准胝院

八王子の祈願と供養のお寺

愛猫守護の祈願に加えて、猫・犬のご供養もお受けします

猫・犬のご供養を承ります ~回向証の授与について~

先日より、愛猫守護の御幣の授与を受け付けておりますが、お問い合わせの中で「猫のご供養もお願いできないか」というお声をいただきました。

一緒に暮らした子を見送ったあとも、「ちゃんと送ってあげられただろうか」「今は安らかでいてくれるだろうか」と、心のどこかで気にかけ続けている方は少なくないと思います。そうしたお気持ちにお応えしたく、このたび、ご供養も合わせてお受けすることにいたしました。

祈願は「猫」ですが、供養に関しては「犬猫」どちらでもお受けいたします。

今回は、動物に特化して修法いたします。

祈願と回向は、修法を分けてお勤めします

今いる子の無事や健康を願う「祈願」と、亡くなった子の冥福を祈る「回向」とは、その目的が異なります。そのため、修法分けて行います。

先に告知いたしました通り、愛猫祈願は般若理趣分にてお勤めいたします。

ご供養に関しては、四悪趣(苦しみの多い四つの世界)を離れ、善きところへと赴かれることを願う、悪趣清浄曼荼羅の主尊「一切智大日如来」を本尊とする光明供を行います。

回向証を授与いたします

ご供養をお申し込みいただいた方には、回向をお勤めした証として「回向証」をお送りいたします。

 

 

「愛猫守護祈願」「動物供養」受付中

※祈願・供養は¥3,000にて承ります。

※10月末を目途に締め切ります

申し込みはこちらから↓

愛猫祈願・動物供養申し込みフォーム

白猫の青、シャムの青、檸檬の緑——三匹の瞳と仏教

 

縞三毛の檸檬、白猫のみいこ、シャムミックスのしゃみぃ。

 

 ご覧の通り、みいことしゃみぃは青い瞳、檸檬は緑の瞳。

この「青」と「緑」、実は仏教でもなかなか奥の深い色、という話をしたいと思います。

 お釈迦様の瞳は、お経の上では「青」ということをご存じでしょうか?

 仏さまの体の特徴をまとめた「三十二相(さんじゅうにそう)」に、「真青眼相(しんしょうげんそう)」という項目があります。瞳が深い紺青色をしている、という意味です。ちなみにすぐ隣には「まつ毛が牛のように長くてきれい」という項目もあります。瞳もまつ毛も美しい、というわけです。

 仏さまの眼は、「青蓮華」にもたとえらる、という話は多羅菩薩の記事の時にさんざんしましたね。

 つまり、みいことしゃみぃは仏さまとお揃いの瞳の色。ちょっとありがたい気持ちになりますね(笑)

 ちなみに「猫マニア」の知識を披露すると「しろねこ」と「シャム系」の瞳の色が青い理由には違いがあります。

 その話をすこし。

みいこの青——瞳に「青い絵の具」はない

 まず驚きの事実を一つ。猫の青い瞳には、青い色素は入っていません。

 瞳に色素(メラニン)がほとんど無いと、入ってきた光のうち青い光だけが散らばって、青く見える、という理屈で「青い」のが猫の瞳の青。これは空が青いのと同じ理屈です。

 では、なぜみいこの瞳には色素がないのか?

 真っ白な猫の多くは「優性白(W)」という遺伝子を持っています。これは毛を白く「塗る」遺伝子ではありません。色をつくる細胞(メラノサイト)が、お母さんのお腹の中で体のあちこちへ移動していくのを、邪魔してしまう遺伝子。

 細胞が届かなかった毛は白くなり、届かなかった瞳は青くなります。片目だけ届かなければ、あの神秘的な左右で色の違うオッドアイになります。

 つまりみいこの瞳は、色をつくる細胞が「いない」という状態が作り出した青。

 ちなみにこの細胞の仲間は耳の奥の働きにも関わっているので、青い瞳の白猫は耳が聞こえにくいことがある、とも言われています。割合は調査によって幅がありますが、少なくともうちのみいこはかなりの難聴(おそらくは全く聞こえない)。

しゃみぃの青——同じ青でも、理由が違う

 ところが、しゃみぃの青はみいことはまったく違う理由で青い。

シャム系の猫には、色をつくる細胞はちゃんとある。問題はその細胞の中で色をつくる酵素(チロシナーゼ)がシャムの場合、「暑いと働かない」体質になっている。

 だから、耳の先・鼻先・しっぽ・足先といった冷えやすいところだけ色がつきます。あの独特の模様(ポイント)は、いわば体の「温度地図」なんですね。シャムの子猫が生まれたときほぼ真っ白なのも、お母さんのお腹の中がどこも温かかったから。

 瞳は体の内側で温かい場所の最たる場所。しかし細胞はいても酵素が働かないので色がつかず、白猫の同様に青色に見える。

 つまりしゃみぃの青は、細胞はいるのに「働かない」青。

 ちなみにこの体質は、両親の両方から受け継いで初めて表に出ます。ミックスのしゃみぃにシャム由来の青い瞳があるということは、お父さん側にもお母さん側にもシャムの血が入っている、ということになります。

 結果は同じ「青」でも、そこに至る道すじはまったく別。

「無いのに見える青」は、縁起そのもの

 ここから仏教の話を。

 今、説明した通り、みいこの瞳にもしゃみぃの瞳にも、もともと「青いもの」はどこにもありません。それなのに、私たちにははっきり青が見えている。

 その青は、瞳の細かなつくりと、差し込む光と、それを見る私たちの目。この三つがそろって初めて現れる色です。暗い部屋では消えてしまうし、光の当たり方で表情も変わります。

 よく勉強してる人なら「ああ、まさに無自性=空だ」なんていうでしょう(笑)仏教でいう「自性がない(無自性)」とは、どんなものも、それだけでは存在する実体を持っていないと説明されます。でも猫の瞳の話をするなら、先に書いた通り「その青は、その青は、瞳の細かなつくりと、差し込む光と、それを見る私たちの目。という「青に見せてる原因」を仏教では「縁起(えんぎ)」なんていったりします。

 みいこの青は細胞が「届かなかった」ことから、しゃみぃの青は「働かなかった」ことから。どちらも何かが「実体は無い」ことから生まれた美しさです。そして同じ青でも縁起はそれぞれ違うというものまたよく「空」を説明していますね。

檸檬の緑——青に黄が重なった色

さて、「あたいを仲間外れにしないで!」とそろそろ聞こえてきそうなので!?(笑)緑の瞳の檸檬にも登場してもらいましょう。

色素がない「青」ではなく、本来の猫の「色素がある」猫の瞳は、基本的に色素の量で決まります。色素が少なければ緑っぽく、多くなるにつれて黄色、オレンジ、銅色になる。檸檬はご覧の通り奇麗な緑。

 じゃあ緑の瞳には緑の色素があるのかというと、これも違います。控えめな色素がつくる「黄み」と、構造色の「青」が重なって、緑に見えているだけです。絵の具の青と黄を混ぜると緑になるのと似ていますね。

 つまり檸檬の緑は、青に黄が「和合」した色。このことが、次の仏教の話につながります。

青と緑は、仏教では同じ「青」?

 日本語では、緑のものを平気で「青」と呼びますよね。青葉、青りんご、青信号。古い日本語の色の名前は「赤・黒・白・青」が中心で、「青」は青から緑までをまるごと指していました。

 実は仏教も同じです。お経の「青」は、主にサンスクリット語の「ニーラ(nīla)」の訳。この言葉自体が、紺や青黒い色から深い緑あたりまでを含む幅の広い色名です。先ほどのお釈迦さまの真青眼相の「青」も、青蓮華の「青」も、このニーラです。もともと「青か緑か」をきっちり分ける発想の言葉ではないんですね。

 さらに面白いのが、「正色(しょうじき)」と「間色(かんじき)」という考え方です。仏教の衣の決まりや中国の五色の考え方では、「青・黄・赤・白・黒」の五つを基本の「正色」、その間にできる色を「間色」と呼びます。そして緑は、青と黄の間にできる間色とされてきました。

 これ、さっきの檸檬の瞳とまったく同じですよね。緑の瞳は「構造色の青+色素の黄」でした。科学で見ても仏教の色の考え方で見ても、緑は「青の一族」なんです。

 だから古い日本語でも仏教の色でも、みいこもしゃみぃも檸檬も、三匹そろって「青い瞳」と言っていいわけです。

とはいえ密教では、青と緑にそれぞれの役割がある

 一方で、青と緑をはっきり描き分ける伝統もあります。密教です。

 例えば密教には「五仏」という五人の仏さまがいて、それぞれに色が割り当てられています。

この中で……

青の仏さまは、東の阿閦如来。

緑の仏さまは、北の不空成就如来。ただしこの仏さまを緑とするのはチベット系の配色で、日本では黒や雑色とされることが多い。

 また、緑といえば、もちろん当院にもいらっしゃる緑多羅菩薩(グリーンターラー)。ちなみにこの「緑」はニーラではなく、「シュヤーマ(śyāma)」という別の言葉になるのは少々興味深い。つまり多羅菩薩は瞳はニーラの青、身体はシュヤーマという緑と明確に区別された色であるということ。

 「おっと!だとすると、当院の多羅菩薩は瞳はみいことしゃみぃ。体色は檸檬の緑ということ!(笑)」

結び——三匹の瞳をのぞきこむと

 同じ青い瞳でも、みいことしゃみぃではそこに至る道すじが違う。緑の瞳の檸檬も、小さい頃は青い瞳だった。そして仏教の色で言えば、三匹とも「青」の仲間。

見た目が同じでも因縁はそれぞれ。因縁が違っても、それぞれに尊い。

あなたのお家の猫さんは、何色の瞳をしていますか?

