准胝院のブログ

八王子市で准胝仏母を本尊とする天台寺門宗祈願寺院「准胝院」のブログです。准胝仏母祈願、不動明王祈願、人型加持(当病平癒)、先祖供養(光明供)、願いを叶える祈願(多羅菩薩)、荼枳尼天尊(稲荷)の増益祈願等

唯識ってなに?「道ならぬ恋」で考えてみたら意外とわかりやすい

 皆さんには「心」はありますよね?

 あたりまえですね(笑)

 もしかすると我々が最も関心があるのが「自分の心」なのかもしれないですね。

 だからその帰結として古代から「心」について様々な思索が世界中で綴られてきた。

 現代では「心理学」がその役目を果たそうとしているのだろうか。

 そしてむろん「仏教」にも「心」を徹底的に説明しようとした人たちがいた。

 彼らはそれを「唯識(ゆいしき)」と呼んでやってみせた。

 その心の分析の緻密さにはただただ圧倒される。

 ただその内容は素人を拒絶するかのように「難解」ゆえに手が出し難い。

 私も薄学者に過ぎないが、仏教教師の端くれとしてその難解なテーマ「一般信者さんに少しでも理解いただくために」という名分のため頑張ってみようと思う。

 皆さんの興味と理解を深めるための方便として、今回は「下世話なテーマ」を題材にしてみる。

 そのテーマとは「道ならぬ恋」。

 犯罪ではないが、倫理的に、特に仏教徒であれば厳しく善悪を問われる話だ。

 唯識を知る取っ掛かりとしてはいい題材かもしれない。

 なぜなら「道ならぬ恋」では避けられない「心の葛藤」の中にこそ、唯識が解き明かそうとした「輪廻の業(ごう)がどうやって現在に現れているか」という、仏教が最も重視する心の仕組みが、鋭く立ち現れるからです。

 さて、そもそも唯識ってどんな教えなのか?

 ざっくりいうと「心のしくみを、めちゃくちゃ細かく分析した心理学」のようなものです。

 西暦4〜5世紀ごろにインドで体系化されました。

 私たちが「現実」だと思っているものは、実は「心というフィルターを通して作り出された世界だ」という主張を唯識はします。

「すべては心(=識)の働きから生まれているんだ」と言っている訳です。

 さて、ここでイメージしましょう。

 まず、心には「深い倉庫」があると想像します。

 割とここが核心部です。

 でも非常にシンプルです。

 私たちの心には、この人生の記憶だけでなく、輪廻の果てしない時間のなかで積み重ねてきた過去のエネルギー――「業(ごう)」の種とも呼ぶべきもの――が、すべて記録されている「深い倉庫」があると考えます。

 これを仏教では「阿頼耶識(あらやしき)」と呼びます。

 おっと重要な用語が出てきましたね。

 きっとこの阿頼耶識という言葉自体は聞いたことがあるのではないでしょうか?

 ただ割とこの言葉の意味を適当に使っている人を見かけますので会話がかみ合わないのは仏教徒あるあるです(笑)閑話休題。

 さて、この倉庫の中身は、いわば「種」のようなもので、ふとした条件が揃うと芽を出します。

 種と芽という例えが分かりやすいです。

 そしてこの吹き出た「芽」こそが「今、自分が感じている感情や思考」として姿を現している様(さま)です。

「芽=感情」であり「芽=思考」であるということ。

 さて、「道ならぬ恋」でこれを考えてみます。

 あなたが(!?)ではなく、「ある人が」道ならぬ人に恋心を抱いて心が揺れ動いてしまったとします。

 唯識的にはそれは「あなたが悪い」と簡単に裁くわけではなく、倉庫の中にすでにあった過去の「種」が、たまたま目の前の相手という水を得て「芽吹いた」……と見る。

 これが唯識のドライでありながらも慈悲深い見方ということです。

 では、その湧き上がってしまった感情を抑え込めば解決するのでしょうか?

