准胝院のブログ

八王子市で准胝仏母を本尊とする天台寺門宗祈願寺院「准胝院」のブログです。准胝仏母祈願、不動明王祈願、人型加持(当病平癒)、先祖供養(光明供)、願いを叶える祈願(多羅菩薩)、荼枳尼天尊(稲荷)の増益祈願等

「好き」に勝るものはない ―― 夢中になれることを見つけるということ

 前回記事に引き続き、自動書記シリーズ。

 「好き」に勝るものはない ―― 夢中になれることを見つけるということ

 そのことを一番考えている人が、そのことを一番前に進めることができる。

 これは仕事でも趣味でも変わらない、ある種の法則だと感じている。好きなことなら人は一日中それを考えている。義務感で決められた時間だけ取り組む人と、寝ても覚めてもそのことを考えている人とでは、進むスピードに雲泥の差が出る。仕事も同じで、苦痛でなく楽しいと思えるなら、休みなく取り組んでもストレスが溜まるどころか、ただただ充実した毎日が続いていく。趣味でも習い事でも、本質はまったく同じだと思う。

だとすれば、何かを成し遂げるための鍵は結局のところ、

  • そのことを一番に考えられること
  • 言われなくてもずっと取り組んでいられること
  • 楽しくて楽しくてやらずにはいられないこと

この三つをどう見つけるか、ということに尽きるのではないか。

 

もっとも、仕事でそんな対象に出会えるのは簡単なことではない。多くの人は、どんなに辛くてもお金のために働き続けざるを得ない。これほどの苦痛はないと思う。

私は30年以上サラリーマンをやってきた。今では考えられないような、昭和のイケイケなガバナンス(そんな言葉すら存在しなかった時代だ)のもとで、日夜ボロボロになりながら働いた。いつも辞めたくて辞めたくて、休みの日も気持ちが休まらず、日曜の夜にはいわゆるサザエさんシンドロームに陥っていた。結婚して新婚旅行で一週間オーストラリアに行ったときでさえ、仕事のことが気がかりで心の底から楽しめなかったことを、今でもよく覚えている。

せめてもの救いは、その仕事が「嫌い」ではあっても「向いている仕事」だったということだった。もっとも当時の私にそんな自覚はなく、ただ嫌な仕事を無理やりやっているという感覚しかなかった。なりふり構わず仕事に全振りせざるを得ない環境に身を置いていたせいで、知らず知らずのうちに望みもしない出世街道に乗せられ、責任はどんどん増え、ストレスもますます膨らんでいった。そして期待された先で、病的な上司に目をつけられ、メンタルを病んだ。これは以前にも書いた通りだ。

 

問題は、この経験は「するべきだったのか」、それとも「避けられるなら避けるべきだったのか」ということだ。

今は同じ会社にいるが、あの過去の経験が高い「実績」として積み重なっていたおかげで、今ではむしろわがままが言える存在になっている。やりたい仕事しかしないというポジションを、結果として勝ち取ったとも言える。何が正解かは今も判断のしようがない。

ただ、今にして思えば、20代から40代まで、いろいろなものを犠牲にして仕事に打ち込み、その結果一日のうちストレスを感じている時間があまりにも多かったあの日々は、やはりもったいなかったと思う。人生でいちばん楽しい時期だったかもしれないのに、ただただきつかっただけなのだから。

あの頃の昭和の空気には、「きついことをしなければ仕事ではない」という価値観、厳しさこそが美徳だという空気感があった。私はこれには同意しない。多くの場合、それは人をただ苦しめているだけで、一部の人間の自己満足やわがままの犠牲になっているだけの構図を、嫌というほど見てきたからだ。あんなものが美徳であるはずがない。事実、その厳しさでつぶれる人間の方が多く、それで上に行く人間は、その「美徳」を押し付けてくる指導のおかげではなく、単にその人自身の能力で上がっているだけという場面を、私は何度も見てきた。そして、そういう人間は、つぶれていった人間を「ダメな人間だった」と切り捨てる。だが、つぶれた人にもそれぞれの人生がある。そのことにまで配慮が及ぶことはない。関心があるのは自分だけ。うんざりする話だ。