 

「愛猫守護」祈願受付中

※祈願は¥3,000にて承ります。

※10月中旬を目途に締め切ります

申し込みはこちらから↓

愛猫祈願申し込みフォーム

「亮」という一字

Xの記事で、ある石碑の紹介があった。平泉・中尊寺の参道入口にあるという。

 中央には「南無地藏大菩(薩)」。右には「念佛講」とあり、この地の念仏講の人々が建てたものだと分かる。石は宮城県石巻の井内石(稲井石)。年号は見当たらず、いつ建てられたのかは分からない。

 ちなみに井内石は「仙台石」とも呼ばれ、黒っぽく大きな材が取れるので、昔から石碑や墓碑、板碑によく使われてきた石だ。中世から使われていて、仙台藩主・伊達忠宗の墓室の蓋石には、中世の井内石の板碑が再利用されていたというから驚く。つまり「井内石だから新しい」とは言えず、石材だけでは年代は絞れない。

 その左側に、三つの文字が刻まれていた。

亮覺妙

 地蔵菩薩の「薩」の字が地面に隠れているので、「妙」の字の下にもまだ文字が続いている可能性もある。

 私がこの記事に注目したのは言うまでもない。最初の一字が、私の法名「亮和」と同じ「亮」だったから。

 私の「亮」は、俗名に含まれる「亮」の字をそのまま残しただけ。先祖代々この字を使っているようなこともなく、単に両親が名付けたという以外に意味はない。

 ただ、これも何かのご縁と思い、例によってがっつり調べてみることにした。すると想像以上に「亮」の字が「天台」に所縁があることを知るに至り、少々身が引き締まった。

 まずは、石碑にあるこの「亮覺妙」が誰なのか? 

 碑の配置から、開眼供養に携わった僧の名ではないか?と考えているが、まだ確実な史料では確かめられていない。(ちなみに京都・東寺の記録には、元禄から宝永にかけて「亮覺」という僧が何度も出てくる。権少僧都から法印権大僧都まで昇進していく同じ人物のようだが、平泉の碑と結びつける根拠は今のところ何もない。同名の方、ということで一応メモしておく)

では、「亮」の字の探求の旅へ。

茨城・千妙寺の「亮」の僧たち

 まず目に留まったのが、天台寺院の中で、「亮」が師から弟子へ受け継がれる字として、実際に何代も続いた例であった、ということ。

 それが、茨城県筑西市黒子の東睿山金剛寿院千妙寺。寺伝では承和元年(834)、慈覚大師円仁が筑波山麓に開いた「承和寺」が始まりで、貞観元年(859)に「大恩寺」と改め、平将門の乱で焼失したとも伝わる。史料の上で歩みがはっきりしてくるのは南北朝期からで、観応2年(1351)に亮守という僧が黒子の地に中興したとされる。崇光天皇の勅願所になったとも伝わる。

 でも茨城県の田舎の寺でしょ? いやいや、さにあらず!亮守は台密の三昧流をこの寺に伝え、千妙寺はやがて伝法灌頂の道場として、関東から奥羽にかけての天台の中心寺院の一つとなる。盛時には末寺・門徒寺が七か国六百余か寺(資料によっては七百以上)に及び、戦国期には古河公方家の祈願寺のような位置にあった。寺号については、亮守が千部の『妙法蓮華経』を石に書写して埋めたことが由来だという伝承もある。

 千妙寺に伝わる記録には、「亮」の字を持つ僧の名が繰り返し現れる。延文5年(1360)には、千妙寺で亮澄の教えを亮海が書き留めた「亮澄之言、亮海筆受」という記録が『三昧流由来事書』にあり、『十八道見聞』の奥書にも「先師亮澄法印」の名が見える。単に名前が並んでいるのではなく、亮澄から亮海へという、実際の師弟の法の受け渡しの中で「亮」が続いているのだ。

2026年に発表された研究では、『千妙寺列祖伝』をもとに中世後期の歴代住持が整理されている。それによると第8世以降は、亮尊、亮章、亮珍、亮舜、亮貫、亮春、亮信、亮憲、亮謙と、少なくとも第16世まで「亮」が途切れずに連なっている。

 この方々は、名前に字が並んでいるというだけの存在ではない。

 天文22年(1553)には、千妙寺第10世の亮珍から、青蓮院・曼殊院系の覚恕が三昧流の灌頂を受けたとされる。比叡山側の三昧流が途絶えかけたとき、亮珍が上洛して法を伝えたという説明もある。

 さらに元亀2年(1571)、織田信長の比叡山焼き討ちで、三昧流は再び断絶の危機に見舞われる。天正12年(1584)、第14世の亮信が上洛し、青蓮院の尊朝法親王のもとで法流を伝えた。同じ年、亮信は横川の諸堂の復興にも関わり、千妙寺へ戻る際には尊朝のもとへ暇乞いに訪れている。東国で守られた法が、再び中央へ還っていったのである。

歴代住持の経歴は以下の通り

  • 第8世亮尊:常陸国友部の出身。月山寺で学び、宇都宮で真言宗と宗論、柏原の成善提院、比叡山を経て千妙寺へ。
  • 第9世亮章:常陸国滑田の出身。宗光寺で学び、千妙寺へ。
  • 第10世亮珍:常陸国小田の出身。
  • 第11世亮舜:上野国の出身。真光寺を経て千妙寺へ。
  • 第12世亮貫:下野国宇都宮の粉河寺から千妙寺へ。
  • 第13世亮春:下野国の出身。粉河寺を経て千妙寺へ。世良田の長楽寺真言院も兼ねた。
  • 第14世亮信:播磨国の出身。善楽寺、葛川明王院を経て千妙寺へ、さらに比叡山へ。
  • 第16世亮謙:上野国黒川の出身。善昌寺、宗光寺で学び、龍蔵寺を経て千妙寺へ。

 各地の学問寺や本山を行き来しながら、千妙寺に入っていたことが分かる。(同じ研究では、千妙寺そのものを恒常的な「談義所」と呼ぶことには慎重な見方も示されている。住持の多くが東国の談義所を歴任していたのは確かだが、千妙寺での学問の盛衰は住持個人の力量によるところもあった、ということらしい)

 そして慶長5年(1600)には、天海の弟子の亮甚が千妙寺に入寺したとされる。南北朝期から近世初頭まで、千妙寺の「亮」は途切れずに続いていたことになる。

園城寺へ続いていた線

 千妙寺の「亮」をたどっていくと、なんと園城寺に。

 千妙寺第15世の亮憲が、園城寺(三井寺)と深く関わった僧だった、ということ。生没年は1539年から1617年とする資料があり、戦国から江戸初期の人だ。資料によっては天台寺門宗の僧と明記され、園城寺日光院の住職を務め、南院・中院・北院の三院の首座にまでなったと伝わる。園城寺の中世天台教学を扱った2024年の研究でも、亮憲の名がキーワードとして挙がっている。一時的に立ち寄っただけの僧ではなく、寺門の側で相応の位置を占めた学僧である。

もっとも、亮憲の歩いた順番については資料によって食い違いがある。

  • 『千妙寺列祖伝』をもとにした2026年の研究では、「(出身不詳)→千妙寺→園城寺」と整理されている。
  • 別の人物資料では、肥前有馬の金蔵寺から比叡山で天台教学を学び、園城寺に入って慶長6年(1601)に長吏道澄のもとで灌頂を受け、三院首座を務めた後、東国へ下って千妙寺第15世になった、とされている。

どちらが正しいのかは、もう少し史料を詰めないと分からない。ただ、千妙寺と園城寺の両方に深く関わったという点では共通している。

 著作も残している。『胎蔵界曼荼羅尊位現図鈔私』『金剛界曼荼羅尊位現図抄私』という、曼荼羅の尊位を論じたもの(言わずもがな曼荼羅、尊格は個人的にもとても興味ある)などが亮憲の名で挙げられている。密教と天台教学の両方に通じた人だったことがうかがえる。

「亮」の字は、山門側の東国天台だけで閉じていたわけではなく、寺門の側にも実例があった。

仙台・仙岳院から中尊寺へ

 さて、もう一本の線がある。それが仙台だ。

 古い読者の方は覚えているだろうか? 私の前のブログで、あるお寺の宝物館(瑠璃殿)に、本来表に出ない珍しい尊格(五大明王、孔雀明王、密教系の荼枳尼天像、烏枢沙摩明王、八臂弁才天、他)が多く祀られていて驚いた、という記事を書いたことを。当時、ご住職に伺ったところ「先代が収集したもの」とのお話だった。

