偶像崇拝の記事について「ころんちょさん」という読者の方から興味深いコメントいただきましたので、記事で返信したく思います。
※前回のコメント返信記事でも書きましたが、コメント欄は公開していますので、記事で取り上げさせていただきますが、問題ございますようでしたらご面倒でも連絡ください。
コメント
『先日拝んだ観音さまがこちらを向きアゴを上げ、その瞬間となりのロウソクが火柱になったとコメントしましたが、それは私が瞑想バカであるからで、更に我が家のお不動さま&観音さまを愛しており、”見られるものは見るものの状態に依存”しただけのことだと思います。
そもそもいつも心に両尊ありましたから、うちに来てくれたんだと思います。
ラーマクリシュナとヨガナンダに同じ石像が動いた話もありますし、マハルシは”本来無形である私達が有形の身体に収まり、有形の偶像を無形として拝むこと”にはなんらも不自然はないといいました。
それだと思います。同様に空の青さも偶像とおなじで絵みたいなもんですよ、たぶんw』
貴重なコメントありがとうございます。
まずコメントの内容が、少し難しいと感じる読者の方もいるかと思いますので、先に少しだけ私から解説します。
コメント頂けた方は「瞑想」をよく実践されている方だと想像します。
瞑想によって体験される事象に「主観と客観の差の感覚の喪失(主客一如の一体感の体験)」という「体験(状態)」があります。
言葉だけではピンときませんよね?
簡潔に言うと見るもの(私)と見られるもの(=客体)が一体化したような感覚です。
心理学的に言えば「変性意識状態」で同様の説明があり、また密教では「入我我入」といって『瞑想の対象である釈尊や菩薩のすべての働きが修行者自身に入り込み,また修行者のすべての働きが対象である仏陀や菩薩に入り込んで,修行者と仏陀や菩薩とが一体となること』と説明されます。
有名な荘子の「胡蝶の夢」は色んな解釈があると思いますが、おそらく広義では同様の文脈にあると想像します思います。
『夢で荘子である自分が蝶になっていたのか、それとも本当の自分は実は蝶で、夢の中で荘子になっているのか?荘子と蝶はもちろん別の存在ではあるが、お互いに変化できるものなのだなぁ』
コメントいただいたお話にこの説明を当てはめれば「観音さま」「お不動さま」の強いイメージが心にあったから、その心のイメージが顕現した(主)のか、または強い信仰があったから観音さまとお不動さまが出現してくださったのか(客)、という2つのの解釈が成り立ちますが「主客が一体」ならばこの二つの解釈に「違いはない」となります。
ちょっと哲学的なので難しいと感じる人が多いでしょうか。
またコメントには「ラーマクリシュナ」「ヨガナンダ」「マハルシ」というお名前が登場します。
これらはインドの聖者のお名前です。私も門外漢なので間違っているかもしれませんがポイントはラーマクリシュナ、マハルシはアドヴァイタ・ヴェーターンタ学派(不二一元論)であること。
アドヴァイタは「アド(非、不)+ ヴァイタ(2)= 非二、不二 = 二つでない = ひとつ」という意味になりますので、広義では上述した主客一如と親和性の高い概念になります。
アドヴァイタについては過去に関連記事もありますので、興味を持った方は参考にしてください。
(ちょっと難しい内容です)
さて、少し難しい話をしましたが、我々はこの話から受け取れる「使える知識」としては、「解釈に拘る必要はない」でしょうか。
だってどっちも同じって言ってますから(笑)
私の意見としては、信者さんが礼拝をする場合には、それで信仰が深くなるなら「自分が気に入った解釈をすればいい」だと思います。自分のイメージが顕現してたとしてもいいし、実際に仏さまが現れてくれたと思ってもいい。
さらには、仏さまのシグナルを感じたならば(もしくは姿を見たならば)「ありがたい」と首を垂れることができる……それが重要かな、と思う。
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