地道に密教修行

天台寺門宗の祈祷寺院にて密教の修行しております「亮和(りょうな)」と申します。修行、信仰を通じて感じたことなどを綴っていきます。※過去(本格的な修行前)に「地道に観音信仰」というブログを運営しておりました。どうぞ気楽にコメントいただけると嬉しいです!

妥協は駄目?!

「修繕」をしていた荼枳尼天さま。守護神をお願いしているご尊格故に自分にご縁のあるお姿と考えた。ならば、得度してすぐからずっとお唱えしていた「刀自女経」を忠実に再現することにした。


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元のお姿の面影は全く無い(↓元のお像)
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「ここまで」とは、全く想定していなかったのだが……作成していて、どうやらこのお方は「少しの妥協」も許してくれないらしい。

手を抜けは「やり直せ」とばかりに端から壊れていく。正直、かなり「しんどい」のである。

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ただ、あと一息だと思う?!ので……頑張ります。

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猫の添い寝

 日本には伝統的に、息を引き取ってから埋葬または火葬にするまでの間の夜、近親者が死者とともに過ごすという風習がある。通夜を「お伽(とぎ)」「夜伽」「添い寝」などといって相続人が死者と添い寝をする例があるのは、その風習によるという。

 

 妻は少しナーバスなところがあり、愛犬の「るびぃ」が亡くなって、荼毘に付すまでの2日間、「るびぃ」の亡骸を安置してる部屋に一人で入れなかった。

 その安置の部屋が私の寝室だったので、私は「添い寝」まではいかないものの割と近距離で二日間、熟睡していたのだが(笑)

 ただ妻は冒頭で紹介した「夜伽」の事が頭にあり、日中私が仕事でいない間、「るびぃ」を一人にしておくのはしのびないと思っていたらしい。

しかし……

「みいこが私の代わりに「るびぃ」と添い寝してくれていた」

と妻がいうのだ。

「みいこ」が我が家に来たときは「るびぃ」が先住犬で、「犬と猫の相性は大丈夫だろうか?」とずいぶんと心配もした。

 しかし、やさしい「るびぃ」は「みいこ」を難なくすぐに受け入れて以後とても仲良くしていた。

 猫は、テリトリー意識が強いので家の配置が換わるだけでストレスを感じるほどに「環境に敏感」と言われる。おそらく「犬」と「猫」の違いはあれそのテリトリーを上手く共有していたであろう「るびぃ」と「みいこ」。

 私たちが大きな「喪失感」を感じたように「みいこ」も、「るびぃ」がいつものようにいないことに気づいたのだろうと思う。

 だから、「るびぃ」を探し自分のテリトリーでない私の寝室に侵入し、「るびぃ」を見つけて動かない「るびぃ」の横で添い寝をした……

 妻は自分の代わりに添い寝をしてくれた、そんなみいこの姿を思い出して「みいちゃんありがとね」と涙を流していた。

 (ストーブの前でみいこと添い寝する元気だったころのるびぃ)

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無意識と神仏の声

「無意識のその先に神仏がいる」

ということをこのブログで何度か記事にした事がある。これは現代科学で証明云々なんていうことは土台無理な話だから個々人が「信じる」「信じない」の話になってくる。

 

「もちろん信じるっちゃ!(宮城弁)」という方は以下の話にもお付き合いください。

 無意識の先に神仏がいたとしても、問題なのは無意識から発せられた情報が「個人の無意識」のものなのか、その奥の集合無意識なのか、さらにその先にある神仏からのものなのか区別がつかないということ。

 だからきっと二種類の過ちに注意する必要がありそうだ。

①無意識の声を「神仏の声」と過大評価する

②神仏からの情報を「無意識の情報」と過小評価する

 スピリチャルに興味があるとどうしても①に陥りやすいように感じて、現に二言目には「○○さん(例えばお不動さん)がこういった」と易々と言ってしまう人が結構いる。

 逆に宗教に関心がない人は②のようなリアクションであることがほとんどでしょう。

 我々のような駆け出しの行者だと「神仏」への信仰があるが(もしくはあるからこそ)簡単に「神仏の声」が自分に聞こえるはずがないと慎重な態度になりやすいし、それでいいと思っている。