 唯識はそんな簡単な解決を語りません。

 唯識は「行動しなければ(口にしなければ)それでセーフ」とは考えません。

 この場合は感情を無理やり押し殺そうとも、一つの経験として、その「抑圧した記録」を倉庫=阿頼耶識へ新しく保存することになります。

 これを仏教用語で「薫習(くんじゅう)」と呼びます。

 香を焚くと服に香りが移るように、一つひとつの行いや思いが倉庫に染み込んでいくという仕組みです。

 つまり、ただ蓋をして我慢しているだけでは、我慢したという「新しい香り」が倉庫に定着して、倉庫の中身が増えるだけです。

 ここでよくある誤解を解いておきます。

 唯識を学ぶと、「今の自分の苦しみはすべて過去の業(種)のせいだ」と、過去に責任を転嫁して納得してしまう人がいます。

 しかし、唯識はそのような「責任逃れ」を許す教えではありません。

過去から持ち越した種が芽吹いたのは事実ですが、その芽がどう育ち、どんな結果を結ぶのか。

 それは、今まさに種が芽吹いた瞬間、あなたがどう反応し、どう向き合うかという「現在の選択」に委ねられているからです。

 過去の種を言い訳にして、芽吹いた欲望をそのまま増幅させていくのか。

 あるいは、その芽吹きを自覚して、それ以上種を広げないように立ち止まるのか。

 唯識が教えるのは、過去の決定論ではなく、今この瞬間から「自分が自分の心の主導権を握る」という覚悟の提示なのです。

 さて、ここでおそらくはこんな邪魔をしてくるであろう「やっかいもの」を紹介しましょう。

 自分を欺く心の働き=末那識(まなしき)です。

 こいつは何者かというと、私たちの心には、自分に都合よく物事を解釈してしまう強力なフィルターが備わっています。

 乱暴に言えばこのフィルターの働きが末那識です。

 例えば「これは運命の恋だからいいんだ」「自分は愛は特別なケースなのだから問題ない」と判断するとき、実はその判断自体が、末那識によって都合よく編集された「自己正当化」の表れである可能性がある、ということ。

 仏教では、これを「自分という枠」への執着だと見抜きます。

「自分は大丈夫」と思う瞬間こそ、実は一番「末那識」を疑ったほうがいい。

 自分の心が、いかに自分を納得させるために世界を歪めて見せているか。

 それを「末那識」に邪魔されず「冷徹に観察すること」こそが、唯識が教える人間観の真骨頂です。

 まとめましょう。

唯識をひとことでまとめると、「感情や思考は、過去の蓄積が作り出した『結果』にすぎない。だから、その善悪を裁く前に、まずは構造を観察せよ」という教えです。

 行動の善悪だけで一喜一憂するのではなく、「なぜ今、自分の心というシステムがこの感情を起動させたのか?」を眺める視点を持つこと。

 今風に言えば「メタ認知」ですね。

 それをしやすい心の持ちようが禅定であることは言うまでもありません。

 そうやって自分を第三者の立場から「客観的に観察すること」ができれば、私たちは輪廻に翻弄されるだけの存在から、少しずつ、心という種を管理する主体へと変わっていける、ということを学んでいくということです。

 これが、唯識を学ぶ一番の実用的な意義ではないかと、私は考えています。

さ て、読者の皆さんの中に、もし今、誰にも言えない葛藤を抱えている方がいるとしたら、その心は過去のどのような「種」を芽吹かせているのでしょうか。

 一度、善悪を脇に置いて、自分の心の奥底を覗いてみてはどうでしょうか。

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対機説法としての占い

 最近出会ったある女性のことで、考えさせられる出来事があった。

 その方はきわめて常識的で、傍から見れば徹底したリアリスト、合理主義者に映る。理路整然と物事を捉え、無駄を嫌う人でもある。ところがそんな彼女が、「手相占い」のことだけは、今も変わらず、熱を帯びたまなざしで信じ続けている姿に面食らう。

 私も「宿曜術」で彼女を占ったことがある。密教僧として、歴史や術の洗練度合いにおいて「宿曜術」に対する自負が私にはあった。しかしその方にとっては、どちらが優れているかという議論そのものが意味を持たなかった。

 彼女にとっては昔から信じてきた手相占いこそが、唯一無二の、かけがえのないものだった。だから私がどれほど言葉を尽くして宿曜術の緻密さを説いても、その手相占いへの信頼が揺らぐことはなかった。

 いったい何が彼女をそこまで駆り立てるのか。合理的な思考と、一つの占いへの強い愛着。一見矛盾するその姿を前に、私が思ったこと。

 例えば仏教の「対機説法」。言わずもがな、これは相手の性質や心境、理解力に応じて、説く教えを柔軟に変えるということ。占いにもまた、これに似た「縁」があるのではないか。宿曜術がどれほど緻密で壮大な歴史を持っていようとも、彼女という「器」にぴったり収まる水は、たまたま最初に出会った手相占いだった——それは、ただそれだけの、純粋な縁の問題なのだ、という考え。

 別の観点では、手相は自分の身体に刻まれた線を読むものだ。それに比して宿曜は、日々変化しながら常に自分自身とともにあるもの。極限のリアリストである彼女にとって、象徴的な「星」という宇宙の法則よりも、今ここにある「自分の手のひら」という最も身近な現実のほうが、感覚的に腑に落ちやすかったのではないか。そう考えると、手相を信じることそのものが、確かに実に彼女らしい、合理的な選択のようにも思えてくる。

 もっと簡単に考えれば、結局理屈を超えた「愛着の聖域」というだけかもしれない。どれほど冷徹な合理主義者であっても、心の中に一つくらいは、論理では測れない大切な場所を持っている。彼女にとってその手相占いは、人生の迷いの中にいた若い頃、最初にそっと心を開いてくれた「鍵」だったという経験があればこそ、そこに強い愛着として固着する。たとえ後から、より精巧で立派なマスターキー——例えば宿曜術のような——を差し出されたとしても、最初に自分を救い、歩むべき道を照らしてくれた鍵への愛着は、そう簡単には色褪せない。