 

だから、そんなきつい人生には私は反対だ。

やはり大切なのは、冒頭で言ったような、夢中になれるものを一日でも早く見つけること。それに集中できるなら、それを仕事にして人生を前に進めていく努力の方が、リスクはあってもおそらく幸せである可能性が高い。

今の自分はただただ、私は自分が楽しくて、誰に言われなくてもやりまくってる。継続せざるを得ないことでいつも忙しくしている。周りからは「よくそんないろんなことを並行してできるね」と、関心というよりは半ば呆れられる。でも私の中では、好きなことにただただ夢中になっているだけなので、何のストレスもない。この歳になったからこそ、それで何の問題もないのだと気づけるが、若いうちにそれに気づくのは難しい。過去の自分を思い返せば、それはよく分かる。

それでも、メンタルまでやられる究極の状態まで自分を追い込んだ経験がある者として、一つだけ言っておきたい。そこまで追い込まれて、一番損をするのは自分だけだということだ。追い込んだ側にはその自覚などまったくないし、会社も最後まで守ってはくれない。最後は、さじを投げられて終わる。

だからこそ、そうならないために――自分ファーストであること。それが何よりも大切なのだと思う。

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日常という名の修行 — 「人を理解する」ということについて

時に自動手記のように言葉が出てくることがある。ほんの十数分で書き上げた文章。

もちろん自分の頭の中にあったことなんだろうが、読み返すと「へえ~」と自分でも不思議な気分になる。

 

せっかくなので記しておく

色眼鏡は外れない、という前提

人を見るとき、そこには必ず自分というフィルターがかかる。おそらくこれは脳の構造上、避けようのない事実なのだろう。

厄介なのは、その色眼鏡をかけている本人が、自分の見方を「客観的だ」「これが正義だ」と思い込んでしまうことだ。人間はどこまで行っても、根本的に「自分は正しい」と思うように設計されている。これは謙遜でも卑下でもなく、ただそういう構造として受け止めるしかない事実だと思う。

だからといって、理解を諦めていい理由にはならない

しかし、この「自分というフィルターは外れない」という土台があるからといって、相手を理解することを諦めていいという話には決してならない。

むしろこの前提に立った上で、いかにして「自分」という雑音を退け、少しでも真実に近づくか——それこそが問われているのだと思う。

過去の偉大な聖者たちは、まさにこの問いを見つめ続け、多くの知恵を残してくれた。我々宗教家は、その知恵を後追いで学んでいるにすぎない。一つの伝統に属するのであれば、それを真摯に学び、その教義を通じて人の心にどう近づいていくかを学ぶ。でもこれは座学だけで学びきれるような代物ではない。

大げさな話ではなく、一年三百六十五日、二十四時間すべてが学びである必要がある。私が過去に何度も「日常」という言葉を強調してきた背景には、この思いが横たわっている。「日常」と言えば簡単なことのように感じられるが、それは実は絶え間ない修行と同義だ。「一年三百六十五日、二十四時間、絶え間ない修行」と言われれば厳しく感じるが、言い換えてしまえば、それは今そこに横たわっている日常でしかない。

教義を逸脱しない。しかし視野狭窄になってはいけない

一つの伝統の教義を逸脱しないこと——これは大前提としてある。しかし、それは視野を狭くしていいという意味では決してない。ありとあらゆる回路を全開に開いて、学べるものは学ぶべきだ。

現代には、論理的に相手を説得する手法、心を分析的に捉える主張、自分の主張よりも相手の言葉を傾聴する手法、自律訓練法や禅、瞑想によって変性意識を促す手法など、様々なアプローチが存在する。だが、それらをどれだけ駆使しても、一人の人間を完全に知ることなどできはしない。できるのは、少しでもそこに近づく努力をすることだけだ。