 そのお寺が、天台宗の仙岳院である。

(↓仙台三十三観音霊場の一つでもあり、三十三観音巡りでも再参拝していた)

 仙台には東照宮がある。承応3年(1654)に仙台藩二代藩主・伊達忠宗が建てた神社だ。その別当寺として建てられたのが、この仙岳院。神仏分離までは、東照宮と仙岳院は神社と別当寺として一体の宗教空間だった。

 なんと延宝8年(1680)、仙岳院三世の亮栄が中尊寺の別当を兼ねることになった、というところから、話は先の石碑に繋がっていく。仙岳院側の由緒にも「仙岳院三世亮栄師の記録」として名前が残っている人物だ。

 これ以降、明治に至るまで、なんと仙岳院の住職が代々中尊寺の別当を務めている。別当は中尊寺に常住せず、弟子などを「別当代」として平泉に送り、寺務を任せた。

 その別当代の顔ぶれを見ると……亮智(宝永7年・1710年に在職)、亮厳、亮賀(明和3年・1766年)、亮諶(明和7年・1770年)、亮専(天明5年・1785年)、亮観(嘉永2年・1849年)と、ここにも「亮」の字が何人も並んでいる。

 仙岳院にはほかにも、(これも昔のブログ記事にしたが)仙台三十三観音の一尊である小萩観音を迎えた十五世亮湛の名が伝わっている。小萩観音が民家の持ち物になっていたのを惜しんで、買い取って仙岳院に祀ったという。

 江戸時代の中尊寺は、仙台の「亮」の僧たちによって支えられていた、と言ってもよいのかもしれない。

参道入口の地蔵碑に刻まれた「亮覺妙」が、この流れの中にいた人なのかどうかは、まだ分からない。別当代の一覧にその名は見当たらないので、中尊寺の一山寺院の僧だった可能性もある。

私自身の足取りとの重なり

 調べ終えてから、一つ気づいたことがある。というか、うすうす気づいた方もいるだろうか?

 私は医療機器メーカーの営業として、かつて茨城県つくば市、宮城県仙台市、岩手県盛岡市と転勤してきた。もちろん会社の人事で決まったもので、自分で選んだ土地ではない。

 この三か所がいずれも上の話に登場する土地だということ。

 茨城では、営業車で県内のあちこちを走り回っていた。千妙寺のある筑西方面も担当地域に入っていた。当時、千妙寺に何百年も「亮」の僧が続いていたことなど、むろん知る由もない。

 仙台では泉区北中山に住んでいた。そして(どういうわけか)、仙台に赴任して早々に、最初のご祈祷を仙台東照宮で受け、仙岳院にもお参りしている。東照宮は当時の私の住まいから割と離れていて、立地的にわざわざ行く距離ではない。仙台なら、有名な大崎八幡宮などに行くのが普通だろう。もちろん、仙岳院と中尊寺の関係も、三世亮栄の名も、当時は知らない。

 また盛岡時代は一関市の担当で、一関からすぐの平泉・中尊寺には、仕事の合間によく立ち寄っていた(←仕事をさぼっていた訳ではない!?)。一度や二度ではなく、何度も。参道入口のあの地蔵碑の前も、きっと何度も通り過ぎていたはずだ。でも、その三文字に気づいたことはなかった。

 こうして並べてみると、千妙寺の法流が関東から奥羽へ広がっていった方向と、私の転勤が茨城から仙台、盛岡へと北上していった方向が、ピタリと重なっている。

 私は「亮」を探して歩いてきたわけではない。振り返ってみたら、歩いてきた道の上に「亮」があった、という感じだ。

 もう一つ、書いておきたいことがある。

 私には妻の蓮奈を除いて二人の弟子がいる。そして二人とも、法名に「亮」の字を持っている。

※ちなみにその弟子の一人の法名がここに登場する過去の僧侶にある

 実はこれは私が「亮を一門の字にしよう」と考えて始めたことではない。私の師僧から、「あなたの『亮』を弟子に継がせなさい」と勧められたのである。

 師僧は、いわゆる霊的な感覚にも優れた方。私はその言葉に従った。

 もともとは俗名から残しただけの一字だった。それが今では、結果として本当に師から弟子へ受け継がれる字になっている。

 師僧がなぜあのとき「亮」を継がせるよう勧めたのか?当時の私は深く考えなかった。今になって、その言葉が少し違った重さを持って思い出される。

 参道入口の「亮覺妙」が誰だったのかは、まだ分かっていない。中尊寺山内の僧なのか、仙岳院から派遣された別当代の周辺にいた人なのか、地域の念仏講を導いた僧なのか。地蔵信仰との関わりも含めて、可能性はいくつか考えられる。

 今回調べてみて、何百年も前に同じ字を名に持ち、学問と修行を重ね、ときには途絶えかけた法を守って中央へ伝え直した僧たちがいたことを知った。私の「亮」は、両親が付けてくれた名前から残しただけの一字に過ぎない。それでも、そういう先人たちがいたと知ってしまった以上、「亮和」と書くたびに、少しだけ身が引き締まる。

 名に恥じない一日を重ねていきたい。

 

「愛猫守護」祈願受付中

※祈願は¥3,000にて承ります。

※10月中旬を目途に締め切ります

申し込みはこちらから↓

愛猫祈願申し込みフォーム

少しだけ不思議な猫の話

今日は、ちょっとだけ不思議な猫の話をしようと思う。

昨日の記事で紹介した、猫祈願で授与する「猫御幣」について。

猫好きのお寺が、猫のために作ったもの(猫の祈願いたします) - 准胝院

さて、気づいた方はいるだろうか?

この御幣の猫にはモデルいます。

ここの読者の方ならわかるかも!?

答えは……

 写真の通り長女の檸檬です。

 檸檬は我が家の三姉妹の中でも一番人気。確かに美形だね(親ばか)。
なにせ以前、プロのイラストレーターさんから「檸檬ちゃんをモデルに絵を描きたい。それを個展に出展したい」と言われたほど。
つまり檸檬は、何気に「猫モデル」の経験者なのだ(笑)。

イラストレーターさんの作品↓

さて、不思議な話はここから。

ここの読者ならご存じの通り、檸檬は我が家で一番のビビりで、なかなか人間に寄ってこない。

ryona.hatenadiary.jp

その檸檬が、御幣を作ってからというもの、なんだか距離感がおかしい。

いつもの檸檬なら、飼い主の私が部屋に入っても一瞬緊張して、逃げるそぶりを見せる。
それが今日は、私が部屋に入ると「にゃあ」と鳴いてすり寄ってきた。座れば、気づくと近くに来て隣に座っている。

「おまえ、キャラ変わった?」と思わずつぶやく私。

この変化には妻の蓮奈も気づいた。
蓮奈は自分の都合で猫を抱っこしたり、背中を強引に撫でたりと、猫に嫌われがちなことをしてしまうので、檸檬とは特に相性が悪い。これまでは決して近寄らなかったのに、その蓮奈にまですり寄っていた。
これにはさすがに「え!?」となった。

「檸檬、御幣に描かれてから何かと繋がった?」

そんなふうに感じてしまった。
もしかしたら、神様のモデルになれて嬉しかったのかも!?(笑)


「愛猫守護」祈願受付中

※祈願は¥3,000にて承ります。

※10月中旬を目途に締め切ります

申し込みはこちらから↓

愛猫祈願申し込みフォーム

猫好きのお寺が、猫のために作ったもの(猫の祈願いたします)

 先日アップした「猫の信仰」の記事、たくさんの方に読んでいただきありがとうございました。

ryona.hatenadiary.jp

 書きながら改めて感じたのは、猫って昔から本当に愛され大切に拝まれてきたんだな、ということ。鼠から蚕を守る神さまとして祀られたり、猫神社ができたり。今では、猫の健康を願ってお参りできる神社やお寺も各地にあります。

 また、近々でペットの守護というと、秩父の三峯神社や青梅の武蔵御嶽神社の「お犬様」が有名です。でも、猫の守護はあまり聞かないなあ……と。

 当院にも読者の方からも愛されてる三匹の猫がいます。猫好きの方から愛猫のご祈祷やご供養を頼まれることもよくあります。

 ということでこの度は「愛猫守護」の祈願を「般若理趣分」にて厳修致します。

「なぜ般若理趣分?」ということについては、わずかばかりの経験則からも動物への理趣分の「効き」が絶大と感じているからです。

ryona.hatenadiary.jp

 

祈願お申し込みの方には「愛猫守護」の「猫御幣」を授与いたします。

※祈願は¥3,000にて承ります。

※10月中旬を目途に締め切ります

申し込みはこちらから↓

愛猫祈願申し込みフォーム

 

 

御影の尊さは、拝まれてきた日々に宿る

 当院で授与している荼枳尼天様の御影は、これまでに本当に多くの信者様のもとへお迎えいただいております。

 写真の御影は最新のものですが、最初期は白画でした。そのため、いち早くお迎えくださった方の御影と、最近お迎えくださった方の御影とでは、見た目がずいぶん違っています。もしかすると「自分のところの御影は昔のものだから…」と感じておられる方もいらっしゃるかもしれません。今日はそのことについて、少しコメントしておきたいと思います。