 おそらく私の言葉が彼女の心を動かせなかったのは、彼女が頑ななせいではない。その占いを否定することは、それを信じて懸命に人生を切り拓いてきた、過去の自分自身の歩みを否定することになってしまうからではなかろうか。

 他者から見れば、それは数ある占いの一つに過ぎないかもしれない。しかし彼女にとっては、自分の人生を並走してくれた、かけがえのない「伴走者」ということなんだろう。

 人間が抱える、この一筋縄ではいかない割り切れなさ。論理を超えたところにある、人生への健気な愛着。論破できない彼女の頑なさが、むしろ私にはなんだか、とても人間らしく思えてならなかった

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タイの仏教事情

 日本に伝わっている仏教は、いわゆる「大乗仏教」という種類のものです。
 私たちがよく知る禅宗も、浄土宗も、密教も、すべてこの大乗仏教という大きなグループに属しています。
 最近でこそ、東南アジアの「上座部仏教」という別グループの仏教も日本に入ってくるようになりましたが、歴史的に日本の文化として根付いているのは、あくまで大乗仏教の方です。
 そのため、日本の専門のお坊さんであっても、他国の上座部仏教のリアルな事情はほとんど知らない、ということが普通に起こります。
 恥ずかしながら、私はまさに今、そのことを身をもって痛感している真っ最中です。
その「痛感」のきっかけになったのは、今年の冬から私が始めた、タイの国技である  「ムエタイ」という格闘技でした。
 このムエタイジムでのご縁から、ジムのために試合の勝利を祈る「戦勝祈願」のご祈祷を私が行った話は、以前のブログにも書きました。

ryona.hatenadiary.jp ただ、仏教の歴史に詳しい人が見れば、
「タイのジムなのだから、タイの仏教(上座部仏教)のやり方で祈祷すべきでは?」
というツッコミが飛んできそうなところです。
 しかし、そもそも上座部仏教と大乗仏教の違いなんて、一般的な日本では明確に分かる人の方が圧倒的少数派でしょう。
 ありがたいことにジムの方からも
「里見さんにお任せします」
と言っていただいたこともあり、私のやり方(日本でおなじみの大乗仏教・密教スタイル)で堂々と祈願を行いました。
 ただ、そうはいっても、ご祈祷を引き受けた身として一応の責任というものがあります。
「そもそも、タイの仏教ってどういうものなんだろう?」
という素朴な疑問が湧き、自分なりに詳しく調べてみることにしました。
この記事は、その時に知った事柄を、「タイの仏教も格闘技もよく知らない、一般的な 日本人」に向けて、私なりに分かりやすく噛み砕いてまとめたものです。
 まず、ムエタイの試合の動画や中継を見ていると、試合が始まる前に必ず目にする、不思議で印象的な光景があります。
 激しい戦いを控えた選手たちがリングの上で、独特の民族音楽に合わせて、ゆっくりとした独特のステップを踏みながら、まるでお祈りをするような踊りを踊っているのです。

https://gonkaku.jp/system/images/attachments/000/121/439/medium/image-1689011771.jpg?1689011771

(写真:ゴング格闘技(GONKAKU)より引用)

ゴング格闘技 - GONKAKU あの美しい舞を「ワイクルー」と呼びます。
タイ語の単語に分けると、「ワイ」が敬意を表すお辞儀のことで、「クルー」が師匠や神様、ご先祖様を意味します。
 要するに「先生や大いなる存在への敬意」を表す儀式です。
 実はタイ語の「クルー」という言葉は、サンスクリット語で「師」を意味する「グル」と語源が同じです。
 試合が始まる前に、自分の師匠や神様、先祖に感謝を捧げて守ってもらうための舞なのだと考えると、私たち日本人にもがぜんイメージが湧きやすくなるのではないでしょうか。
 また、戦う選手たちの頭には、テニスラケットのグリップを輪にしたような、不思議な形をした頭飾り「モンコン」が着けられています。
さらに、腕にはお守りの布を巻きつけた「パープラチアット」という紐が巻かれています。

https://muaythai-japan.com/wp-content/uploads/2019/09/pexels-glebkrs-11045334-1024x682.jpg

(写真引用:ムエタイジャパンサイト)