真剣に人の悩みの相談に乗ろうとするとき、つい自分の狭い経験談を語って悦に入ってしまいがちになる。しかし、そんなことで何かが解決するわけではない。そこに残るのは、ただ満足した自分だけだ。これは自戒の意味も込めて書き留めておきたい。

最後には神仏に預ける、ということ

我々は最後に、相談者を神仏に預けることを促す。これは行者である私が、相談を丸ごと神仏に投げ渡すという意味ではない。相談者自身が、その境地に立てるようにすること——そこに意味がある。

これは簡単なことではない。だからこそ、私も自分の持つすべてを総動員するしかない。そして最後には、これが自分自身の学びでもあるのだと、痛感させられる。

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お施餓鬼の質問に答えて 光明供と精霊供養

『特別供養と普通供養の違いを教えてください』

 毎年ご質問をいただくテーマですので、過去の記事と重なる部分もありますが、改めてお話しいたします。

 簡単に言えば、普通供養は「光明供」と通常のお施餓鬼による供養、特別供養は「光明供」と「精霊供養」による供養です。精霊供養は、施餓鬼作法の中でも最も丁寧な修法とイメージしていただければ、概ね間違いありません。

 ただ、精霊供養は我々にとって、「丁寧なお施餓鬼」という言葉だけでは収まらない重みを持っています。一門では「最大の秘法」として位置づけられ、安易には修法しない。

 それだけに、この修法にあたる際は、我々行者もより身を引き締めます。

 作法が整わず、行者の徳が至らぬままこの秘法に手を出せば、精霊は供養を受け取らず、それどころか行者自身が体調を崩す、あるいはより深刻な事態を招くこともある──そう厳しく説かれてきました。

 それほどに、精霊供養とは重く、甘くない修法なのです。

※これはあくまで修法を行う行者側の話であり、お申し込みくださる施主様に何か影響が及ぶようなことではありません。

 だからこそ当院では、この精霊供養を密教の秘法「光明供」と併修し、如法かつ丁寧な施餓鬼供養としています。光明供に、精霊供養を重ねることで、幾重にも祈りの層を重ね、精霊一体一体に深く回向する──これが当院の施餓鬼供養です。

 この精霊供養が至らなければ、精霊は集まらず、お供えの米も乾いたまま、かびすら生じないとされます。逆に、かびが深く生じるということは、それだけ多くの精霊が来られ、満たされた験(しるし)であると捉えます。

 そうは言っても、普通供養、特別供養、いずれに優劣があるという話ではありません。ただ、より深く、より丁寧な供養をお求めの方には、この精霊供養を含む特別供養をお勧めしております。ご自身の思いに合わせて、お選びいただければと存じます。

合掌

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一枚のお守りから、一枚のTシャツへ

 いつもこのブログをお読みいただいている方はご存知の通り、私は僧侶である傍ら、仏画を描くということを長く続けております。私にとって仏を描くことは、修行の延長であり、また祈りそのものという位置づけです。

 さて、今日は少し珍しいご報告があります。

 以前、格闘家・伊藤紗弥選手が戦勝祈願で当院にお参りくださった時のことを、こちらの記事に書きました。

▶︎(前回記事リンク)

 彼女がどれほど凄い経歴の持ち主かは、そちらに詳しく記しておりますので、未読の方はぜひ先にご覧いただければと思います。

 この度は、この伊藤紗弥選手の応援グッズとして配布されるオリジナルTシャツのデザインを、任せていただくことになりました。

 きっかけは、当院のお守り。星まつりのお守りに記してある青龍に乗る尊星王菩薩のお姿。

 言わずもがな尊星王は北極星を本地とし、あらゆる星々の運行を統べるとされる。その揺るぎない中心に座しながらも、龍という荒々しい力を自在に御していく。そんな静と動を併せ持つ姿。紗弥選手はこのお姿に強い関心を寄せてくださり、「え?これ里見さんが描いたの?」となって、そこから今回のお話へとつながりました。