 仏画は、どれほど美しく描けたとしても、儀軌から外れればただの仏風の絵画です。もっと言えば、たとえ儀軌に沿った画であっても、そのままではどこまでいっても「絵」であって、それ以上の存在ではない。
 画が仏となるのは、開眼供養を修してはじめて礼拝の対象となるわけです。

当院の荼枳尼天様の御影は、白画のころのものも、彩色を重ねた今のものも、すべて同じように開眼供養を修して授与させていただいております。お姿の描き方が変わっても、そこにおられるのは同じ荼枳尼天様です。最初期の御影だから御利益が劣る、などということはむろんあろうはずがない。

 もうひとつお伝えしたいことがあります。

 それは、こちらでいくら開眼供養を厳修するかとは別に授与した信者様がその御影をどう拝んでこられたか、ということです。仏様の尊さは、どれだけ拝まれてきたかによって深まっていく。私はそう思っています。

 お寺に伝わる古い仏像や仏画が尊ばれるのは、単に文化財としての価値からではないと思うのです。何百年ものあいだ、数えきれない人々が手を合わせ、願いを託し、感謝を捧げてきた。その祈りの積み重ねこそが、仏様をより尊いものにしている。そう思うわけです。

 ご自宅の御影も同じです。毎朝手を合わせ、お水やお供えを欠かさず、困ったときには頼り、うれしいことがあればご報告する。そうして日々拝まれてきた御影には、信者様ご自身の祈りが重なっています。それは、どれほど新しく美しく描かれた御影にもない、その方だけの尊さです。

 最初期にお迎えくださった方の御影は、それだけ長く拝まれてきた御影でもあります。どうかこれからも変わらず、大切にお祀りください。荼枳尼天様は、その祈りにきちんと応えてくださっています。

 これから新たにお迎えくださる方も、お迎えした日からが御縁のはじまりです。毎日のお参りを通して、ご自身だけの御影に育てていっていただければと願っております。

 

荼枳尼天香合仏、再受付中

荼枳尼天香合仏 予約フォーム

祈願のお申込みについて

 本院で承っている祈願につきまして、以下解説ページから。

本尊准胝仏母祈願

当院のご本尊である准胝仏母さまの祈願です。滅罪、延命、求子に強いご尊格です。

先祖供養・家族の敬愛祈願

光明真言にによる供養(光明供)にて、ご先祖供養を致します。光明真言には強い滅罪の功徳がございます。

 荼枳尼天尊祈願

荼枳尼天とはお稲荷さまの仏教でも呼び名です。

日本における猫の信仰——畏怖と守護の民俗誌

 当院には三匹の愛猫がいるのはご承知の通り。だからか、猫好きの方から、愛猫の当病平癒や亡くなった故猫のご供養を頼まれることも多くある。

そんな私の個人的な『猫好き』が高じて、『猫信仰』についてはかねてより少しずつ調べていた。それが少し形になったので記事にしてみたい。といいつつも自身で調べた内容なので、不十分な点は多くあろうかと思う。専門家の方のご意見など頂けると嬉しく思います。

さて日本の猫の信仰。その面白さは、「恐れられる猫」と「祀られる猫」が同じ一匹の中に同居しているところにある。たとえば人を喰らう猫又として語られた猫が、同じ土地で鼠を退ける神として札に刷られ、養蚕農家の神棚に貼られてきた。今回はこの畏怖と守護の往還を軸に、猫をめぐる信仰をなるべく全方位的に整理してみたい。

対象とする「信仰」の範囲

猫の信仰とは、猫そのもの、あるいは猫の姿や名を借りた存在に対して、祈願・畏怖・供養・呪術的な期待が向けられる営みの全体を指す。神社に祀られる猫神、鼠除けの護符、猫又や化け猫の伝承、猫塚や猫供養、葬送の禁忌、招き猫までを、いちおう射程に含めてみる。

四つの史料

猫の信仰は、性格の異なる四種類の史料によって伝わっている。それぞれに得意なことと限界がある。

まず「文献」。日記や随筆、地誌、民俗誌などで、年代や呼び名の移り変わりを追えるのが強みだが、書き手の関心に偏りやすい。

次に「護符・摺物」。猫札や猫絵、掛軸などで、信仰が実際にどんな形をとり、どう流通したかが分かる。ただ、授与元が分からないものが多い。

三つ目は「石造物」。猫碑や猫石、祠などで、所在地や建立年がはっきりする一方、背景にあった語りは失われやすい。

そして「口承」。伝説や昔話、俗信で、地域の語りの厚みを伝えてくれるが、採集された時期より前にはなかなか遡れない。

この記事では一つの史料だけで結論を出さず、これらを突き合わせて、多角的に捉える方法を採用しました。たとえば、猫信仰では定番の会津・猫魔ヶ岳の伝承では、江戸後期の地誌には「猫又」しか現れないが、昭和後期の民俗誌で「猫王」の名が確認されたりする。こうした史料間の食い違いにも、フォーカスしていきたい。

第1章 猫の渡来と古記録

猫は、日本の信仰史にまず「鼠を捕る益獣」として登場し、ほどなく「人ならぬものの気配をまとう獣」としても記録され始める。信仰の土台となるこの二面性は、古代から中世の記録にすでに出揃っているように思う。

経典守護の通説と考古学

猫の渡来については、仏教伝来の際、船に積んだ経典を鼠から守るために猫が同乗した、という説明が広く流布している。この説に基づいて、渡来は6世紀頃と考えられてきた。ただ、この通説を直接裏づける同時代の記録は乏しく、後世の説明である可能性も含めて読んでおく必要がありそうだ。

一方、考古学からは別の年代が示されている。長崎県壱岐市のカラカミ遺跡で出土したネコ科動物の骨は、イエネコの可能性がある国内最古の例とされ、脛骨1点の放射性炭素年代は2138±24年前と測定された。もっとも、この骨がイエネコであるという判断は状況証拠によるもので、DNA鑑定などの決定的な証拠はなく、異論も出ている。

渡来の時期はこのように確定してはいないが、ここではこれを深追いしてもあまり意味がないように思う。重要なのは信仰史の観点から見て、猫が「経典を鼠から守る獣」として語られてきたこと自体。仏法と鼠除けを結ぶこの語りは、のちの弘法大師真跡と称する鼠除け猫札や、寺社が授与する猫の護符へと、形を変えて受け継がれていく。

『日本霊異記』——生まれ変わる猫

9世紀初めに成立した仏教説話集『日本霊異記』には、「狸」と書いて「ねこ」と読ませる獣が登場する話がある。亡き父が猫に生まれ変わって息子の家を訪れる、という因果応報の説話だ。最初期の文献から、猫がすでに死者の魂や輪廻と結びついて語られているというのは、のちの葬送の俗信(第7章)を考えるうえでも見逃せないところ。

『寛平御記』——最古の飼い猫の記録

宇多天皇の日記『寛平御記』の寛平元年(889)の条は、日本最古の飼い猫の記録として知られる。大宰府の次官・源精が任期を終えて都に戻り、光孝天皇に献上した黒猫を、宇多天皇が譲り受けて5年育てていると記されている。天皇は、他の猫がみな浅黒いのに、この猫だけは墨のように黒いと毛色を称え、毎朝乳粥を与えていたという。原文には、この猫が夜の鼠を他の猫より素早く捕らえたことも書き留められている。なんとも微笑ましい愛猫自慢である。

なお『寛平御記』自体は現存せず、この猫の条は室町時代の『源氏物語』注釈書『河海抄』などに引用されて伝わった。ここに記されているのは、信仰ではなく愛玩と実用である。しかし「類い稀な黒猫」への特別視は、のちに黒猫が魔除けや福猫として扱われる素地の一つといえるのかもしれない。

宮廷の猫から、山の怪物へ

平安時代の宮廷では、猫は貴重な舶来の愛玩動物だった。『枕草子』には、一条天皇が猫に五位の位を与え「命婦のおとど」と呼んで寵愛した話があり、『源氏物語』若菜の巻では、唐猫が物語の転機を引き起こす。

ところが鎌倉時代に入ると、猫はまったく別の顔で記録に現れる。藤原定家の日記『明月記』の天福元年(1233)の条には、奈良で「猫胯」という獣が一夜に数人を喰い殺したという噂が記されている。これが猫又の確実な最古の記録とされる。さらに14世紀の『徒然草』第89段は、奥山に人を喰う猫又がいるという噂と、山でなくても年を経た飼い猫が猫又になるという俗説を並べて紹介している。

この二つの記録によって、猫又は「山に棲む大型の怪獣」と「年を経て化ける家猫」という二つの系統を持つことになった。前者は猫山伝承と「猫の王」へ、後者は江戸の化け猫譚へとつながっていく。

小結

古代から中世にかけて、猫は「鼠を捕る益獣」「輪廻する魂の器」「愛玩される舶来の獣」「山に棲む人喰いの怪物」という、互いに矛盾するいくつもの顔を持つようになった。日本の猫の信仰は、この矛盾をそのまま抱え込み、恐れる対象を祀って守り神に転じるという形で展開していく。