【解説】ムエタイ選手が着用率100%の『3種類のお守り』とは? - ムエタイジャパン | ムエタイの教科書

 そして試合が始まる本当に直前、セコンド(セコンドとは、試合中に選手の身の回りの世話やアドバイスをするセコンドのことです)がこれらを頭から丁寧に外して、リングを去っていきます。
 これだけの特別な道具や儀礼を見るだけでも、殴り合う格闘技の試合の中に、とても濃い「宗教の空気」が溶け込んでいることが分かると思います。
では、その背景にあるタイの「宗教」とは、一体どのようなものなのでしょうか。
 多くの日本人がタイの仏教に抱くイメージは、おそらく
「日本の禅や密教のように複雑な教えになっていない、とてもシンプルで清らかな仏教」
というものではないでしょうか。
 ところが、実際に調べてみると、その実態はイメージとかなり違っていました。
私が通うジムにもタイ人のトレーナーが何人もいますが、みな日常の挨拶のときに、胸の前で綺麗に「合掌」をします。
 それもそのはずで、タイは国民の約9割が仏教を熱心に信仰していて、国内に約3万8000か所ものお寺(現地ではワットと呼びます)を抱える、大仏教国です。
 しかし、彼らのリアルな宗教生活を覗いてみると、ベースにあるのは確かに上座部仏教なのですが、それだけではありませんでした。
 古代インドのバラモン教やヒンドゥー教、さらには仏教が生まれるよりも大昔から現地にある「精霊(自然の神々)への信仰」が幾重にも重なった、非常にカラフルで複雑な世界が広がっていたのです。
 分かりやすく表現するなら、日本でいう「神仏習合」に近い状態をイメージするとぴったりです。
 明治時代より前の昔の日本一昔前までは、神社とお寺が同じ境内に並んで建っていて、神様も仏様もごちゃ混ぜになって人々を支えていました。
 タイの宗教世界は、まさにあの頃の日本のような「何でも混ぜ合わせて大切にする構造」を、いまも現役で、当たり前の日常として生きているのです。
 特に、先ほど触れた精霊信仰のことでいうと、タイには「ピー」と呼ばれる存在への信仰が深く息づいています。
 ピーとは、土地の守り神、家の神様、村の守護霊、ご先祖様の霊、山や川や木に宿る精霊から、時には幽霊や悪霊までをも含む、あらゆる「目に見えない超自然的な存在」の総称です。
 これは、日本の「八百万の神」に非常に近い概念だと言えます。
 仏教がタイに伝わってくるはるか昔から現地にあった土着の信仰が、後からやってきた仏教と見事に混ざり合い、現代でも毎日の生活の中に完全に溶け込んでいます。
 現地の研究者も、
「お互いが複雑に混ざりすぎていて、どれが仏教でどれが精霊信仰か、切り離すことなんて不可能だ」
と語るほどです。
 実際、タイの首都バンコクの街を歩けば、ヒンドゥー教の神様である「ブラフマー」を祀った祠(有名なエラワン祠など)に、大勢のタイ人が熱心に手を合わせている姿を普通に見かけます。
 あの光景こそが、タイの信仰が「純粋な仏教」だけでできているわけではないことを、何よりもよく物語っています。
 さらに、ムエタイの選手たちが首からじゃらじゃらとたくさんぶら下げている、ネックレスのようなものがあります。
 あれが「プラクルアン」です。
 小さな仏像や、昔の偉い高僧の姿をかたどった小さなミニチュアのお守りで、格闘家だけでなく、タイの人なら誰もが持っているほど広く普及しています。
 バンコクの街を行き交う人々を観察すると、驚くほどたくさんの人が、このプラクルアンを洋服の中や外に身につけていることに気づきます。
 日本のお守りと比較してみると、その仕組みは実によく似ています。
 お寺で作られて、お寺から授けられるものであること。
 仏様や神様のパワーが宿っているとされること。
 身につけることで事故や災難から守ってもらえること。
 このあたりの発想は日本とほぼ同じです。
  さらにプラクルアンを手に入れるとき、現地では「買う・売る」という言葉を絶対に使いません。正式には「借りる・貸す」という言葉を使います。
 日本のお守りも、売店で「買う」のではなく、社務所で「授与していただく(お分けいただく)」と言いますが、それと全く同じ感覚です。
 つまり、「仏様の偉大なパワーを、一時的に持ち歩くためにお借りしている」という、おそれ多い敬意の表れなのでしょう。
 そして、この持ち歩くお守り(プラクルアン)よりも、さらに歴史が古く、体そのものに刻み込む護符文化があります。
 それが「サックヤン」と呼ばれる、伝統的な「お守りの刺青」です。
 まだ持ち歩けるお守りを作る技術がなかった大昔、戦場へ赴く兵士たちは、矢や刀が当たらないようにと、お守りの呪文や図形を自分の体に直接彫り込んでいました。
 1200年代(日本の鎌倉時代くらい)まで遡る非常に古い文化で、現在はタイの仏教の一部として扱われていますが、もともとはカンボジアの古い呪術から来ていると言われています。
 日本でいえば、戦国武将が自分の兜に神様仏様の名前を書いてお祈りを込めたり、刀の刃に神聖な文字(梵字)を刻み込んだりした感覚に極めて近いです。
 ムエタイをはじめとする格闘家にこの刺青を入れている人が多いのは、単なる見た目のファッションではなく、実はこの「命がけの戦いに赴くための、正真正銘のお守りの伝統」から来ているのです。
(現代の本心としては、ファッション感覚で入れている選手も多いかもしれませんが)
 こうしてタイ仏教の実態を知れば知るほど、私が身を置く大乗・密教の「加持祈祷」の発想との強烈な類似性を感じずにはいられません。
「護符そのものが霊力を持つ」
「儀礼によって仏の加護を現実世界に引き寄せる」
「戦いに向かう者を宗教的な力で守護する」
 これらはどう見ても、私たちがよく知る密教のロジックそのものです。
 上座部仏教といえば、教科書的には
「個人の修行と悟りを重視し、現世利益的な祈祷は行わない」
というスマートなイメージが先行しがちです。
 しかし、少なくともタイの一般的な信仰実践の現場においては、その固定観念は大きな修正が必要だと痛感しました。
 そもそも、ただ一つの「純粋な一宗教」だけが生活のすべてを支配するという世界観は、私たち日本人にとってはむしろ異質なものです。
私たちは神社で初詣をし、お寺で葬式を営み、七五三で氏神に参ります。
 宗教の重層性を、矛盾なく当たり前のこととして生きてきた民族です。
その目で見つめ直すと、タイの宗教世界は驚くほど自然で、親しみやすいものに映ります。
 お釈迦様への純粋な帰依を核に持ちながら、精霊への畏れも、ヒンドゥーの神々への感謝も、身体に刻んだ護符への信頼も、すべてが同じ地平で美しく折り重なっているのです。
 そこにある信仰が「正統」か「混合」かを厳密に問うことに、さほど意味はないのかもしれません。
 人が何かに向かって掌を合わせるとき、その祈りはいつだって複雑で、重層的で、その土地の長い記憶を引き連れているものだからです。
 ムエタイを通じてタイの人々と尊いご縁ができた一人の僧侶として、選手たちがリングに上がる前に額ずく、あの「ワイクルー」の深い意味を、これからも大切に理解し続けていたいと思います。

