ある日、気づくと仏の顔が変わっていた。昔そんな経験をしたことがある。
拝み続けるうちに、そのお顔が柔らかくなり、まなざしが穏やかに沈んでいったように思えた。
拝まれぬとき、神仏は沈黙する。
だがその沈黙は怒りではなく、法を守る烈しさであり、人の祈りによって再び顕現する「生命の相」とでもいうように。
今回は、私がはじめてお迎えした一体の荼枳尼天像の話。
その“変わったお顔”についての、ひとつの記録です
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さて、神仏の写真を公開することを「不敬」とする人が一定数いる。その考えはよくわかる。
神聖な存在を、誰の目にも触れる場所に置くことへの畏れ――それは信仰の純度の表れであり、慎み深い心のあらわれでもある。
しかし一方で、仏とは「隠れるため」ではなく、「導くため」に現れる存在でもあると私は考える。
もし、そのお姿に触れた誰かが、ふと「手を合わせてみよう」と思うなら、それはすでに仏のはたらきが届いたのだと思うからだ。その写真という「ご縁」がなかったらその機会に恵まれなかったのなら、その写真が公開されていたことに計り知れない意義がある。
顕すとは、見せびらかすことではない。顕すことで、闇の中に道を照らす――それもまた祈りの一形である。
秘すべきときは秘し、顕すべきときは顕す。その判断こそ、行者が背負う覚悟の一つでもある。思考停止して画一的に決めつけることではないと私は思う。
神仏は、人に忘れられることを最も悲しまれる。
だから私は、敬意を込めて、そのお姿を光の中に顕す。それは、荼枳尼天への供養であり、この時代における、私なりの修行でもある。
そろそろ本題、昔の話をしましょう。
まだこの像が、誰の祈りにも触れず、ひっそりと眠っていた頃のことです。
最初に見たのは、オークションに出品されていた頃の写真だった。
そのお顔は、どこか険しく、まなざしの奥に烈しい火を宿していた。
沈黙の中に張りつめた気配があり、見ているだけで背筋が伸びた。
この像は、どれほどの年月を拝まれぬまま過ごしてきたのだろう。
誰の祈りも香煙も絶え、箱の奥で眠っていた時間。
その沈黙は、まるで封印のように重く、長く封じられた力が、像の奥底で静かに脈打っているように思えた。
古来、神仏、特に天部は拝まれぬとき、忿怒の相を顕すといわれる。
それは人間の怒りではなく、法を護るために生じる威怒の炎だ。
オークションの写真に映る荼枳尼天は、まさにその相をしていた。

忘却への抗議、信を絶たれた神の孤独。
その厳しさは、もはや「怒り」というよりも、天が沈黙を破って発する烈しい呼吸のように見えた。
それからご縁あって、この像は私のもとにやってきた。
供花を整え、香を焚き、朝夕の勤行に合わせて真言を唱える日々が始まった。
不思議なことに、最初は畏怖を覚えたそのお顔が、日を重ねるごとにどこか穏やかに見えてきた。
ある日、改めて写真を撮った。
その姿は、以前のものとはまるで別の像のようだった。

頬は柔らかく、まなざしは慈しみに満ち、忿怒の相が静かに融けて、安らぎの光を帯びていた。
もちろん光の加減や撮影角度の違いだと説明できる。
だが、それを「偶然」と片づける態度は、神仏からのメッセージを取りこぼす。
天部の諸尊は、仏法を守護する存在である。
その威光は、人の祈りによってこそ顕現する。
拝まれることで神威が満ち、拝まれぬことでその力は烈しく揺らぐ。
それは、人が仏を求めるように、仏もまた人の信を必要とするということだ。
忘れられた神仏が示す忿怒は、決して人への怨みではない。
それは「法を忘れるな」「祈りを絶やすな」という慈悲ゆえの警鐘の炎である。
拝まれぬ荼枳尼天の険しい顔は、信仰が薄れていくこの時代への、威光の叫びだったのかもしれない。
二枚の写真を見比べて、こんなことを思った。。
オークションの写真では烈しさを強調する角度が自然に選ばれていた。
一方、私が撮ったものは、穏やかで慈悲に満ちた角度を選んでいたのかもしれない、ということ。
意図したわけではない。無意識のうちにそうなっていた。
そのとき思った――このアングルを選ばされたのではないか。
光も構図も、すべて神仏の導きだったのではないか。
無意識とは、神仏が人を通して働く通路。私がこのブログを通じで何度も主張している話だ。
だから、どの瞬間にシャッターを切るときも、それが実は祈りの行為だったなのかもしれない。
私はずっと「私が供養している」と思いあがっていた。香を絶やさず、真言を唱え、心を込めて拝む。
しかし、日々の祈りを重ねるうちに、次第に「供養されていたのは私の方だった」と気づいた。
つまり、拝むたびに、心の荒波が静まり、焦りや怒りが溶けていったのは私ではなかったのか?
その変化を映すように、荼枳尼天の表情も穏やかになっていったのではなかったのか?
拝まれぬ時代の忿怒の相をお迎えしたのは、私自身の内なる混乱を映していたからだったのかもしれないと。
供養とは、仏に施すものではなく、仏とともに己を照らし磨く行。
そう気づいたとき、祈りは単なる儀礼ではなく、生きた修行へと変わる。
荼枳尼天の顔が変わったのではない。祈りが、私の眼を変えたのだ。
だがその変化を通して、確かに神仏は生きておられると感じた。
拝まれぬときは烈しく、拝まれるときは静かに。
その往復の中で、祈る者の心もまた変わっていく。
信仰とは、神仏を通して己の影を照らし出す鏡であり、その鏡が、ときに恐ろしく、ときに美しく輝く。
二枚の写真の間にあるのは、年月では測れない変化。
それは、像が生きている証であり、祈りが確かに世界を変えるという証でもある。
今日もまた、そのお顔の前に座り、次にどんな表情で現れてくださるのかを、静かに見つめている。
――准胝院 里見亮和
祈願のお申込みについて
本院で承っている祈願につきまして、以下解説ページから。
当院のご本尊である准胝仏母さまの祈願です。滅罪、延命、求子に強いご尊格です。
荼枳尼天とはお稲荷さまの仏教でも呼び名です。
商売繁盛、学業増進、立身出世など増益につよいご神さまです
病気平癒、健康維持にとてもよく効く祈祷で、お加持をした「お札」を毎日枕の下に入れてその札に「悪いもの」を吸い取ってもらうように機能させます。人によっては患部に当てるよう袋を作ってお守りのようにしている方もいます。不動明王による祈祷を行いますが、当院では延命に強い准胝仏母の力もお借りして祈祷致します。
文殊菩薩祈願
「三人寄らば文殊の知恵」というように智慧を象徴する尊格です。学業増進祈祷、無明を断ち切る祈祷などでお力をいただけます。受験用のお守りもお出ししています。
光明真言にによる供養(光明供)にて、ご先祖供養を致します。光明真言には強い滅罪の功徳がございます。祈願を叶えるには先祖供養がしっかりできているのが大前提です。
(「どんな衆生でも救う」という使命を持って誕生した慈悲深い菩薩さまです。皆様の願いを菩薩さまにお伝えするお手伝いをします)
年始(旧正月)に「星祭」を行い、祈祷札をお出ししておりますが、随時「星祈祷」をお受けしています。
※不動尊華水供を修法致します。
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