参考:アニコム損保「猫との暮らし大百科」ネコの歴史を紐解く後編 日本への移入と広がり/子猫のへや「カラカミ遺跡の骨は本当に日本最古のイエネコか?」/ねこジャーナル「猫の日本史:日本最古の飼い猫記録、宇多天皇の『うちの御ねこ』」/サライ.jp「猫好き・宇多天皇が『愛猫日記』に記した、平安時代の猫ごはん『乳粥』の正体とは?」

第2章 鼠除けの猫と養蚕信仰

日本の猫の信仰のうち、最も広い地域で、最も多くの人々に共有されたのは、やはり養蚕の鼠除けとしての猫。猫絵、猫札、猫碑、猫石と形はさまざまだが、いずれも「蚕を鼠から守る」という一点に向けられていた。

鼠は養蚕農家の大敵だった

鼠は、蚕そのものや、繭の中の蛹を食い荒らす。養蚕が農家の大切な現金収入だった江戸後期から昭和初期にかけて、鼠害は暮らしを直撃する問題だった。天敵である猫は、実際に飼われる働き手であると同時に、その姿や名を借りた呪具として、神棚や蚕室に祀られていく。

ちなみに鼠除けの呪いは猫に限らない。正月最初の子(ね)の日に玉箒で蚕室を掃く風習は、子の日に鼠を払う呪いで、こうした鼠除けの文化が猫神へとつながったという指摘もある。

新田猫絵——殿様が描く護符

猫絵の中で最も名高いのが、上州新田郡の領主・岩松氏(新田氏の末裔)が描いた「新田猫」。江戸時代、窮乏する家計を補うため、岩松家の当主は領民向けに養蚕守護の猫絵を描いて頒布した。温純(1738〜1798)、徳純(1777〜1825)、道純(1798〜1854)、俊純(1829〜1894)の4代にわたって描かれ、傍流の脇屋・由良氏の手になる猫絵も残っている。

面白いのは、新田猫の霊験が、猫そのものより「新田の殿様が描いた」ことに宿っていた点だ。そのため、その名にあやかって、民間の絵師や版元が「新田」の落款を入れた木版摺りの猫絵を刷り、流通させた。こうして新田猫は、肉筆の一点物から多数刷られる摺物へと裾野を広げ、養蚕地帯一円に行き渡っていく。

猫碑——石に刻まれた猫神

東北南部を中心に、猫の姿や「猫神」の文字を刻んだ石碑が各地に残る。確認されている猫碑は全国で約160基、そのうち83基が宮城県丸森町にあり、同町だけで全国の半数以上を占めるという。丸森町はかつて2000戸を超える養蚕農家を抱え、花崗岩の産地で石工も多かったことが、猫碑の多さの背景と考えられている。

猫碑の年代は、古いもので文化7年(1810)にさかのぼり、幕末から昭和初期まで、養蚕が盛んだった時期と重なる。ただ、建立の目的がすべて鼠除けというわけではない。飼い猫の供養、長寿祈願、祟り封じの意味を持つ碑もあり、丸森町でも猫碑が多い理由ははっきりしていないそうだ。宮城県村田町に残る昭和10年(1935)の猫神の石碑も、鼠除け祈願か猫の供養碑と推定されている。鼠除けと供養の境界が曖昧なところは、猫碑という史料の特徴そのものといえそうだ。

護符の授与と養蚕の暦

現在も猫の護符を授与している神社は、東日本に数えるほどしか残っていない。注目したいのは、その授与の時期である。

埼玉県小川町の笠山神社は5月3日の祭礼(山頂の本宮)、埼玉県皆野町の大日神社は5月5日の祭礼、山梨県西桂町の山祇神社は5月上旬の祭礼、新潟県長岡市の南部神社(猫又権現)は5月8日の祭礼で授与している。新潟県南魚沼市の八海山尊神社だけは、社務所で通年授与されている。

多くが5月上旬の祭礼に集中している。これはちょうど春蚕の掃き立て(孵化した蚕を飼い始める作業)の直前にあたる。猫札は、養蚕の暦に合わせて、その年の蚕を守るために受けるものだったということだ。

また、授与する神社の多くが山の霊場であることも見逃せない。笠山、八海山など、山岳信仰や修験と結びついた場から猫札が出されていた。

小結

養蚕の鼠除けは、猫の信仰を一部の土地の伝説から、東日本の農村全体に広がる生活の信仰へと押し広げた。殿様の猫絵、民間の摺物、神社の札、石工の猫碑と、担い手も形もさまざまだが、根にあるのは「猫の力で鼠を退ける」という同じ願いだった。

参考:シルク民俗研究会「カイコローグ」/日本の歴史をいろいろ探検「宮城県丸森町の養蚕文化と猫神・猫碑」/ラジトピ(ラジオ関西トピックス)「『猫碑』保有数日本一!“猫の町”丸森町とは?」/webムー「おそろしい化け猫から養蚕の守り神、猫地蔵……全国『猫又・猫神』スポット5選」/文化遺産オンライン「猫神の石碑」

第3章 猫又・化け猫の系譜

鼠を退ける猫が守護の顔だとすれば、猫又と化け猫は畏怖の顔。この系譜は、中世の「山の怪獣」に始まり、各地の猫山伝承と「猫の王」の語りを経て、江戸の化け猫譚へと広がっていく。

山の猫又と家の猫又

第1章で触れたように、猫又は『明月記』(1233年)で人を喰う獣として現れ、『徒然草』第89段で「山の猫又」と「年を経た家猫の猫又」の二系統が並べられた。古い文献では山に棲む大型の獣とする説が多く、江戸時代の怪談になると、飼い猫が老いて化けたとする説が主流になる。

今日よく知られる「尾が二股に割れた猫」という姿は、江戸時代に定着したもの。二股の尾は、猫又という名と視覚的に結びつき、化けた猫の目印として絵画や護符に描かれるようになった。

猫山伝承と「猫の王」

全国には、猫が集まり、修行して力を得る山があるという伝承が点在している。代表が、熊本県阿蘇の根子岳。根子岳には「猫の王」が棲むとされ、最古の記述は『肥後国誌』(1772年)にある。猫が根子岳に登ると怪異や神通力を得て、戻った猫は口が耳まで裂けていたり、尾が2本になっていたりするという。

ここで大事なのは、「猫の王」と「二股の尾」が、民間伝承の中で一つの話としてすでに結びついていること。猫の王が君臨する山で修行した猫が、その証として二股の尾を得る。つまり猫又は、単独の妖怪というより、猫の王を頂点とする「猫の世界」の一員として語られていたということになる。

こうした猫山伝承を体系的に論じた研究に、小島瓔禮『猫の王』(小学館、1999年。のち角川ソフィア文庫『猫の王 猫伝承とその源流』)がある。同書では、会津の猫魔ヶ岳も猫山の一つとして扱われている。

会津・猫魔ヶ岳——史料で追う伝承の変遷

猫魔ヶ岳(福島県)は、猫又と猫の王の伝承が重なる場所。ただ、史料を年代順に並べてみると、その語られ方が時代とともに変わってきたことが見えてくる。

江戸後期の『新編会津風土記』では、猫は「猫又」。山名の由来とされ、猫石の周囲は草木が生えず、掃き清めたようだと記される。

昭和2年(1927)の礒清『民俗怪異篇』では、猫魔ケ嶽と穴沢姓の因縁、つまり猫又退治の話として語られる。

昭和42年(1967)の『福島県史 24 民俗2』でも「ねこまた」で、猫石のあたりで人を喰らったとされる。

昭和52年(1977)の『裏磐梯北塩原の民俗』で、はじめて「猫王」が登場する。山の主で、妻を斬られて復讐し、最後は猟師に退治される。

そして2010年代の磐梯山ジオパークの解説では、「猫王」は慧日寺の僧が鼠退治のために山に祀ったもの、とされている。

磐梯山ジオパークの解説は、風土記の記述として、昔ここに猫又が棲んでいたので猫魔の名がついた、と紹介している。猫魔ヶ岳に棲んで人を食らっていた猫又は、檜原村の地頭・穴沢善右衛門によって成敗された、という伝説も伝わる。

文献の上では、猫魔ヶ岳の猫は江戸から昭和中期まで一貫して「猫又」で、退治される怪物だった。「猫王」の名は昭和後期の民俗誌で山の主として現れ、「鼠を退ける神として祀られた猫王」という語りは、今のところ現代の解説でしか確認できない。このあたりの空白は、今後も追いかけてみたいところだ。

江戸の化け猫譚

江戸時代には、家に祟る化け猫の物語が大衆的な人気を得た。大名家の御家騒動に化け猫を絡めた鍋島の化け猫騒動、有馬の化け猫などは、歌舞伎や講談、浮世絵を通じて広く知られるようになる。行灯の油を舐める猫、手拭いをかぶって踊る猫といった図像も、この時代に定着した。

これらの物語で化け猫が向かう先は、主家への恨みや報恩。猫は、人の情念を映し返す存在として描かれている。山の猫又が自然の脅威だったのに対し、家の化け猫は人間関係の中に棲む怪異だったといえるかもしれない。

小結

猫又と化け猫の系譜は、山の怪獣から家の怪異へ、そして「猫の王」を頂点とする猫の世界へと広がった。その過程で、二股の尾という目印と、猫の王という神格の萌芽が生まれている。恐れられた猫が、やがて祀られる神になる。その転換を、次章で見ていきたい。