 

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摩利支天と大威徳明王

さて皆さまは、下の左側画像の尊格。

なんだと思われますか?

全く見当もつかない方も多いとは思いますし。少し詳しい方なら「摩利支天では?」と思われたのではと思います。

しかし、この投稿された方も「修正」されているように、このご尊格は「摩利支天」ではなく「大威徳明王」です。

https://x.com/yfa258134/status/2068920296925782504?s=20

 ここの読者の方には、どちらも人気のご尊格だと思いますので!?その話を少し深く探ってみます。

 さて、繰り返しになりますが、このお像は「猪の背に片足立ち(丁字立ち)で疾走し、弓矢を構える姿」という特徴を有する、「摩利支天(男尊形)」に見えます。   

 でも、よ~く見ると!!乗っている動物はイノシシではなく「水牛」。

 水牛に乗る有名なお像はいくつかありますが、このお像は「大威徳明王」です。  

 ただ、我々がよく知る通常の大威徳明王といえば、6本足(六足)で水牛の背にまたがって座る「坐像」です。

 しかし、なぜか、この欄間彫刻はまるで摩利支天のようなアグレッシブな片足立ちステップを踏んでいる。

 しらべるとほぼこの姿をした「仏画」を見つけることができます。

 三重県の津観音(大宝院)が所蔵する重要文化財『絹本著色 大威徳明王像(室町時代)』です。

online.bunka.go.jp

 この絵画には、まさに欄間彫刻と全く同じ「疾駆する水牛の背の法輪(金剛輪)の上に立ち、右足を激しく跳ね上げて弓矢を引く大威徳明王」の姿が描かれています。  

 図像を細かく観察すると、水牛(法輪)を踏みつけている軸足は、摩利支天のように1本脚ではなく、明確に「左側の足3本(左3足)」がすべて描かれ、がっしりと踏みしめています。つまり、6本足のルールを崩さず、左3足で立ち、右3足で虚空を蹴り上げるという異形でしっかりと表現されてるといいうこと。  

 では、この姿の本来の根拠はどこか?を探ってみる。

 すると平安〜鎌倉時代の代表的な密教図像集である『阿娑縛抄(あさばしょう)』や、北宋訳の経典(八字文殊儀軌など)の記述を紐解くと、怨敵調伏・国家防衛の最高秘法とされる「転法輪法(てんぼうりんほう)」の本尊として、まさにこの「水牛の背の法輪上に左の3足で立ち、二手で弓矢を引く」姿が正統なバリエーションとして明確に規定されていました。