 ただ振り子も極端に振れると、つまり「全く神仏のメッセージは届かない」と思ってしまうとそれはそれで「違う」と思うのだ。せっかく神仏がメッセージをくれたのに「どうせ個人的な無意識の情報だ」と捨て置いたらそれこそメッセージをくれた神仏に失礼だ。

 だから行者という修行者の立場なら「その情報が神仏からのメッセージである可能性がある」という「検証」をいちいちしていく努力をするべきだと思う。「個人的な無意識の情報だ!神仏からのメッセージだ」という安易な決めつけをせず「どちらの可能性もある」として一旦受けとめて慎重な検証、判断をする。

 その繰り返しも重要な「修行」と私は思う。

 無意識を入り口とした情報がもっとも入ってくるタイミングは信者の方であれば「礼拝」「勤行」をしているときだろうし、我々であれば行の最中だと思う。その時は礼拝、行に集中しつつも注意深く「心に浮かんだこと」は心に留めておくことが重要だと思う。

 またほかのアプローチとして心理学者が紹介するワークも取り入れるのもいいと思う。個人的にはアーノルド・ミンデルのワークがお勧めです(ミンデルの著書に多く紹介されています)。

 先日、妻と新しくできたショッピングモールに出かけた時、妻は「一人でゆっくりウインドウショッピングしたいから」と時間を決めて私から離れた。

 私は特にやることもないので、休憩スペースに座ってミンデルのワークをやってみた。

 ベンチに座ると店の喧騒が自然と耳に入る。うとうとと覚醒レベルが下がると耳から入る喧騒に時々浮かび上がるお客さんの「声」に意識が向く。沢山のお客さんの会話の中で私の耳に留まった「言葉」の意味を考える。その言葉を捉えたのは偶然ではなく「無意識の意図(もしかすると神仏の意図)」の可能性があるからだ。

 ミンデルはその言葉から連想されるイメージに集中して、例えば体の不調部分とリンクさせたり、過去の記憶を想起させたりとそのイメージを膨らませて「その言葉」の裏にある「ストーリー」を引っ張り出す。

 そんなことをしていると耳に入ってくる「喧噪」の「ガヤガヤ」という雑音が雅楽のメロディーが重なってくるような錯覚を覚えた。

 現実的には雑音がたまたま「そう聞こえた」だけなのだと思うが、私が「メロディーだ」と思った時点で意味を持つ、と考える。

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 そして、さらにそのメロディーの背後にある「ストーリーを探る」……なんてことを繰り返す。

 すると「はっ」とした気づきがあり、何らかの問題解決のヒントという具体的な「成果」が降りてくることもあるし、何もないこともある。

 「行」や「礼拝」の時だけでなく、ちょっとした「隙間時間」こそ、案外こういった無意識の情報に触れやすいということもあるのでお勧めです。

ではまた。

 

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三鈷剣作成中

荼枳尼天のお経「刀自女経」にある一文、「右手把大刀」について、「三鈷剣」なのか「刀」なのか、記事を書きましたが↓
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修繕中のお像は当初の予定通り「三鈷剣」にしました。

あまりに小さいので石粉粘土での作成は難有りで、アルミ板から削り出しました。さすが鉄を鍛錬して作る根性はありませんでしたので(笑)

まだ剣側は三鈷になっていませんから「針金+パテ」で形にする予定。

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批判の裏に潜む「真の目的」は、エゴのマウンティング

 私が武道・格闘技に目がないのは何度も記事にしている通り、だから毎日お気に入りの格闘家のyoutubeはチェックしている。

 人気のYoutubeチャネルは格闘家とはいえ、みな「弁が立つ」人が多く、「講師」が職業の私からすると「格闘技」の話よりも「話のスキル」ばかりに意識が行ってしまうことがしばしば。