参考:いきもののわ「猫好きさんにおすすめスポット」(根子岳)/磐梯山ジオパーク「C-20. 猫石」/国際日本文化研究センター「怪異・妖怪伝承データベース」/小島瓔禮『猫の王』

 

第4章 畏怖から守護へ——祀られる猫

人を喰う猫又は、同時に鼠を退ける守り神にもなった。恐ろしい力を持つものほど、味方につければ強い守りになる。日本の信仰に通底するこの論理が、猫にも働いているようだ。この章では、怪異の猫が神へと転じた実例をいくつか見てみたい。

猫又権現——長岡・南部神社

新潟県長岡市(旧栃尾)の南部神社は、別名「猫又権現」と呼ばれている。江戸時代には人を襲う存在として恐れられた猫又の妖力にあやかり、蚕や繭をかじる鼠から蚕を守る神として、養蚕農家の信仰を集めた。最盛期には遠方から鼠除けの札を求めに来る人もあり、猫が描かれた札の下には「森上猫又権現」の判が押された。

社の由来には山伏が関わるとされ、同じ栃尾には「猫権現」と刻まれた祠も残る。猫又という妖怪の名を、そのまま神名として掲げているという点で、畏怖から守護への転換を最もはっきり示している例だと思う。

立石明神——猫魔嶽の化け猫の護符

会津・磐梯山の麓でも、猫魔ヶ岳の伝承にちなむ「化け猫の護符」が刷られていた。現存する磐梯神社の護符には、虎斑の猫が座る姿とともに「磐梯山 猫魔嶽 立石明神」の文字と朱印が刷られている。

伝説の中では人を喰い、退治される猫魔ヶ岳の猫又が、札の上では「明神」として祀られている。しかも神名の「立石」は、猫又が棲んだとされる猫石を指すと考えられる。怪物の棲みかだった岩そのものが、神の依り代になったということだろう。

赤猫大明神——夫婦猫の石

同じ磐梯山麓の猪苗代町には、「赤猫大明神(猫石)」と呼ばれる霊場がある。旧暦4月12日の祭りに参拝し、持ち帰った笹の葉を神棚に上げれば鼠が出ないとされ、養蚕が盛んだった頃には札も配られていた。石には鼠を退治する霊力が備わると考えられていたそうだ。

伝説によれば、磐梯山の噴火のとき夫婦の猫が山を下って逃れ、雌猫は長瀬川を渡りきれずに石と化し、雄猫は生き延びて妻の石への参拝を欠かさなかったという。祠には明治24年(1891)の年紀と、「猫石神社」の木札が残るとされる。

猫魔ヶ岳の猫王の伝承でも、猫王は「妻」を斬られて復讐する。磐梯山塊には、猫の夫婦をめぐる語りが複数残っているというのも興味深い。

修験の山の猫神

長野県筑北村の修那羅山安宮神社は、江戸時代最後の修験者とされる修那羅大天武が開いた霊場で、境内の石神仏群の中に、鼠から蚕を守る猫の石像が祀られている。ここは鼠の口を封じる祈祷で知られ、それを受ければ養蚕は必ず成功するといわれた。

第2章で見た笠山神社や八海山尊神社を含め、猫を祀る霊場の多くが山と修験に結びついている。山は猫又の棲みかであり、同時に、その力を制御する修験者の行場でもあった。恐ろしい山の猫を祀り、鼠を封じる力として里へ下ろす。その媒介を担ったのが、山の宗教者たちだったのではないかと私は考えている。

神仏分離と「神社」への改称

猫を祀る社の多くは、もとは「権現」「明神」の号で呼ばれていた。明治元年(1868)の神仏分離によって、権現号は神社号への改称を求められ、神仏習合の霊場は再編された。会津の慧日寺も明治初年に廃寺となり、その鎮守だった磐梯明神は磐梯神社として独立している。

猫の神々も、この改変の中で、ある社は「猫又権現」の通称を守り、ある社は「神社」の名を得て、あるいは名を失っていった。いま授与元が分からない猫札の中には、この時期に消えた社のものが含まれているのかもしれない。

小結

猫又権現、立石明神、赤猫大明神。いずれも、恐ろしい猫の伝承を持つ土地で、その猫が鼠除けの神として祀られた例である。そして、その多くに山と修験の影が差している。畏怖から守護への転換は偶然ではなく、山の宗教者が担った信仰の仕組みとして捉えることができそうだ。

参考:いきもののわ「猫好きさんにおすすめスポット」(南部神社)/磐梯山ジオパーク「E-35. 赤猫大明神(猫石)」/ブログ「山は猫」/『猪苗代町史 民俗編』

 

第5章 護符の文法

猫の護符は、一見するとただの猫の絵に見える。けれども、その上に押された印、添えられた文字、猫の目線や足元の描き方には、それぞれ呪術的な意味が込められている。いくつもの札を並べてみると、要素の組み合わせ方に一定の「文法」のようなものがあることに気づく。

睨む目——八方睨み

猫の護符の多くは、猫が正面、あるいは振り向いてこちらを見据える構図をとる。新田猫が「八方睨みの猫」と呼ばれたように、どこから見ても目が合う猫は、あらゆる方向の鼠を見逃さない力の表現だった。目は、猫札の最も基本的な呪力の源といっていい。

朱印——霊験の保証

猫札には、ほぼ例外なく朱の印が押されている。ただ、その印の性格は一つではない。

一つ目は「落款印」。新田猫に押された岩松家当主の印のように、描き手の権威が霊験を保証するもの。

二つ目は「社名印・判」。南部神社の「森上猫又権現」の判のように、授与した社の神威を示すもの。

三つ目は「宝印」。弘法大師真跡と称する鼠除猫札の頭上に押された宝珠形の印のように、仏法の力を札に宿らせるもの。

四つ目は「呪印」。「猫」の字で「鼠」を囲む印のように、鼠を封じる呪術そのものを担うもの。

中でも宝印は、熊野の牛王宝印に代表されるように、神仏習合の寺社が発行した護符に広く見られる形式である。弘法大師真跡と称する鼠除けの猫札では、猫の頭のすぐ上に、宝珠形の朱印が大きく押されている。猫の力と仏法の力を、一枚の札の上で重ね合わせる構図といえる。

文字で鼠を封じる

猫の姿を描かず、文字の配置だけで鼠を封じる呪符もある。授与元不詳の個人蔵の呪符には、中央の円の中に「鼠」の字を置き、その周囲を「猫」の字がぐるりと取り囲む配置が見られる。末尾には「急急如律令」とあり、陰陽道や修験の呪符の書式に則っている。

中央に鼠を置いて囲い込む発想は、日蓮宗系と推定される守護札にも見られ、そこでは「鬼鼠」の字が囲われている。富士講の資料には、鼠が蚕を食べないようにする「口留」の札も伝わる。鼠の居場所を奪い、口を封じる。これが文字による鼠除けの基本の型のようだ。

梵字でできた猫

埼玉県川越市の観音寺に伝わった悪鼠除けの札では、猫の姿そのものが梵字で構成されている。仏の種子(しゅじ)で猫を形づくることで、猫の姿と仏の力を分かちがたく一体化させた、なんとも手の込んだ札である。

足元の鼠、二股の尾

猫の足元や前脚の下に鼠を描く札も多い。宮城県南三陸町の「御猫」の鼠除け護符は、猫が鼠を押さえ込む姿を正面から描いている。富山の薬売りが得意先に配った売薬版画にも、赤い首輪の大猫が鼠を捕らえる図があり、こうした図柄は護符と縁起物の境界を行き来しながら広まっていった。

一方、猫又の神格を示す札では、尾が二股に描かれることがある。二股の尾は、その猫がただの猫ではなく、年を経て力を得た猫、あるいは猫の王の世界に属する猫であることの印なのだろう。

札の型の流用

人気のあった図柄は、しばしば他所に借用された。「新田」の名を入れた民間の摺物がその典型で、長岡・南部神社の札の猫も、新田猫をモデルにしたと紹介されている。長野県中野市の「金花猫明神」の原図とみられる猫絵のように、中国の猫の怪異に由来する名を冠した札もある。

同じ図像が複数の授与元で使い回されるので、図像だけで札の出どころを決めることはできない。図像、印、文字、社名の四つを組み合わせて読むことが、授与元不明の札を読み解く鍵になると思う。

小結

猫の護符は、睨む目、朱印、文字の呪符、梵字、足元の鼠、二股の尾といった要素を組み合わせて作られている。一枚の札にどの要素が選ばれているかを読んでいくと、その札がどの信仰の系統に属するのかが、少しずつ見えてくる。

参考:シルク民俗研究会「カイコローグ」(鼠除けの御札)

第6章 報恩と供養の猫

猫は祟るだけでなく、恩を返す動物としても語られてきた。報恩譚は猫塚や猫寺の由来となり、やがて商売繁盛の縁起物・招き猫を生む。この系統では、猫は人を守る「家族」として祀られている。当院に寄せられる故猫のご供養のご依頼も、この流れの延長にあるように感じる。