 さらに面白いのは、仏教図像学における摩利支天との「つながり」です。

 学習院大学の美術史研究(西岡作太郎氏の論文「摩利支天をめぐる言説と美術」)では以下のように指摘されています。  

 「図像集にみる三面八臂の摩利支天像は、動物の背の半月上に左足で立ち、持物として弓・矢・鉾を持つ点で、水牛の背の法輪上に左足で立つ転法輪法の大威徳明王像と共通する。」  

 つまり、密教の内部において「摩利支天」と「転法輪法の大威徳明王」は、最強の戦闘モード(調伏・勝利)の機能を持たせるために、あえて図像の構造(弓矢・片足立ちの構え)を意図的にシンクロさせていたという、明確な歴史的背景があったわけです。

 お寺の欄間という限られた横長のスペースに、あえてポピュラーな坐像ではなく、この『阿娑縛抄』由来の「転法輪法」の激しい立像スタイルを落とし込み、3本の足が重なる凄まじい躍動感を木彫りで表現しようとした江戸時代の仏師のこだわりと技術。

職人のこだわり恐るべし!!ですね。

 

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(「どんな衆生でも救う」という使命を持って誕生した慈悲深い菩薩さまです。皆様の願いを菩薩さまにお伝えするお手伝いをします)

星祈祷

年始(旧正月)に「星祭」を行い、祈祷札をお出ししておりますが、随時「星祈祷」をお受けしています。

不動明王祈願

※不動尊華水供を修法致します。

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祈願の、恐ろしい一面

 あるプロジェクトに関わるチームの方々が、揃って当院にお越しになりました。大きな商談を前にしたご祈願でした。

 皆の前で修法をするうちに「どうもおかしいな」という違和感があった。なぜそう感じたのか、私の所作を通じて「いつも通りではない」を告げる何かがあった。

 結果は——こう言ってしまっては祈祷僧としては恥ずかしい限りだが——その商談は上手くまとまらなかった。施主の方々には「申し訳ない」という気持ちがありつつも、どこかこの結果が分かっていた自分もいた。

 自分なりの責任として、この方々に宗教的な視点から僭越ながら申し上げました。「今回の験は、軌道修正を促すものとしてお受け取りください。今の方向性を見直す機会と捉えていただければ」と。

しかし——

 それから間もなく起きたことを目にした時、私はその読みの浅さを恥じました。

 商談が失敗したどころではなかった。プロジェクト自体が崩れ、関わっていた方々の状況が根底からひっくり返っていきました。まるで祈願という行為が、そのプロジェクトの内側に潜んでいた「負」を白日のもとに引きずり出し、むしろ加速させてしまったかのように。

 仏の前では、隠れているものは隠れていられない。

 験とは、祈った者に都合よく働くものではありません。時に、こちらの想定をはるかに超えた形で、何かを動かしていく。祈願の恐ろしい一面を、強烈に目の当たりにした出来事でした。

※プライベートに関わることなので、話の外枠を変えてお伝えしています。

荼枳尼天香合仏、再受付中

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祈願のお申込みについて

 本院で承っている祈願につきまして、以下解説ページから。

本尊准胝仏母祈願

当院のご本尊である准胝仏母さまの祈願です。滅罪、延命、求子に強いご尊格です。

先祖供養・家族の敬愛祈願

光明真言にによる供養(光明供)にて、ご先祖供養を致します。光明真言には強い滅罪の功徳がございます。

 荼枳尼天尊祈願

荼枳尼天とはお稲荷さまの仏教でも呼び名です。

商売繁盛、学業増進、立身出世など増益につよいご神さまです

人型加持

 病気平癒、健康維持にとてもよく効く祈祷で、お加持をした「お札」を毎日枕の下に入れてその札に「悪いもの」を吸い取ってもらうように機能させます。人によっては患部に当てるよう袋を作ってお守りのようにしている方もいます。不動明王による祈祷を行いますが、当院では延命に強い准胝仏母の力もお借りして祈祷致します。

 文殊菩薩祈願
「三人寄らば文殊の知恵」というように智慧を象徴する尊格です。学業増進祈祷、無明を断ち切る祈祷などでお力をいただけます。

多羅菩薩(ターラー菩薩)祈願

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騎乗する神の文法——禺彊から飯縄権現まで(門外漢の大胆仮説)

SNSで、一枚の線描図版を見かけた。

 清代の類書『古今図書集成』の「海神部彙考」に収録された、禺彊(ぐうきょう)の神図である。

 人の顔に鳥の身体、耳から青蛇を下げ、足元に蛇を踏み、双頭の龍に跨る——その姿を見て「おやおや?」と反応した方は多いはず!?

