准胝院のブログ

八王子市で准胝仏母を本尊とする祈祷道場「准胝院」のブログです。リンク 准胝仏母祈願道場「准胝院」について https://ryona.hatenadiary.jp/entry/2021/11/01/0636 ※天台寺門宗教師 亮和

瞑想が祈願成就を促す!?

「なんで准胝院の亮和は瞑想の話をするんだ?」

 そんな感想を持たれる方が多いのかな?

 だって「瞑想」の記事を書くとアクセスが途端に減るからさあ~(笑)

 仏教の修行者は『仏道を修行する者がかならず修めるべき基本的な修行項目』として「三学」は常に意識するところであるが、信者さまの中には「祈願」はお願いするが「修行はちょっと……」となるとこういったことに関心がなくなるのだと思います。

 三学とは「戒(戒を守る)・定(禅定を修める)・慧(智慧を修める)」のことで、たった三つのうちの一つに「禅定を修める」があります。

 戒のことは割と気にする人は多いし、また「般若の智慧が~」と学問的、哲学的な方向に行く人もいる。でも「禅定」をやろうという人になるとぐっと数が減る。

 禅定とは「禅」のイメージで概ねあってると思いますが、大乗仏教の、特に天台系では「止観」という言葉が好まれます。

 まあ、言葉の話は置いておいて、一般信者からするとひっくるめて「瞑想」と捉えてもらっていいと思います。

 ただ「仏教の三学だから」という理由だけで「だからやりなさい」では言葉が足らないのかもしれない。

 

 ということで、私も「教師」の端くれなので少し理屈をこねてみる。

 皆さんは「祈願」が叶いたくて仏教に触れている人が多いと思う。

 それは大いに結構。

 でも祈願を叶えるためには、その想いが神仏に届く必要がある。

「それはあなた(行者)の仕事でしょう?」

と聞こえてきそうだ(笑)

でも、「それだけ」でしょうか?

 むろん私からすればそれに全力を尽くしますが、その祈りの中心に「あなた」がいなければ話にはなりません。

「あなたの願い」ですからね。

 では「あなたが願いを神仏の届けるには?」

 このブログでは「日常の変化に気付け」「そして行動をあらためろ」ということで願 いに近づことを期待しようと書いてきた。

 これに今日はプラスして「瞑想」を加える。

 なぜか?

 それは……

「瞑想状態の方が神仏への扉が開いているから」という説明になります。

瞑想状態は、より願いが神仏へ響きやすい状態だから、ということです。

 また、別の観点として……

 私が勧める1分間の瞑想を続けると、瞑想状態が努力しなくても維持されるようになります。これを瞑想状態が「般化する」という言い方をします。1日中という訳ではないにしても、質の高い心の状態になりやすくなります。

 とするならばあなたが本当に願うことが、心の深いところに落ちる確率が上がるという理屈になります。

 そして、その繰り返しが「薫習」となって心の奥底で厚みを増せば、神仏が掬い取りやすくなるはずなのです。

 祈願と禅定……信者さん側から見ると関係が見えにくいと思いますが、実はとても重要な事です。

 

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後転(後ろでんぐり返し)が出来ないネコ

 

この通り、姉妹の中では一番ベタベタと纏わりつく程の甘えん坊のしゃみぃ。

 

ただ手を出せば光の速さで激怒からのガチ噛み
f:id:spincast:20221202180122j:image

 

ただし私も武術・格闘技経験者。

行動(噛む)パターンが読めてきたので、ディフェンス技術が向上中?!(きっと調子に乗ってまた噛まれる)

 

 

日常の瞑想「数息観」のすすめ

  数息観と聞けば、このブログの読者さまはご存知の方が多いと思います。

よく「禅の導入」に用いられるもので、ようは自身の呼吸の数を数える瞑想法のことです。

 「禅」の「補助的なもの」と捉えられていることもあるようですが、個人的にはこの「数息観」は最も優れた瞑想法の一つだと思っています。

「優れている」と思う理由は明快です。

「簡単だから継続しやすい」から。

一般の方が行う瞑想なら、これ以上の優位点はないでしょう。

どんなに複雑で難しい瞑想をやろうとも、継続できなければ意味がない。

その点「数息観」なら、いつでもどこでもできる。

極端な話、電車の待ち時間に、食後のリラックスタイムに、寝る前に、朝の目覚めと共に、1分程度でも時間があったらやったらいいと思う。

これなら誰でも継続可能でしょ?