 一門には格闘技や武道に打ち込んでこられた方が多い。きっとそれは偶然ではないのかもしれません。己の身一つを鍛え抜き、極限まで自分を追い込む道を歩む方には、どこか祈りに近づいていく瞬間がある。末席ながら私もその系譜にいるのだという思いもある。

 また持論だが、本当に一流と呼ばれる選手ほど、最後は結果を神仏に委ねる、という態度を持たれることが多いように感じます。それは自分の実力を信じ切れていない、ということではない。むしろ逆。頂点というものがどれほど厳しく、努力や技術だけでは測り切れない領域であるかを身をもって知っているからこその謙虚さであり、慢心が足元をすくうということを本能的に理解している強さの表れだと私は見ています。

 紗弥選手もまた、私が信仰の話をしても「怪しい」と軽くあしらうことなく、いつも真剣に耳を傾けてくださいます。今回のお話をいただいたのも、私がただ絵が描けるということだけでなく、その信仰の力ということに、多少なりとも期待を寄せてくださった部分があったのではないかと感じています。

 さて、そんな伊藤紗弥選手が、約一年半のブランクを経て、8月に試合に復帰されます。ご本人のキャリアの中でも、大きな意味を持つ一戦です。

 ここから先は、一人の応援者としてのお願いです。

 もしよろしければ、日本が誇るこの戦士を、スポンサーというかたちで応援していただけないでしょうか。応援メッセージを添えて。1万円からご協力いただける枠が用意されています。こうして今回のお話をいただいたのも何かの縁と思い、ここに記させていただきました。

※下記インスタグラムのプロフィール欄のリンクから申し込みページが開きます

伊藤選手のインスタグラム

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なお、私がデザインしたTシャツは3万円以上のプランの特典となっています。

拙い筆ではありますが、少しでも彼女の後押しになれば幸いです。

合掌

 

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https://ryona.hatenadiary.jp/entry/2026/07/27/150953

お施餓鬼(施餓鬼万霊供養)受付開始します

当道場「准胝院」にて、令和八年度の施餓鬼万霊供養の受付を開始いたします。
下記リンクよりお申し込みください。

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■ ご供養の対象について

供養の対象は、以下のような方々となります。

  • ご先祖さま

  • 亡きご親族

  • 水子さん

  • ペット

  • その他、有縁の諸霊


■ お施餓鬼とは?

言わずもがな、お施餓鬼とは、苦しみの境遇にある餓鬼たちに救いの手を差し伸べるものであり、いわばあの世の福祉活動ともいえるものです。

そして、誰かのためにお施餓鬼の塔婆を立てれば、その功徳はその方に回向されます

「回向」とは──
自らの善行や修法の功徳をもって、亡き方々(ご先祖さまや極楽途上の方々)を助けるということです。

これこそが、彼らにとって何よりの供養であり、何よりの助けとなります。

 また以前にも書いた通り、ご先祖さまをお助けすることは、巡り巡って自身に返ってくるとも言われます。
裏を返せば、こうした行いすらない中で「自分の祈願だけを叶えたい」と願っても、祈りは遠のくばかり……とすら考えられるのです。

▶ 裏付けの考え方や体験談など →

ryona.hatenadiary.jp


■ 三界万霊の供養について

「三界」とは、仏教における世界の全て──

  • 欲界(我欲に縛られる世界)

  • 色界(物質の世界)

  • 無色界(意識のみの世界)

この三界すべての霊を供養するのが「三界万霊供養」です。
世界中のすべての霊を対象とした大供養とも言えます。

これは、自らの名で供養を申し込めば、**そのまま自身の「福積み(功徳の蓄積)」**になります。

 当院では、月例の祈願をされている方には必ず行っていただく供養としております。
上述のとおり、これすら行わず「自分の祈願だけを通そう」とするのは筋が通らないと考えているからです。