 特に密教図像マニアを自称する私は脊髄反射をしたのは言うまでもない(笑)

禺彊とはどんな神か

 まず基本的な話を調べてみました。

禺彊は『山海経』大荒北経に登場する北海の神で、原文はこうなっている。

北海之渚中、有神、人面鳥身、珥兩青蛇、踐兩赤蛇、名曰禺彊

「北海の渚の中に神あり。人面鳥身、両青蛇を珥にし、両赤蛇を践む。名を禺彊という」

 耳に青蛇を懸け、足元に赤蛇を踏む——この一節だけで図像としての情報密度は相当なものだが、別系統の記述では「双頭の龍に乗って海を巡る」ともされる。冒頭の神図はおそらくこの後者のイメージを図像化したものだと思う。

 禺彊の神格は多層的で、海神であり、北方の冬神であり、風神でもある。また「玄冥」とも呼ばれ、四象の玄武の古い名称との習合も指摘されているのは面白い。

 また黄帝の孫という出自も持ち、顓頊の従神でもあるらしい。一柱の神にこれだけ複数の属性が折り重なっている点、密教の重層的な尊格とどこか似た構造を感じるのは私だけだろうか?

四方神という「システム」

禺彊をより正確に理解するために、もうすこし深く掘ってみる。

山海経には「四方神」と呼ばれる神々のセットが存在する。句芒(東・春・木)、祝融(南・夏・火)、蓐収(西・秋・金)、そして禺彊(北・冬・水)がそれ。この四神は方位・季節・五行の属性をそれぞれに担う一種のシステムだが、注目すべきはその姿の設計だ。

  • 句芒:鳥身人面、双竜に乗る
  • 祝融:獣身人面、双竜に乗る
  • 蓐収:人面虎爪、左耳に蛇をかける
  • 禺彊:人面鳥身、両耳に青蛇、足元に赤蛇(別伝では双頭龍に騎乗)

見ての通り、全員が「人間と別の何かの混淆した身体」を持ち、そして「特殊な乗り物(乗獣)」と対になっている。馬でも象でも牛でもなく——蛇であり、龍であり、複数頭の異形の獣である。

ここで私の中に一つの問いが生まれた。

なぜ、これほど「普通でない」乗り物が選ばれているのか。

大胆仮説:「騎乗」は属性の統合である

 以下は完全に門外漢による妄想であることを最初に断っておく。中国神話の専門家から見れば噴飯ものかもしれないのでご指摘があれば教えていただけると幸いです。あくまで密教図像の側から見ると、そう読めてしまう、という仮説です。

その仮説とは——

乗獣は神格の属性の「延長」であり、騎乗という行為は「その霊威を身体ごと引き受けること」の表現である。

 句芒が双頭龍に乗るのは、木・春・生成の力が龍の躍動と不可分だからではないか?禺彊が蛇・龍に乗る(あるいは踏む)のは、水・冬・死と再生のエネルギーを文字通り「踏まえている」からではないか?乗獣を「支配している」のではなく、「その霊威と一体化している」——そのことを「騎乗」という図像文法で表している。

 この読みを補強するように思えるのが、句芒の清代における変容だ。

 本来は双頭龍に乗っていたはずの句芒が、清代の図像では「牛に乗る牧童の姿」に変化している。これは堕落でも誤伝でもなく、春の農耕神としての属性が「牛」という農事の象徴と結びついた、属性の置換だと読めなくもない。乗り物が変われば、神の語る属性も変わる。それは乗獣が飾りではなく、神格の核心と繋がっていることを示唆しているように感じる。

飯縄権現・荼枳尼天へ——文法の越境

 さてここからが本当の「妄想の飛躍」である。

 ご存じの飯縄権現は白狐に乗るという図像で知られる。

 荼枳尼天は言わずもがな白狐に乗る天女形として描かれる。この白狐は稲荷信仰と深く結びついており、単なる乗り物ではなく、荼枳尼天の霊威そのものの担い手として機能している。

 私の目には、この「烏天狗+白狐」「荼枳尼天+白狐」という構造が、山海経四方神の「異形神+乗獣」という文法とまったく同じように見える。

 実際、白狐は荼枳尼天の化身・同体ともされる。つまり狐の霊威——疾走する呪力、稲荷神との習合が生んだ増益と変化の力——を、天狗形の明王あるいは天女形の尊格が「身体ごと引き受けている」と解釈する。

 だから白狐は荼枳尼天の後ろを走っているのではなく、荼枳尼天は白狐の上にいることでその霊威と一体化しているとも言えそうです。

 この文法が山海経の四方神において既に完成していたとするならば、後世の密教的・修験的な「騎乗する神」の図像は、それと同じ人類の図像的直感の上に成立していると言えないだろうか。

 伝播なのか、並行発生なのか——そこは私には判断できない。ただ、「乗る」ことの意味が文化を越えて一致している可能性は、妄想の域を出ないにせよ、捨てるには惜しいとも思っている。

 繰り返すが、中国神話は私の専門ではない。本記事は密教図像の人間が隣接領域を覗いて感じたことの記録であり、むろん学術論考でもない。

ただ、専門の外から見るからこそ見えることがある、とも思っている。


本記事は大胆仮説・個人的妄想として書いています。中国神話の専門家の方のご指摘・ご教示を歓迎します。

 