どんなに忙しくても「1分の時間がとれません」というなんて人はそうそういないと思います。

 瞑想が継続しなくなる一つのパターンに「今日は時間がないから」と、一度でも休んでしまう事。

 そうすると「今日は(も)いいや」という日が日に日に増え続け、気づいたら全くやらなくなっていた……というパターン(何度も経験済み:汗)

 この「数息観」を継続するポイントは、先に「1分でも」と書いた通り「短くてもOK」としてしまうこと。

 長くやれればそれは当然そのほうがいいと思うが、くどい様だが「30分」「Ⅰ時間」とするとまず継続は難しい。

 また短くていいなら、おそらく一日に何度もやれる。だから、最終的にはちょっと時間ができた時、気づけば呼吸の数を数えている状態になればしめたもの。癖にしてしまおうという作戦。

では「具体的なやり方は?」というと……

 難しいことは置いておいて、まずは呼吸の数を数えるだけ。最初は10回も数えられないと思います。途中で集中力が切れるから。でもあまり気負わずに数回でも数えられれば「できた」として「1回やった」とカウントしてしまう。

 ちなみに数を途中で忘れたら最初に戻るのがルール。つまり1からやり直し。

 慣れてきたら吐く息により集中する。そうすると自然と吐く息が長くなります。その吐く息がきっかけに頭がスーッとしてくるようになれば進歩している証拠。まずはこの辺からスタートしましょう。

 くどい様ですが、継続が大事。言い方を替えればこのブログのテーマでもある「日常が大事」ということ。

 1年365日欠かさないということは、どんな優れた瞑想を1週間やるよりもパワフルです。

 

 さあ、今この瞬間からスタートしましょう!

 

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痛みから学ぶこと

  朝、「にゃあ、にゃあ」という「しゃみい」の煩い鳴き声で目が醒めた。

いつもの朝の風景。

 上体を起こして「さあ」と手を畳について起き上がろうとしたら掌に「ズキン」という激痛を感じた。

「ああ、そうだった」

と、昨夜の「惨劇」を思い出す。

 いや、惨劇というほどでもないのだが、性懲りもなく、またもや「しゃみい」に「がっつり」と掌を噛まれたのだ。

 「がっつり」というのは、「手を畳ついただけで痛い」ことからも想像いただけると思うが、その手は傷口を中心に赤く腫れて熱を持っているほど。

 

 さて……

「痛みの心理学」

というユニークな心理学がある。

「痛み」を注意深く観察なさいというのだが、何のために?

「痛みの目的を探るために」

だそうな。

「痛みに目的もへったくれもあるか!」

普通は、そういう感想だと思います。

でも皆が「そんなバカな」と思えるようなことだからこそ「ユニーク」とも言える。

でもちょっと考えてみてください。

「痛い!」という感覚は、少なくともめちゃくちゃ主張が強い。

心を乱される最たるものでもあることに異論はないでしょう。

なぜ、そんなにも心に訴えかけるのだ?

現代科学的には(医学的には)、痛みによって身体を庇うよう心を仕向けるためと説明される。

でもこの心理学は……

「いやいや、もう一つ意味があるんだよ」

という。

つまり痛みには意味が二つあると。

一つは身体を守る事。

もう一つは?