報恩譚の型

江戸の猫の報恩譚には、共通する型がある。猫が主人を守るために命を落とし、その後、主人のもとに福や救いがもたらされる。命と引き換えの忠義が、死後の霊験の根拠になるわけだ。

吉原の花魁・薄雲太夫の話はその典型だろう。愛猫タマが魔性に魅入られたと疑った楼主がその首を打ち落とすと、首は宙を舞って厠に潜む大蛇を噛み殺し、薄雲を救った。嘆く薄雲のために贔屓客が伽羅で猫の像を彫らせて贈り、その類似品が浅草で売られて招き猫人形になった、という説もある。

招き猫の成立

招き猫の起源には諸説あるが、有力なのは二つの系統。

一つは世田谷の豪徳寺の縁起。彦根藩主・井伊直孝が寺の前を通りかかると、和尚の飼い猫が手招きし、寺に立ち寄った直後に雷雨が降り始めた。雨を避けられたことを喜んだ直孝が寄進し、寺は井伊家の菩提寺として栄え、後世、境内に招猫堂が建てられたという。

もう一つは、浅草の今戸焼の「丸〆猫」。『藤岡屋日記』の嘉永5年(1852)の項には、浅草寺境内で土人形を作っていた老夫婦の愛猫が夢枕に立ち、自分の姿を拝めば病を治すと告げ、今戸焼の猫を拝むと病が治ったことが評判になった、と記されている。同じ記録には、これらの人形が当時すでに「招き猫」「丸〆猫」と呼ばれていたことも明記されている。

注目したいのは、招き猫の出発点が、商売繁盛ではなく「病を治す猫の霊験」だったこと。猫の霊が人を守るという報恩の信仰が、土人形という手に取れる形を得て、江戸の縁日で流行したということになる。

養蚕と招き猫の接点

招き猫は都市の縁起物として知られるが、養蚕地帯とも縁が深い。群馬の豊岡張り子の招き猫は、養蚕の守り神としても人気があった。福を招く猫と、鼠を退ける猫は、農村では同じ一つの猫として受け入れられていたのだろう。

猫塚と猫の供養

死んだ猫を弔う猫塚や供養碑も、各地に残っている。第2章で見た宮城の猫碑の中にも、鼠除けではなく飼い猫の供養を目的とした碑が多く含まれている。秋田県横手市の浅舞八幡神社の境内には「忠猫神社」があり、明治時代に米や蚕を鼠から守り続けた実在の猫を祀っている。猫の死後、地域の守護神となるよう石碑が建てられたそうだ。

働いた猫を供養し、その霊に引き続き家を守ってもらう。ここでは、供養と守護は一続きの営みになっている。

小結

報恩と供養の系統では、猫は恐ろしい力を持つ異界の存在ではなく、人に寄り添う家族として祀られる。けれども、その霊が死後も人を守るという発想は、猫又や化け猫と同じく、猫に人智を超えた力を認める信仰に根ざしている。守護する猫と祟る猫は、同じ力の表と裏なのかもしれない。

参考:和樂web「招き猫ってそもそも何?発祥は豪徳寺?今戸神社?秘密を徹底検証!」/いろはめぐり「最古の招き猫ゆかりの地とは!?」/Wikipedia「丸〆猫」/SKYWARD+「めでたい日本 招福猫紀行」/じゃらんニュース(忠猫神社)

第7章 葬送と猫

猫の信仰の中で、最も暗い側面が葬送にまつわるものだろう。死者のそばに猫を近づけてはならない。この禁忌は全国に広く分布し、死者の枕元に刃物を置く風習とも結びついてきた。

死者をまたぐ猫

猫が死体の上を越えると化け物になる、死体が起き上がる、死者が生き返る。こうした俗信は宮崎県や群馬県をはじめ各地に伝わっていて、どの地域でも猫が死者に近寄ることを忌み嫌う。

国際日本文化研究センターの怪異・妖怪伝承データベースには、こうした俗信の具体例が多数収められている。いくつか拾ってみると次のようになる。

1978年に石川県で採集された俗信では、猫は魔物で、猫が通るとその精が死者に乗り移り、来世で人に生まれ変われなくなるという。そのため腹の上に鎌などの刃物を乗せる。

1975年の静岡県の例では、葬式のときに猫を外に出しておくと、死人が生き返ることがあるとされる。

1968年の佐賀県の例では、枕元に刃物を置かないと死人に猫の魂が入り、死人が動くことを「猫魂が入った」と言ったそうだ。

ここには、猫が死者の魂を乗っ取る、あるいは死者を動かすという観念がはっきり表れている。第1章で見た『日本霊異記』の、死者が猫に生まれ変わる説話とも通じる、猫と死者の魂の近さである。

守り刀と猫

現在も葬儀で見られる、遺体の上や枕元に刀を置く「守り刀」の風習は、もともと猫、あるいは猫の妖怪を遠ざけるためのものだったという見方がある。明治時代後期の記録では、棺の上に刀を置くのは火車が来ないようにとの用心であり、寺の儀式ではなく民間の慣習が葬送儀礼に入り込んだものだと説明されている。その時点ですでに、刃物と猫又との関係はぼやけていたらしい。

仏教民俗学の和田謙寿『仏教葬送習俗の研究』(1987年)も、猫がまたぐと死人が起き上がるという俗信と、それに対する刃物の封術を論じていて、刃物には「猫魔」を払うという意味が第一義的にあったと考えている。

火車——亡骸を奪う猫

葬列や通夜の隙を突いて棺から亡骸を奪う妖怪「火車」も、猫と深く結びついている。鳥山石燕『画図百鬼夜行』(1776年)は、火車が葬儀場や墓場から死体を盗むのは全国各地の伝承だとしている。

火車の正体は、年を経た猫、あるいは猫又とされることが多い。奪われる亡骸は生前に悪事を働いた者のものとされ、火車が出たことは家の恥として隠されたともいう。越後の塩沢(現・南魚沼市)には、戦国時代の葬式に現れた火車を和尚が退けたという伝説も残っている。

葬送の猫と守護の猫

葬送の場で猫が忌まれるのは、猫が死と魂に近い存在だと考えられていたからだろう。けれども、その力は、第4章で見たように、祀られれば守護の力に転じうる。死者を動かすほどの力を持つ猫だからこそ、鼠を退け、家を守る神にもなりえた、ということなのだと思う。

小結

葬送の俗信は、猫の信仰の「恐れ」の極点を示している。死者のそばに猫を近づけない禁忌、刃物による封じ、火車の伝承。いずれも、猫が人の魂の境界を越える存在として恐れられてきたことを物語っている。

参考:Wikipedia「火車 (妖怪)」/国際日本文化研究センター「怪異・妖怪伝承データベース」/子猫のへや「猫は死人を生き返らせる」/和田謙寿『仏教葬送習俗の研究』/note「新潟県の和尚が退治した猫の妖怪・火車」

第8章 海と島の猫神

猫の信仰は、山と農村だけのものではない。海辺や島では、猫は天候や漁を知らせる存在として、大漁と航海安全の守り神になった。ここでも出発点には鼠除けがあり、そこから海の信仰が枝分かれしている。私も仙台に長くいたので、当然あの「猫島」で有名な「田代島」の存在はよく知っている。しかし、当時はこのような伝承があるとはつゆ知らなかった。

田代島の猫神社——美與利大明神

宮城県石巻市沖の田代島には、猫を祀る「猫神社」(美與利大明神)がある。島では江戸時代から繭が生産され、蚕を鼠から守るために猫が大切に飼われていた。また、島では大謀網(大型の定置網漁)が盛んで、最盛期には7ヶ統もの網があったそうだ。

伝承によれば、網の錨の代わりに使う岩を崩していたとき、転がった岩が猫に当たって死なせてしまい、心を痛めた漁師の総元締めがその猫を弔ったのが猫神社の始まりだという。祠を作ったところ大漁が続き、海難事故もなくなったことから、猫を神として信仰するようになったと伝えられている。

天候と漁を読む猫

田代島の漁師たちは、猫の動作から天候や漁の具合を予測していたという。猫が大漁を招き、海難を防ぐという信仰は、そうした日々の観察の積み重ねから生まれたのだろう。

猫を天候と結びつける発想は、山の猫の伝承にも見られる。第3章で触れた猫山伝承には、猫魔ヶ岳の方から黒雲が襲ってきて荒れまわる、という天候にまつわる言い伝えもある。海でも山でも、猫は空模様の変化を告げる存在だったようだ。

船と猫

船に猫を乗せる習慣も、各地の漁村や廻船で見られた。積み荷や網を鼠から守る実用に、猫を船の守りとする俗信が重なったもの。とりわけ、ごく稀にしか生まれない雄の三毛猫を船に乗せると航海が安全になる、という俗信はよく知られている。

供養から神へ

田代島の猫神社の成り立ちは、第6章で見た供養の系統とも重なる。人の過ちで命を落とした猫を弔い、その霊が島を守る神になる。鼠除けの実用、漁の吉凶を読む観察、死んだ猫への供養という、猫の信仰の三つの系統が、この小さな島の一つの祠に集まっているのである。

