光明真言にによる供養(光明供)にて、ご先祖供養を致します。光明真言には強い滅罪の功徳がございます。
先祖供養、家族(特にご両親)は、下記よりお申し込みください。
解説
よく「先祖供養が疎かだと祈願は叶わない」と聞きます。
これについては私も「その通りだ」と思います。
では「なぜ先祖供養をしないと祈願が叶わないのか?」という答えについてはいろいろな見解がありそうですが、私の意見は下記の通りです。
当たり前のことですが、人は先祖がいなければ決ししてこの世に存在することはできません。これは例外なくそうです。
だから人間は誰でも生物的に根本的かつ潜在的なところで「先祖がいなければ自分は存在しない」と刷り込まれていると思われます。あえて深層心理学的に解釈するなら、上述のような強力な「イメージ」を心の奥底に内包している、となるでしょうか。
とするならば、「先祖を疎かにする」ということは、つまり「自分の存在を疎かにする」と同義になります。
問題なのは「先祖がいなければ自分は存在できない」という「メッセージ」は意識的にではなくより強く「無意識的に」「潜在的に」刷り込まれていること。
だから本人の自覚がなくても「先祖を顧みない」という人は、自分の心の奥で強烈な自己否定が起こってしまう可能性があるということです。
くどいようですが先祖がいなければ自分は存在できないわけなので、その否定は非常に明確な自己否定です。
では質問です。
「自分を否定する」人が、その人が幸せになるための「祈願」が叶いますか?
どんなに表向きに「幸せになりたい」と祈願しても、根本で自己否定という真逆のベクトルが働けば、祈願は遠のくのは当たり前と思う。
特に「神仏」という心の奥のその先におわす方と繋がろうとしてる訳だから、その心の奥の「自己否定」がとんでもない足かせになる。
仏教に帰依しているのであれば、できれば仏壇に毎日手を合わせたいし、定期的なお墓参りもしたい。しかし、「仏壇がない」「お墓が遠くてめったに行けない」という事情は多くあると思います。
そのような方のお手伝いをするべく「ご先祖供養」をお受けすることにしました。
そうはいっても、本質はご本人がご先祖の前で手を合わせるという習慣を持つことです。自分の「アクション」が伴わなければ本質を外します。だから私はそのためのお手伝いにすぎませんので「先祖供養頼んだからそれで終わり」ではないということをご理解ください。
それと、今日はもう一つの話をしたいと思います。
人によっては、もしかするとこの話は「先祖供養」よりも「重い」と思います。
ご両親の話です。
上述した先祖供養と同じ理由で、忘れてはいけないのが「ご両親」との関係です。ご両親との関係が壊れていると(顧みない、恨んでいる)、ご先祖と同じロジックで「自己否定」という重荷と戦うことになります。
人によっては、このご両親との関係はご先祖以上に「難しい」のかもしれません。
卑近な例で恐縮ですが、行者としてではなく、友人として過去に三人の方の「ご両親との確執」の相談に乗ったことがあります。
私は、「友人として」の立場から上述の理屈を話したところ、なんと三人から同じように「激怒」されました。
「いいご両親をもつ里見さんに分かるわけがない」
「両親に感謝しろ?私が親からどんな目にあったか、知ってて言ってるの?!」
とにかくえらい剣幕でキレられました。
それだけ、人にとってご両親との関係性は根が深いということを痛感しました。私はこの時、立場が「友人」だったから求められた答えは「理屈」ではなく「共感」だったのかもしれない。
ただ、おそらく私が共感しても、「その人」は満足したと思うが、ご両親との確執が解決に向かう可能性は低いだろうと想像する。
ですから、ご両親との関係性が悪く「見て見ぬふり」をして、そのことが「重荷」になっている方。ただ「向き合おう」という勇気を持てた方。まだ両親のことは許せないけど、「その問題」に「向き合う」きっかけが欲しい方。
「まずは祈る」というアクションを起こすためのきっかけとして「ご両親との敬愛」の祈願をしようと思います。
スタートとしては「それは自分のためになる」という「我欲のため」でもいいと思います。この問題は「我欲のため」という方便を使ってでも解決するべきだと思いますから。
「先祖供養」「両親との敬愛」を希望さえる方は、下記よりお申し込みください。
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