皆さんには「心」はありますよね?
あたりまえですね(笑)
もしかすると我々が最も関心があるのが「自分の心」なのかもしれないですね。
だからその帰結として古代から「心」について様々な思索が世界中で綴られてきた。
現代では「心理学」がその役目を果たそうとしているのだろうか。
そしてむろん「仏教」にも「心」を徹底的に説明しようとした人たちがいた。
彼らはそれを「唯識(ゆいしき)」と呼んでやってみせた。
その心の分析の緻密さにはただただ圧倒される。
ただその内容は素人を拒絶するかのように「難解」ゆえに手が出し難い。
私も薄学者に過ぎないが、仏教教師の端くれとしてその難解なテーマ「一般信者さんに少しでも理解いただくために」という名分のため頑張ってみようと思う。
皆さんの興味と理解を深めるための方便として、今回は「下世話なテーマ」を題材にしてみる。
そのテーマとは「道ならぬ恋」。
犯罪ではないが、倫理的に、特に仏教徒であれば厳しく善悪を問われる話だ。
唯識を知る取っ掛かりとしてはいい題材かもしれない。
なぜなら「道ならぬ恋」では避けられない「心の葛藤」の中にこそ、唯識が解き明かそうとした「輪廻の業(ごう)がどうやって現在に現れているか」という、仏教が最も重視する心の仕組みが、鋭く立ち現れるからです。
さて、そもそも唯識ってどんな教えなのか?
ざっくりいうと「心のしくみを、めちゃくちゃ細かく分析した心理学」のようなものです。
西暦4〜5世紀ごろにインドで体系化されました。
私たちが「現実」だと思っているものは、実は「心というフィルターを通して作り出された世界だ」という主張を唯識はします。
「すべては心(=識)の働きから生まれているんだ」と言っている訳です。
さて、ここでイメージしましょう。
まず、心には「深い倉庫」があると想像します。
割とここが核心部です。
でも非常にシンプルです。
私たちの心には、この人生の記憶だけでなく、輪廻の果てしない時間のなかで積み重ねてきた過去のエネルギー――「業(ごう)」の種とも呼ぶべきもの――が、すべて記録されている「深い倉庫」があると考えます。
これを仏教では「阿頼耶識(あらやしき)」と呼びます。
おっと重要な用語が出てきましたね。
きっとこの阿頼耶識という言葉自体は聞いたことがあるのではないでしょうか?
ただ割とこの言葉の意味を適当に使っている人を見かけますので会話がかみ合わないのは仏教徒あるあるです(笑)閑話休題。
さて、この倉庫の中身は、いわば「種」のようなもので、ふとした条件が揃うと芽を出します。
種と芽という例えが分かりやすいです。
そしてこの吹き出た「芽」こそが「今、自分が感じている感情や思考」として姿を現している様(さま)です。
「芽=感情」であり「芽=思考」であるということ。
さて、「道ならぬ恋」でこれを考えてみます。
あなたが(!?)ではなく、「ある人が」道ならぬ人に恋心を抱いて心が揺れ動いてしまったとします。
唯識的にはそれは「あなたが悪い」と簡単に裁くわけではなく、倉庫の中にすでにあった過去の「種」が、たまたま目の前の相手という水を得て「芽吹いた」……と見る。
これが唯識のドライでありながらも慈悲深い見方ということです。
では、その湧き上がってしまった感情を抑え込めば解決するのでしょうか?
唯識はそんな簡単な解決を語りません。
唯識は「行動しなければ(口にしなければ)それでセーフ」とは考えません。
この場合は感情を無理やり押し殺そうとも、一つの経験として、その「抑圧した記録」を倉庫=阿頼耶識へ新しく保存することになります。
これを仏教用語で「薫習(くんじゅう)」と呼びます。
香を焚くと服に香りが移るように、一つひとつの行いや思いが倉庫に染み込んでいくという仕組みです。
つまり、ただ蓋をして我慢しているだけでは、我慢したという「新しい香り」が倉庫に定着して、倉庫の中身が増えるだけです。
ここでよくある誤解を解いておきます。
唯識を学ぶと、「今の自分の苦しみはすべて過去の業(種)のせいだ」と、過去に責任を転嫁して納得してしまう人がいます。
しかし、唯識はそのような「責任逃れ」を許す教えではありません。
過去から持ち越した種が芽吹いたのは事実ですが、その芽がどう育ち、どんな結果を結ぶのか。
それは、今まさに種が芽吹いた瞬間、あなたがどう反応し、どう向き合うかという「現在の選択」に委ねられているからです。
過去の種を言い訳にして、芽吹いた欲望をそのまま増幅させていくのか。
あるいは、その芽吹きを自覚して、それ以上種を広げないように立ち止まるのか。
唯識が教えるのは、過去の決定論ではなく、今この瞬間から「自分が自分の心の主導権を握る」という覚悟の提示なのです。
さて、ここでおそらくはこんな邪魔をしてくるであろう「やっかいもの」を紹介しましょう。
自分を欺く心の働き=末那識(まなしき)です。
こいつは何者かというと、私たちの心には、自分に都合よく物事を解釈してしまう強力なフィルターが備わっています。
乱暴に言えばこのフィルターの働きが末那識です。
例えば「これは運命の恋だからいいんだ」「自分は愛は特別なケースなのだから問題ない」と判断するとき、実はその判断自体が、末那識によって都合よく編集された「自己正当化」の表れである可能性がある、ということ。
仏教では、これを「自分という枠」への執着だと見抜きます。
「自分は大丈夫」と思う瞬間こそ、実は一番「末那識」を疑ったほうがいい。
自分の心が、いかに自分を納得させるために世界を歪めて見せているか。
それを「末那識」に邪魔されず「冷徹に観察すること」こそが、唯識が教える人間観の真骨頂です。
まとめましょう。
唯識をひとことでまとめると、「感情や思考は、過去の蓄積が作り出した『結果』にすぎない。だから、その善悪を裁く前に、まずは構造を観察せよ」という教えです。
行動の善悪だけで一喜一憂するのではなく、「なぜ今、自分の心というシステムがこの感情を起動させたのか?」を眺める視点を持つこと。
今風に言えば「メタ認知」ですね。
それをしやすい心の持ちようが禅定であることは言うまでもありません。
そうやって自分を第三者の立場から「客観的に観察すること」ができれば、私たちは輪廻に翻弄されるだけの存在から、少しずつ、心という種を管理する主体へと変わっていける、ということを学んでいくということです。
これが、唯識を学ぶ一番の実用的な意義ではないかと、私は考えています。
さ て、読者の皆さんの中に、もし今、誰にも言えない葛藤を抱えている方がいるとしたら、その心は過去のどのような「種」を芽吹かせているのでしょうか。
一度、善悪を脇に置いて、自分の心の奥底を覗いてみてはどうでしょうか。

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