昔、職場で関係が悪化してしまった同僚がいた。
この時、私は両者の「間(あいだ)」に挟まれて、双方から「相手の悪口」を聞かされて困ってしまったことがあった。
相手がいない場所では、「相手が悪い」という理由を双方が私に話してくる。
それぞれが「自分が正しい」と信じて疑っていない。
大河ドラマ「篤姫」でのセリフで『一方聞いて沙汰するな』という言葉が話題になったことがあった。
『まつりごとには相反する意見がつきもの。だから片方の言い分や考えだけを聞いて判断するのではなく、両方の言い分をしっかり見聞きし、その上で結論を出しなさい』という趣旨の言葉です。
冒頭の話では、私が間に入ってはいるが、どっちが正しいというジャッジをする立場ではないので「沙汰をする」必要はもちろんないのだが、その時痛烈に思ったことがある。
それは「相手が悪い」と思っていることは「自分がそう思ってるだけ」で真実ではない可能性が極めて高いということ。
昨日は「両親との人間関係」という話題を記事にしたが、人間関係が悪化してしまった場合、当人はほぼ確実に「相手が悪い」と語る。
そしてその人の話を「一方」で聞くと「確かにそうだな」と思ってしまう。ただ上述の例を持ち出すまでもなく「一方聞いて」だけでは実際のところどうだか分からないのだ。
「相手が悪い」と強く主張する当人は自分が正しいと信じて疑いがないことが分かる面白いエピソードがある。
古典的なビジネス界の名著、デール・カーネギー「人を動かす」で紹介されているエピソードだ。
本書冒頭の「盗人にも五分の理を認める」の章では、凶悪殺人犯が刑務所の電気椅子に座わらされたとき、最期に「自分の身を守っただけのことで、こんな目にあわされるんだ」と言った、というエピソードが紹介されています。
凶悪事件を起こしてすら「当人」は本心では「悪い」とは思っていないとカーネギーは分析しています。つまり、このエピソードから、凶悪殺人犯ですら自分は正しいと考えるのだから、一般の人はさらに、自分が間違っても自分が悪いとは思わないはずだ、と結論づけています。
問題は「自分ではこのことに気付けない」ということ。自分は決して悪くないと信じて疑わないということ。
家族との「敬愛」の話ではどうだろう?
「親が悪い」「夫が悪い」「妻が悪い」「子どもが悪い」と思い込んでる人は、多くの場合、その確執が強ければ強い程決して自分は悪いとは思っていないと想像する。
だって殺人を犯した凶悪犯ですらそうなのだから、いわんや……だ。
近しい人との関係性が改善されないと、その関係性は社会において一般化すると言われる。だから家族との関係が改善しないと多く場合、社会での人間関係でも苦労することになる。
私も最も長い時間を過ごす「妻」とはよく喧嘩をする。その時私は「妻が悪い」と信じて疑っていない……はずかしながら(笑)。ただその思いはきっと「間違っている」のだ。ただ喧嘩の最中にはそれに気づけない。
おそらくその理由は「感情」に「巻き込まれている」からだ。そう、「怒り」の感情に。
以前書いた「瞑想」の記事では「巻き込まれる」ことが人を不幸にすると説明した。 だから「巻き込まれない」ために「客観的な自分=メタポジション」を取り戻すために「瞑想をしよう」と進めもした。
ただ、それなりに「瞑想」の習慣を持つ私ですらこのありさまだ。
難しい……。
だから私は「巻き込まれていない時」を見つけて「家族への感謝」の機会を増やすことを実践している。少しでも「巻き込まれた時」に「自分が間違っているかも」という客観的な自分が出現することを期待して。
そしてそれはきっと毎日の「祈り」の中でするのがいいように思う。皆様も実践することをお勧めする。
「親が悪い!」「夫が悪い!」「妻が悪い!」
それ、本当ですか?
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