして確信をもって
もちろん、一介の行者にすぎない私が姿を変えることは批判を受けるかもしれません。
けれども仏尊は、拝む者それぞれの縁に応じて自在に姿を現すと私は思っています。
このお姿は、私にとって祈りを深め、修行を続けやすくするために「先にいただいた御姿」でした。
だからこそ謹んでここに写し取りました。
仏尊は決して一つの形にとどまらず、行者それぞれの心に応じて自在に顕現されます。今回の図像も、その小さな一端にすぎません。