 そんな「話の旨い」格闘技Youtuberに「細川バレンタイン」という元ボクサーがいる。

 さて、その「細川バレンタイン」の動画をわざわざ「仏教ブログ」で紹介するのは、タイトルにあるとおり、仏教の話題で加熱しがちな「批判合戦」でもこの「罠」にハマるリスクが大いにあると思ったからだ。

以下動画、最初飛ばして9:00くらいからご覧になってみてください。

youtu.be


 動画は格闘技が好きな方は耳にしたと思うが、先日行われたRIZIN大阪大会での「バッティング問題」だ。バッティングとは簡単に言うと「頭突き」による反則行為のこと。

 これをいつもやってしまう有名選手がいるのだが、その日の大会は特にこれが問題になり多くの著名人を巻き込んだ「騒動」が巻き起こった。

 その「バッティング問題」に鋭い考察をしたのが上述の「細川バレンタイン」だ。

 

それは「結局だれもバッティングの話をしていない」「バッティングという話題を借りた自己主張をしているだけ」というもの。

 

 これ仏教を話題とした「論争」で「あるある」だと思いました。「それはほんとの仏教でない」「間違っている」としきりと絡んでいる人は「マウントがとりたい」だけで「その人のエゴを満足する」という無意識に気付ていないことのなんと多い事か。

 

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私もそうならないように十分注意したい(この記事もね:(笑))

 

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「逝って良かった」の真意

 ここ数回、愛犬「るびぃ」のネタばかりで恐縮だが、先日「妻」との話で少し思うことがあったので記しておきます。

 

 妻は,先だって旅立った「るびぃ」を「はやく逝けてよかったね」と表現した。

 

「良かった?」

 

 ペットの死を「良かった」と表現するのはとても違和感があるが、妻に言わせると二か月前に「最初の発作」で「るびぃ」はすでに「亡くなった」という。

 

「いやいや、二か月生きたでしょ?」

 

と突っ込みたくなるが、実は私にも思い当たる節がある。

 

 発作の後のるびぃは所謂「認知症状」になって「我を失った」のは紛れもない事実。その認知症状も改善に向かっていたのはこのブログでも触れたとおりだが、それでも「我を取り戻す」ことは全く見込みがないことは私も承知していた。

 

 飼い主にとって一番決定的なのが「もう私や妻のことを飼い主として認識できない」という部分。

 

 だから確かにるびぃは二か月生きていたが、「かつてのるびぃはもういない」という想いは二か月前にして痛い程感じていた。

 

もちろん「動物の本能」の部分のるびぃはまだまだ生きたかったに違いない。しかし、現実的に待っているのは不自由な老後だ。これから繰り返す発作、肉体的苦痛、精神的苦痛を強いられるのはおそらく避けようがなかった。

 

「だから、長年苦しむより早く逝ったほうが」という妻の意見は一理あるのは事実だ。もちろん妻にしても「悲しさ」を紛らわすために「良かったこと」にしたいという想いから出た言葉であって、本心で「良かった」と思っている訳ではない。

 

 二か月前、不動尊華水供養で最初の発作から持ち直したるびぃ。ただその後私の行は「本尊供」と「理趣分」になっていたので、るびぃの祈願は不動尊華水供養ではなく理趣分で行っていた。

 

 最後の夜、私がリビングに入ると「るびぃ」まさに発作の最中だった。私がリビング来る直前、「理趣分」でまさに「るびぃ」を祈っていた。

 師僧はよく「理趣分」を「早めの祈祷」いう話をされる。

konjichouin.hatenablog.com

 るびぃがこれに依るのか否かは私には判断しかねるが、妻の話を聞いてそんな可能性もあるのかと思った。

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雲に乗る黄狐

荼枳尼天さまの頭に乗せる「黄狐」
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仏画に見るお姿は、置物のように小さ過ぎて(頭に頂くので仕方ないが)遠目に見えないものが多い。だから頭の上だとどうしても小さくならざるを得ないので思い切って雲にのせて、お姿も大きくした。大きいと言っても女神さまの身体に対してリアルな狐のサイズ感だと思う。
るびぃの件で、数日バタバタしていたが仏像修繕(作成?)という日常がようやく戻ってきた……

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