「間違った生き方を正すためのヒント」

だそうな。

「だから、その生き方、間違ってるんだよなあ」

というときに「痛み」が生じるとある。

「なにそれ?!」という人が多いでしょうか。

 百歩譲って「原因不明の痛み」だったらそんなこともあるかもしれない。

でもネコに噛まれたのは偶然でしょ?全然内面からの痛みではない気がするが?

その通り。ネコに噛まれた傷は、外的要因であって心が「生き方違う」と先導したものとは考えにくい。

でも「痛みの心理学」は強引だ。

「どんな理由で生じた痛みであれ、”全ての痛み”に意味がある」と言い切るのだ。

むろんネコに噛まれた痛みも。

「痛み」だけが重要であって、そこに「どんな原因の痛みか?」という因果律は一切受け付けない。ただただ「全部の痛み」が対象になる。

 その強引な論法の根底には、むろん皆が大好きな?ユングシンクロニシティ―(意味のある偶然の一致」が横たわっている。ユングシンクロニシティ―は別名「非因果律の原理」といいますからね。だったら痛みの原因を探ることに意味はない。

 問題は「その痛み」が何を意味するか?という探求にある。

 

 例えばこんな感じで探求します。

「なぜ噛まれたのか?」

をまず考えてみる。

実は最近、とみに噛まれる頻度が上がっている。

理由は明確です。

しゃみいとの距離が近くなったからです。

かつてのようにこちらから近づけば物陰に隠れて半日そこから出てこない……なんて状況では噛まれようがなかった。

それが今では機嫌がいいと、纏わりついて離れません。だから可愛くて身体を撫でてあげるまでになりました。嬉しい事です。

ただ最初は「丁寧に」あやしてあげますが、だんだん面倒になって扱いが「雑になる」と、「ガブリ」とやられます。

 普通の猫であれば例え噛んでも「アマガミ」だと思うんだが、しゃみいの場合はいつでも「ガチガミ」。時に噛みついてから首を振るので完全に肉を引きちぎりにきています。

ここから「ワーク」に入ります。

「雑にやると痛い目にある」という部分に注目してみる。

「噛まれた痛み」に「雑はいけない」という、イメージを重ね合わせて「その感じ」をイメージしてみる。

 時に「ああ、やっぱりそうだ」となるし、時に「いや、これじゃないな」となる。

 この繰り返し。

 今回の私の場合は「慣れてくる」と「雑になってしまう」という悪癖は、確かに思うところがあり過ぎて「ここを正さねば」という結論をこの「痛み」から掬い上げることができた。

 私は、これも仏教の修行に通じるものがあると私は思って、意識してこのワーク(瞑想といっていいかも)をやる。

 

 しゃみいは、ただただ私を痛めつけるためにやったのではなく、私の「気づき」に与えてくれて、修行に協力してくれたんだと思えば、より愛おしくもなる。むしろ私からしたら観音さまの変化(へんげ)と言える。

 

だからきっとしゃみいはこういいたかったに違いない。

「丁寧に修行するにゃん!」

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行者は常にアイドリング状態であれ

昨日は、K先生を囲んでの会食に同席させていただくご縁をいただきました。

konjichouin.hatenablog.com

 K先生におかれましては、非常に貴重なお話の数々を興味深く教授いただけましたこと感謝申し上げます。

 

「行者は常にアイドリング状態でなくてはならない」

 

 このお言葉が特に心に刺さりました。

 少し平たく表現するなら「常に神仏と繋がっている状態にあるのかどうか?」だと思います。

 そのためには何が必要なのか?