信仰の在り方としては、まず「三界万霊供養」から──
当院では、そのようにお勧めしております。


■ 当院での供養方法とご本尊

当院で行う施餓鬼万霊供養は、光明真言による供養法を中心に行います。

光明真言は、古来より念仏と並び広く親しまれ、
亡き方々の救済にとりわけ功徳ある真言とされてきました。

この真言には、いかなる人の、いかなる業(カルマ)をも滅する力があると伝えられています。

そのため、密教ではこれを珍重し、光明真言供をもって施餓鬼を併修することが古来より多く行われてきました。

ご本尊は大日如来です。
 当院ではとりわけ、四面大日如来(一切智大日如来)を本尊として修法いたします。

 そのお姿は一見、チベット密教(後期密教)風にも見えますが、日本密教と同様、中期密教の伝統的なお姿です。

 特にこの大日如来さまは『悪趣清浄曼荼羅』の主尊です。悪趣とは地獄、餓鬼、畜生、修羅の四悪趣のこと。つまり死者がこられの悪趣に堕ちることなく善趣、すなわちよい生まれ変わりに再生できることを願うご本尊さまです。

▶ ご本尊の詳細はこちら → 

ryona.hatenadiary.jp


■ 回向証と御影の送付

お申込みいただいた施主様へは、供養の証として、住職作画の四面大日如来の御影(回向証)を送付させていただきます。


■ お申込みはこちらから

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気功のレクチャー模様

 今日は気功のパーソナルレッスンをした。

 受講されたのは20代の女性の施術師。

 常に向上心を持って新しいことに挑戦するバイタリティのある方で、「気功」を施術に役立てたいというのが今回のきっかけだった。

 気功の最低限知っておくべき座学を軽くやったあと、さっそく「気を感じるトレーニング」に移る。

 気を一番感じやすいのは、「手」。

 まずはその手で、気の感触を具体的に掴んでもらうところから始めた。

 気の感覚には個人差があり、感じ方もさまざまだが、多くの人がまず「温感」から入る。「なんか温かいな」という程度の感触だ。それが強まってくると、磁石のような反発感、弱い電気に触れたようなピリピリ感、あるいは小さな虫がうようよと動くような感覚等。

 この方は、なかなか感じることが難しいタイプだった。

 そこでまず、姿勢と呼吸の癖を確認することにした。半跏座で座ってもらうと、まるでヨガの経験者かのように姿勢は美しい。ところが、それが仇となっていた。完全な胸式呼吸になっており、しかも胸を大きく開かないまま浅く呼吸しているため、呼気のときに腹圧がほとんどかかっていない。つまり逆式呼吸にすらなっていない状態だった。

 流派によって教え方はいろいろあると思うが、私が教えているのは逆式ではなく通常の腹式呼吸。

 今の呼吸パターンのままでは、変性意識まで持ち込むのは難しく、ゆえに気を感じられる状態には持っていけない。

 そこで腹式呼吸ができる姿勢を丁寧に教え直し、呼吸が整ったところでようやく「あ!あ!感じました!え!すごい!びっくりした!」という反応が出た。

 この方は「圧力」として気を感じるタイプだったようで、まずまずの手応えだった。

 面白いのはここからで、私が彼女の手に自分の手を近づけると、思いのほかしっかりと気の圧力を感じる。

 つまり気自体はきちんと出ているのに、本人がそれを感じ取れていなかっただけだったのだ。

ただ、そこで少し気になることがあった。彼女の手からは気がわんさか出ているのに、手そのものが驚くほど冷たい。それを本人にわかってもらうため、今度は私が気を出した状態で手を近づけてみた。