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祈願のお申込みについて

 本院で承っている祈願につきまして、以下解説ページから。

本尊准胝仏母祈願

当院のご本尊である准胝仏母さまの祈願です。滅罪、延命、求子に強いご尊格です。

先祖供養・家族の敬愛祈願

光明真言にによる供養(光明供)にて、ご先祖供養を致します。光明真言には強い滅罪の功徳がございます。

 荼枳尼天尊祈願

荼枳尼天とはお稲荷さまの仏教でも呼び名です。

商売繁盛、学業増進、立身出世など増益につよいご神さまです

人型加持

 病気平癒、健康維持にとてもよく効く祈祷で、お加持をした「お札」を毎日枕の下に入れてその札に「悪いもの」を吸い取ってもらうように機能させます。人によっては患部に当てるよう袋を作ってお守りのようにしている方もいます。不動明王による祈祷を行いますが、当院では延命に強い准胝仏母の力もお借りして祈祷致します。

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「三人寄らば文殊の知恵」というように智慧を象徴する尊格です。学業増進祈祷、無明を断ち切る祈祷などでお力をいただけます。

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香合仏・再授与にあたって——荼枳尼天篤信者様からのご感想

 このたび、香合仏(荼枳尼天・懐中仏)の再授与を前に、当院の信者様より大変有難いメッセージをいただきました。ご本人のご厚意により、ここにご紹介させていただきます。

 この方は、豊川稲荷をお世話する家系にお生まれになり、長年にわたって荼枳尼天信仰を続けてこられた、いわば筋金入りの荼枳尼天さまの篤信者様です。

 そのような方が、当院の稲荷尊天をお迎えくださったご縁と、一年以上のお付き合いを経てのご感想——これは香合仏の再授与にあたり、どうしてもお伝えしたいと思いました。

 以下、いただいたお言葉をそのままご紹介します。


里見先生
いつも大変お世話になっております。

 私はもともと豊川稲荷をお世話する家系に生まれ、自然と稲荷神とともに生きてまいりました。そのため、複数の稲荷神をお祀りする大変さも多少は理解しており、里見先生のところの稲荷尊天をお迎えすることについては、しばらくためらいがございました。

 しかし、里見先生の八王子の寺院を参拝し、御住職の稲荷に対するお世話や礼儀に深く感銘を受けました。そのうえで、豊川稲荷様はすでに先にお祀りしておりますので、豊川様への合祀ではなく、修行本尊である不動明王の脇にお迎えしたいと申し出た次第です。

 当初は、本尊不動明王の脇に稲荷尊天と文殊菩薩をお祀りする形を考えておりましたが、現在は醍醐寺の准胝観音をお祀りする形にしております。

 不動尊の脇にお座りいただく姿には重厚さがあり、特に御影からは、里見先生がお祀りされている神々の曼荼羅のようなものを感じました。

 さて、お勤めについてですが、これまでは山城屋文政堂の羽田先生編者による『稲荷大明神荼枳尼天尊礼拝次第』を用いておりました。ただ、私には少し覚えにくいところがあり、普段豊川稲荷様にお唱えしているお勤めをもとに、真言を天台寺門のものに改め、108遍お唱えしておりました。

 お迎えしてから一年ほどは、力を感じながらも、あえて圧を出しておられない尊天であるように感じておりました。

 ところが、ここ最近、三月以降でしょうか、とてつもない力を感じるようになっております。これはこちらも応えて、真言をしっかりお唱えしなければならないのではないかと考えております。

 懐中仏は、普段は祭壇の御影前にお祀りし、仕事で夜勤に行く際には持っていくようにしております。

 里見先生の稲荷尊天をお迎えした当初は、逆に豊川稲荷様の拝みやすさが目につき、少々難しさを感じた時期もございました。ただ、これはお付き合いの長さによるものだと考えております。

 言葉ではうまく表現できませんが、豊川稲荷様とはまた別の力を感じます。圧はあるのですが、この稲荷尊天は不思議と拝みやすいと感じております。

何卒よろしくお願い申し上げます。


 豊川稲荷の篤信者様が「豊川様とはまた別の力」と表現してくださったこと、そして「圧はあるのに拝みやすい」というこの逆説的なご感想——これは荼枳尼天という尊格の本質を、長年の信仰の眼でとらえてくださったお言葉だと思います。

 また、不動明王の脇に当院の荼枳尼天をお祀りくださっているとのこと。そして御影から「曼荼羅のようなもの」を感じてくださったというお言葉は、住職として深く胸に響くものがありました。

 お迎えから一年間は「あえて圧を出しておられない」と感じ、三月以降に「とてつもない力」を感じるようになった——このご経験は、荼枳尼天との関係性が時間をかけて熟成されるものであることを、まさに体現されているように思います。

 

香合仏の再授与をご希望の方は、どうぞご遠慮なくお問い合わせください。

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