「日常から徹底的に自行しておく」

つまりは日常の自行が「常に神仏の繋がっている状態を継続するためのものになっているか?」という自覚が必要であること。

 

 まだまだ私レベルであれば、毎日の自行の「数」が足りていないということを痛感させていただきました。

些細な相談でも、大きな縁になる

 嬉しいことがあった。

 

 昼休み。

 食事を終えて同僚と他愛もない雑談をしていると……

「お久しぶりです!」

 そう、少し大きめの声が背後から響いたので驚いた。

 振り返ると、確かに「知った顔」がそこにあったのだが、一瞬「ポカン」としてしまった。

 その声の主は、東北時代の後輩で私の息子と大して歳も変わらない若者。

 私がつい「ポカン」としてしまった理由は、その彼が東北にいた当時、こんなに元気に「挨拶」をする若者ではなかったからだ。

 だから「見覚えのある顔」がそこにあるのに、一瞬だれだか認識できず「ポカン」とフリーズしてしまった。

「あれ?どうしたの?東京に出張?」

 私の勤務は、去年仙台から東京に変わっていたので、東北(青森)エリアの営業マンだった彼が「ここ(東京)」にいるはずがない。

すると驚きのフレーズが彼の口から。

 

「本社の〇〇部に異動になりました」

彼は嬉しそうにそう答えた。

 

「ええ!?よかったな!!」

 今度は私が大声を出してしまった。

 彼は某超有名私立大学の法学部出身のエリート。

 ただ最初の配属先であった「営業」では、「法律」の知識を使う場面なんてあるはずがなく、苦労した。

 いや、むしろ彼にとって営業は「最も向いていない仕事」だったといってよく、年々彼の評価は下がりエリアも東北の最北端まで異動させられていた。

 私は彼と何度か一緒に仕事をしたことがある。

 私は、肝心かなめのプレゼンテーションを行う「プレゼンター」なので、東北各県へ営業のサポートで行くことが多くあった。そこで彼のサポートでプレゼンをしたこともある。

 私はその「彼」と一緒に仕事を終えた寒い青森駅に向かう車中でのこと。しとしとと雪が降っていたのを覚えている。その雪の中で、彼の「悩み」を打ち明けられた。

「今の仕事は辛い」

「自分のスキルを発揮できる場所に行きたい」

 正直、想像通りの言葉だった。

 この時、私はある提案をした。

「上司、先輩、人事部に遠慮しないで、強く異動の希望を出せ」と。

 まだまだ日本の企業では、特に若者が直属の上司や先輩の顔色を窺て、異動の希望が出し難い環境がある。

 でも私は「わがまま」とも言える強い異動希望を推し通し、異動した経験があった。私ですら苦労して異動したのだ、いわんや若者をおや。

 若い彼はよほどのことがないと本社の人事に希望は通らないことを「こんこん」と説明した。

「とにかく図々しくなれ、自分の人生なんだから、上司は君の人生の責任なんてとってくれないぞ!」

 この時の彼は、痩せて、覇気もなく……おそらく「潰れる」寸前だったように思う。

 

 そんな彼のイメージが私にはあったので、元気よく「お久しぶりです!」の声を聴いたとき「まさか、これがあの時の彼なのか?」と思ってしまったのだ。

 

 聴けば、彼のスキルを正に発揮できる「法務」の部署にいるという。

「ああ、勇気を出して、がんばって主張したんだな」

 そう思った。

 彼の最後の必死の主張だから、きっとその想いが会社に通じた。


 適材適所で仕事をする。そんな当たり前のことが、出来ていない。転職して、他で花咲けばいい。ただ、それで人生が詰んでしまう若者だって大勢いる。

 毎年営業に配属される若い社員に、一定数「営業向きではない」という若者がいる。

 会社はやもすると、最初に配属された部署で活躍できないと、即ダメ社員のレッテルを貼ろうとする。特にその若者の直属の上司。そんな若手を育てるが上司の仕事だろう?とも思うが案外そういうことにならない。

 だから私はお節介でもそんな若者を見たら「別の部署に希望を出せ」という。それが原因でその若者の上司から快く思われないこともあるが、知ったことか。彼の人生だ。 

 自分の教育を棚上げして安易に「ダメ社員」にしようとする上司の顔色なんてクソくらえだ。

 もともと優秀な人間だ。

 必ず彼は会社で力を発揮する。

 