「え?なんでこんなに温かいんですか?」

と自分の手がいかに異常なのか、感じてもらった。

 彼女はまさに、気を無意識のうちに放出し続け、相手に与えてしまうタイプだった。 

 だから手が冷たくなる。施術師にはありがちなパターンかもしれない。

 一日施術をして、これだけの気をクライアントに送り続けていたら、さぞ疲れるだろうと思う。

 彼女の課題は、まずもう少し気の感触を感じられるようになること。そのための簡単な動作をいくつか教えた。最終的には、気を意識的に出し入れできるようになり、そのうえで自分自身の気の力そのものを増やしていくこと。

 3時間ほどで一応のレクチャーは終えたが、本人から「毎月チェックしてほしい」との申し出があったので、一か月分の課題を出し、毎日続けてもらうことにした。

 その際、口を酸っぱくして伝えたのはこの一言だ。

「みんな、地味な鍛錬だから飽きてしまって、習ってもやらなくなる。継続しなければ意味がないよ?」

 こんなふうに、基本的にはその人の特徴に合わせた教え方になるので、根本はパーソナルスタイルのレッスンです。興味のある方は、遠慮なくご連絡ください。

なお、3時間で1万円ほどの受講料をいただいておりますから、飽きやすい方はやめておいた方がいいです(笑)

 

真面目に学びたい方はメールでどうぞ

JYUNTEIIN@gmail.com

荼枳尼天香合仏、再受付中

荼枳尼天香合仏 予約フォーム

祈願のお申込みについて

 本院で承っている祈願につきまして、以下解説ページから。

本尊准胝仏母祈願

当院のご本尊である准胝仏母さまの祈願です。滅罪、延命、求子に強いご尊格です。

先祖供養・家族の敬愛祈願

光明真言にによる供養(光明供)にて、ご先祖供養を致します。光明真言には強い滅罪の功徳がございます。

 荼枳尼天尊祈願

荼枳尼天とはお稲荷さまの仏教でも呼び名です。

商売繁盛、学業増進、立身出世など増益につよいご神さまです

人型加持

 病気平癒、健康維持にとてもよく効く祈祷で、お加持をした「お札」を毎日枕の下に入れてその札に「悪いもの」を吸い取ってもらうように機能させます。人によっては患部に当てるよう袋を作ってお守りのようにしている方もいます。不動明王による祈祷を行いますが、当院では延命に強い准胝仏母の力もお借りして祈祷致します。

 文殊菩薩祈願
「三人寄らば文殊の知恵」というように智慧を象徴する尊格です。学業増進祈祷、無明を断ち切る祈祷などでお力をいただけます。

多羅菩薩(ターラー菩薩)祈願

(「どんな衆生でも救う」という使命を持って誕生した慈悲深い菩薩さまです。皆様の願いを菩薩さまにお伝えするお手伝いをします)

星祈祷

年始(旧正月)に「星祭」を行い、祈祷札をお出ししておりますが、随時「星祈祷」をお受けしています。

不動明王祈願

※不動尊華水供を修法致します。

e-mail

JYUNTEIIN@gmail.com

 

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縁は、求める者に寄ってくる

神仏と繋がるにはどうしたらいいんでしょうか?

 そう質問する人は多い。

 これは『神仏に繋がる』をどういう意味で言ってるかで答えは違ってくる。

 あなたが毎日祭壇の前でお勤めしていれば繋がれるし、もっと言えば常に神仏を心にとどめておけば、それも繋がってることになる。何も我々行者がやるような感応道交をしなければ神仏と繋がれない、という難解な話を皆さんは持ち出す必要はないと思う。

ただ持ち出す必要はない、けれどもできる範囲で努力するのは悪いことではないと思う。

 その尊の特徴をよく知る努力はできる。その尊が密教の尊であれば、その姿だって意味があってその形になっている。日常の勤行を読むだけだったのが、それらを学べばあなたのお勤めの質は一段あがるかもしれない。