小結

海と島の猫神は、猫の信仰が生業に合わせて姿を変えることを教えてくれる。養蚕の島では鼠除けの猫が、漁の島では大漁と航海安全の猫になった。猫の力の向かう先は、人々の暮らしが何を必要としたかによって決まっていたということだろう。

参考:旅東北「猫神社」/アネモメトリ -風の手帖-「猫の聖地 田代島」/JR東日本「猫神社(美與利大明神)」

第9章 東アジアとの比較

日本の猫の信仰に見られる「鼠を退ける益獣」と「人を害する怪異」という二つの顔は、実は中国の古典にすでに現れている。日本の信仰は、この大陸の猫観を受け取りつつ、独自の形に育てたものといえそうだ。

『礼記』の迎猫——農の神としての猫

儒教の経典『礼記』郊特牲篇には、年末に農事にかかわる八つの神を祀る「蜡(さ)」の祭りが記されている。そこでは、田の鼠を食べてくれる猫を迎えて祀り、田の猪を食べてくれる虎を迎えて祀る、とされる。

つまり古代中国では、猫はすでに農作物を鼠から守る神として祭祀の対象になっていたということ。日本の養蚕地帯で猫が鼠除けの神として祀られたのは、この「迎猫」の発想と、驚くほどよく似た構造を持っている。

梅尭臣「祭猫」——書物を守った猫

北宋の詩人・梅尭臣には、飼い猫の死を悼む「猫を祭る」という詩がある。五白という名の猫を飼ってから鼠が書物を侵さなくなったが、その五白が死んだので、飯と魚を供えて祭った、と詠んでいる。

書物を鼠から守った猫を祀るという発想は、日本の「経典を鼠から守るために猫が渡来した」という通説や、第6章で見た働いた猫の供養とも響き合う。千年近く前の詩人も、愛猫を失って供養していたと思うと、どこか親しみを覚える。

猫鬼——使役される猫の霊

一方、中国には猫の怪異の長い伝統もある。隋の時代には「猫鬼」と呼ばれる猫の霊を使った呪術が恐れられた。独孤陀の外祖母・高氏は猫鬼に仕え、子(ね)の日の夜にこれを祀ったという。子は鼠である。猫鬼は人を殺して財物を奪い、祀る者の家へ運んだとされる。隋の大業年間には、老いた猫を呪術に使うとの告発が相次ぎ、数千の家が誅殺されたと伝えられる。

猫鬼の呪術が、鼠の日である子の日に行われた。つまり猫と鼠の対立は、ここでは呪術の時間を決める原理にまでなっていたということ。第2章で見た、子の日に蚕室を掃いて鼠を払う日本の風習とも、同じ発想の上にありそうだ。

金華猫と化け猫

中国の浙江省金華の地には、年を経た猫が人を惑わす妖怪になるという「金華猫」の伝承がある。年を経た猫が化けるという観念は、『徒然草』の「家の猫又」とも共通する。長野県中野市の「金花猫明神」の原図と思われる猫絵のように、日本の猫神の名にも、こうした大陸の猫の怪異の名が入り込んでいた可能性がありそうだ。

日本の独自性

中国の猫の信仰と比べてみると、日本の特徴が浮かび上がってくる。中国では、益獣としての猫の祭祀と、呪術に使役される猫鬼とが、はっきり別の系統として存在した。これに対し日本では、同じ猫又が、恐れられる怪物であると同時に、鼠除けの権現や明神として祀られた。

恐ろしい力そのものを神として迎え入れ、守りの力に転じる。この畏怖と守護の一体化こそが、東アジアの中で日本の猫の信仰を特徴づけているように思う。

小結

『礼記』の迎猫、梅尭臣の祭猫、隋の猫鬼、金華猫。中国の古典には、日本の猫の信仰の諸要素がほぼ出揃っている。日本はそれらを受け取りながら、山の宗教者や養蚕の暦と結びつけ、怪異と守護を一匹の猫の中に同居させる独自の信仰を育てていった。

参考:『礼記』郊特牲篇/ねこと暮らす「梅尭臣(ばいぎょうしん)【漢詩、北宋】」/中国妖怪百鬼図鑑「猫鬼」(『朝野僉載』ほか)

 

第10章 近現代の変容

猫の信仰を支えてきた生業は、20世紀後半に大きく衰えた。養蚕の担い手が消え、鼠除けの切実さも失われていく。それでも猫の信仰は消えず、21世紀に入って、まったく別の担い手を得て息を吹き返している。

養蚕の衰退と猫札の消滅

猫札の多くは、昭和の半ばまで養蚕農家の神棚や蚕室に貼られていた。新潟県南魚沼の八海山尊神社の鼠除け札も、昭和30年代までは近隣のどこの家でも貼られていたという。養蚕の衰退とともに札を求める人は減り、授与をやめた社、社そのものが絶えた例も少なくない。

いま授与元が分からない猫札の多くは、この過程で担い手を失ったものだろう。宮城県気仙沼市の岩倉神社、新潟県小千谷市の龍覚院、埼玉県川越市の観音寺など、かつて猫の札を出していたことが分かっていても、現在は授与をやめている例がある。

愛猫家による再発見

一度は忘れられかけた猫札に、21世紀に入って新しい担い手が現れた。愛猫家の方々である。鼠除けの札として社頭の片隅にひっそり置かれていた猫札が、平成20年代の初めから愛猫家の間で人気となり、今では猫のお札で知られる神社になった例もある。埼玉県皆野町の大日神社の黒猫の札のように、年に一度の祭礼の日にしか授与されない札を求めて、遠方から参拝者が訪れるようにもなった。

田代島が「猫の島」として注目されたのは、2006年頃のテレビ番組がきっかけだったという。宮城県丸森町でも、猫碑をめぐる観光が地域振興の柱の一つになっている。

猫の日と御朱印

2月22日の「猫の日」には、全国の寺社で猫をあしらった限定の御朱印が頒布されるようになった。秋田県横手市の忠猫神社のように、明治時代に米や蚕を鼠から守った猫を祀る社が、猫と稲穂を入れた御朱印を授与する例もある。

ここで祈られているのは、もはや蚕の無事ではない。飼い猫の健康、ペットの供養、あるいは猫そのものへの愛着である。猫の信仰は、生業の守護から、人と猫との関係そのものを祝福する信仰へと、重心を移しつつあるように思う。当院に寄せられる愛猫の当病平癒や故猫のご供養のご依頼も、まさにこの流れの中にあるのだろう。

変わらないもの

それでも、変わらないものもある。現行の猫札の中には、古い図柄を受け継いで刷られているものが少なくない。睨む目、朱印、足元の鼠といった護符の文法は、そのまま受け継がれている。担い手と願いは変わっても、猫に人智を超えた力を認め、その力に守られたいと願う心の形は、驚くほど変わっていない。

小結

近現代の猫の信仰は、生業の衰退によって一度は細り、愛猫家という新しい担い手によって再生した。その過程で、「鼠を退ける力」への期待から、「猫と共に生きること」への祈りへと変わってきている。畏怖と守護の往還という今回の主題から見れば、現代は、恐れの側面がほぼ消え、守護と親愛の側面だけが残った時代といえるのかもしれない。

参考:オマツリジャパン(猫の日 猫のお札・護符)/アネモメトリ -風の手帖-「猫の聖地 田代島」/じゃらんニュース(忠猫神社)

結び

恐れられ、退治され、そして祀られる。日本の猫の信仰をひと言でいうなら、人がその不思議な力を畏れながらも、最後には寄り添い、守り手として迎え入れてきた歴史といえるのではないだろうか。

荼枳尼天香合仏、再受付中

荼枳尼天香合仏 予約フォーム

祈願のお申込みについて

 本院で承っている祈願につきまして、以下解説ページから。

本尊准胝仏母祈願

当院のご本尊である准胝仏母さまの祈願です。滅罪、延命、求子に強いご尊格です。

先祖供養・家族の敬愛祈願

光明真言にによる供養(光明供)にて、ご先祖供養を致します。光明真言には強い滅罪の功徳がございます。

 荼枳尼天尊祈願

荼枳尼天とはお稲荷さまの仏教でも呼び名です。

商売繁盛、学業増進、立身出世など増益につよいご神さまです

人型加持

 病気平癒、健康維持にとてもよく効く祈祷で、お加持をした「お札」を毎日枕の下に入れてその札に「悪いもの」を吸い取ってもらうように機能させます。人によっては患部に当てるよう袋を作ってお守りのようにしている方もいます。不動明王による祈祷を行いますが、当院では延命に強い准胝仏母の力もお借りして祈祷致します。

 文殊菩薩祈願
「三人寄らば文殊の知恵」というように智慧を象徴する尊格です。学業増進祈祷、無明を断ち切る祈祷などでお力をいただけます。

多羅菩薩(ターラー菩薩)祈願

(「どんな衆生でも救う」という使命を持って誕生した慈悲深い菩薩さまです。皆様の願いを菩薩さまにお伝えするお手伝いをします)

星祈祷

年始(旧正月)に「星祭」を行い、祈祷札をお出ししておりますが、随時「星祈祷」をお受けしています。

不動明王祈願

※不動尊華水供を修法致します。

e-mail

JYUNTEIIN@gmail.com

 

記事が参考になったら

クリック↓お願いします!

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へ

 にほんブログ