「この後、役員向けにコンプライアンスの説明をするんです」

と言っていたので、こっそりセミナ―ルームの小窓から中を覗いてみた。

 すると役員を前に堂々プレゼンをする彼の姿があった。

寒い雪の日に潰れす寸前だった彼を思うと、この雄姿を見て涙が出そうになった。

「里見さんにあの時、背中を押してもらったおかげです」

 彼が「あの時」には決して見せなかった、満面の笑みでそう言ってくれたが、私の一言がどれだけ彼のためになったのかなんか、実際には分からない。

 でも私の中でも、小さな相談でも人生を変えるだけのきっかけになることを強く思うエピソードになった。

 だから、そんな「小さな縁」を大事に、言葉一つ一つを大切にしたいと改めて思うのだった。

 

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小さな矢印、大きな矢印

 自分が生きる方向性を決めているのは「自分」である。

 これに異を唱える人はいないですよね?

 まさか

「いや、そうじゃないそれを決めているのはあなたです」

 なんて人はいないでしょう(笑)

 でも自分で決めた生きる道は、山あり谷あり。楽ではない。

 仏陀はいみじくも「一切皆苦」とそれを表現した。

 「何が正解なんだろう?」

 人は常にそんな悩みが絶えることがない。

「自分が意識できないところで神仏が見ていてくれる」と安心感を与えてくれるのが信仰心だと思う。

「自分で決めている」と思っていても結局、仏さまに導かれて、なるべくしてなっていた、だから全て任せてしまいましょう……そんな発想だ。

 この「自分で決めた(と思っている)」ことは実は人生に与える影響はごくごく小さい。

 いわば小さい矢印。

 でも仏さまが指し示す方向は太くてパワフル。太い矢印。

 歩みがそろっていれば大事にはならない。

 でもたとえ「小さい矢印」でも、時に明後日の方へ行き過ぎて、仏さまが示す太い矢印から外れてしまうことがある。

そうそると太い矢印は「ほらほら戻って来なさい」と強引に正しい道へ小さい矢印を戻してくれる。

 ただこの太い矢印は「言葉」で、それを伝えることができないので「出来事」「経験」で教えてくる。

 間違った方向へ進んでいると「小さな矢印(私)」は予期しない出来事に巻き込まれて、結果、「会社を辞める」とか「別れがある」とか、「価値観を変える」とか、逆に「思っても見ない人との出会いがあったり」とかとにかく色々な「その人を変えるための」出来事が起こるかもしれない。

 「私個人」で見れば「大変なことに巻き込まれた」となるが、広い目(長い目)で見れば、また方向性が定まっていくべき道に歩めていることになる。

 おそらく上で見たような「急な変化」が必要な時ほど、「痛み」を伴うこともあって、そのやり方は強引に映る。

 だからできれば例え「間違った方向」に向かってしても、緩やかな変化がいい。


 さて、我々の信仰では何を気を付けたらいいのだろうか?

 いつもブログで言ってることを繰り返します(繰り返しは大事ですからね)。

 日常から「小さな変化」に気付ける人になる。これができる人は振れ幅の大きい急な  変化を要求されるような「大事」に巻き込まれることはあまりないように思う。

 つまり日ごろの信仰を大事にして、小さな気付きを続けることができる人。

 逆に、日常的に手を神仏に手を合わせる習慣はないが、「ご利益」は欲しいので信仰心はある。無理難題な祈願をすれば、神仏はそれを受け取るだけの「変化」を求めるので時に施主様は急は変化に巻き込まれがち。

「祈願をしたら反ってひどい目にあった」

というのはこんなパターンかな?と想像する。

 また「験の強い」天部尊の祈願で時折見られる「障礙」も実は、天部尊が「意地悪」をしている訳ではなく、その祈願が叶う様に施主様に急激な変化を求めるが故に「きつい目にあわせてあげている」というパターンもある気がする。

 

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