 私は割と在家信者時代、その尊に近づきたくてよく調べてはさらによく拝んで、を繰り返した。中にはその尊の歴史的な背景を知る、曼荼羅での役割を知る。その曼荼羅についても深掘りする。その結果として今がある、と言えなくもない。

 これは「ご縁」の話にも通じる。その尊が「そんな近づきたいなら、行者になれば?」という手を差し出してくる「ご縁」が確かにあった。そんな思いの強さと正しい努力は、その尊に必要な機会をご縁として与えてくる。私の形が正しいという意味ではなく、その人なりの適切なご縁が与えられるということだ。

 つまり、その根本は対機説法。人(たとえば僧)を介さず、ダイレクトに尊格(神仏)が働きかけているのではないかと感じることは多い。

 学ぼうとする者のところに、そうした縁は寄ってくるものなのだと思う。自坊に参拝に来る方は割と勉強熱心な人が多い。今日来た不動尊信者の方も、真言密教の勉強会に参加して理解を深め、それを日々の勤めに生かそうと努力されていた。共通認識が増えれば両部(界)曼荼羅についての話も私から話すことができるし、その方の学べる機会も増える。

 霊的な話を好む人もいるが、好むだけで、それを支えるだけの努力や検証を伴わない人とは共通認識が得られず、そういう話に容易には付き合えない。

 皆が皆勉強しなければ信仰はできないという話ではむろんない。でも意欲があるなら、学びたい人は、どんどん参拝して機会を増やせばいい。もちろん参拝の主体は、あくまでそのご本尊に手を合わせることであって、知識を得ることではない。

 順序を間違えてはいけないけれど、もしあなたが学びたいと思うなら、私が教えられることはいくつもある。曼荼羅の話も、尊格の由来も、聞かれれば話せることは多い。ただ、その機会すら自分から求めないなら、こちらからどうにかできる話でもない。縁は向こうからやってくるものだと言ったが、同時に、縁は求める者のところに訪れやすいものでもある。

 私のブログは難しいという人が割といる。だから読まない。大いに結構。でも熱心に読んで質問をしてくる方も多くいることは知っておいてほしい。詳しく知りたければ、来て聞いてもらってもいい。もちろんあくまで参拝だから、無遠慮になんでも教えて教えてということを許すわけではないが、参拝のあとの短い雑談でも、私は何かを持ち帰ってもらいたいと思っている。



 

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祈願のお申込みについて

 本院で承っている祈願につきまして、以下解説ページから。

本尊准胝仏母祈願

当院のご本尊である准胝仏母さまの祈願です。滅罪、延命、求子に強いご尊格です。

先祖供養・家族の敬愛祈願

光明真言にによる供養(光明供)にて、ご先祖供養を致します。光明真言には強い滅罪の功徳がございます。

 荼枳尼天尊祈願

荼枳尼天とはお稲荷さまの仏教でも呼び名です。

商売繁盛、学業増進、立身出世など増益につよいご神さまです

人型加持

 病気平癒、健康維持にとてもよく効く祈祷で、お加持をした「お札」を毎日枕の下に入れてその札に「悪いもの」を吸い取ってもらうように機能させます。人によっては患部に当てるよう袋を作ってお守りのようにしている方もいます。不動明王による祈祷を行いますが、当院では延命に強い准胝仏母の力もお借りして祈祷致します。

 文殊菩薩祈願
「三人寄らば文殊の知恵」というように智慧を象徴する尊格です。学業増進祈祷、無明を断ち切る祈祷などでお力をいただけます。

多羅菩薩(ターラー菩薩)祈願

(「どんな衆生でも救う」という使命を持って誕生した慈悲深い菩薩さまです。皆様の願いを菩薩さまにお伝えするお手伝いをします)

星祈祷

年始(旧正月)に「星祭」を行い、祈祷札をお出ししておりますが、随時「星祈祷」をお受けしています。

不動明王祈願

※不動尊華水供を修法致します。

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