准胝院のブログ

八王子市で准胝仏母を本尊とする祈祷道場「准胝院」のブログです。リンク 准胝仏母祈願道場「准胝院」について https://ryona.hatenadiary.jp/entry/2021/11/01/0636 ※天台寺門宗教師 亮和

帰依が自他の境界を壊す?

 少し前の記事で「偽善で何が悪い」という話をしました。この記事の趣旨は「つべこべ言わず行動しろ!」という事を自分にも言い聞かせるという意図もあったのですが、そうは言っても「宗教」ならそこに論拠とする「考え」であったり「方法」があるべきだと思うもの事実で、それを「つべこべいわず」と思考停止を奨励してしまうものそれはそれでよくないという事は分かっています。

 ですから、今回はこの「偽善」ということについて、現時点での私のスタンスをもう少し書いてみようと思います。これはもちろん仏教的な正解というものではもちろんないし、読んで頂くと分かる通り、結局結論にたどり着けていません。

 だから考えるための一つの切り口としてご参考にして頂ければと思います。

 

 その昔、禅定の境地に至れば自他の区別がなくなり、だからこそ自分を愛することと他人を愛することの区別がなくなると何かの本で読んだ。

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 どんなに「他人のために」という施しも、突き詰めれば「自分のエゴを満足するため」というところに行きつくことに「欺瞞」を感じていた私的には、この話は理屈では「なるほど」と思った記憶がある。

 ところで、近代においても「覚者」「聖者」と呼ばれる方の図書が多く出版されているのをご存知でしょうか?

 私は仏教に本格的に帰依する以前に一時期、これらの「覚者」「聖者」の中で「ラマナ・マハルシ」「ニサルガダッタ・マハラジ」の図書を夢中に読んだ時期があります。

 このお二人は仏教徒ではありません。彼らはヒンドゥー教の「アドヴァイタ・ヴェータンタ学派」という枠組みで語られることが多いようですが、このお二人の経歴を拝見すると、そのような学派に属している訳ではなく自身の体験でその境地に至っただけという事が分かります。だからご自身たちも「私はアドヴァイタ・ヴェータンタ学派だ」なんてことを声高に語っていた訳ではないようです。

※用語解説ページ「アドヴァイタ・ヴェータンタ=不二一元論」

ja.wikipedia.org

 このお二人の図書を読むとやり方は「禅定」とは違えど、冒頭で話した「自他の区別がなくなり」という境地にまさに到達しているであろうと感ることができるお二人だった。

 私としても〇〇学派が云々に興味があった訳ではなくて純粋に冒頭で話した「自他の区別」を知るための実践として何かヒントになるのでは?という「実践面」を期待してこれらの本を読んだ記憶があります。

 さて、私は「サラッ」と「覚者」「聖者」というワードを使いましたが、「え?それってどういう人?」と思った方が大半と思われます。

 正直に書きます。当時の私的は「この人達は所謂悟りの境地に達しているのでは?」と感じました。

 今でも、この方々は確かに凡人がが届くべくもない「ある境地」に到達している方々という印象を持っています。それが仏教でいう「悟り」なのかなんて判断は私のような凡人が分かるはずもないけれど……

 さて、では結局私はこれらの聖者の言葉を聞いてどういった学びはあったのか?ということですが……

 「多くの気付き」「多くの癒し」「多くの学び」があったのは事実ですが、これらの言葉を「日常の場面」に落とし込むと具体的には何にも応用することもできませんでした。凡夫の私にはいささか難易度が高すぎた訳です。

 よくありますよね?「感動はしたけど、日常に落とし込めない」というパターンです。

 ただ、私にとっての最大の収穫は、それまでは「悟り」とか「覚者」という存在、つまり過去の偉大な人々の「昔話」としてか存在しなかったものが、現代においても「たどり着けるかもしれない可能性」として妙にリアルに感じることができたことです。

 さらに、ここが私にとっては大きな出来事になるのですが、結果的にはこの「アドヴァイタ・ヴェータンタ」をきっかけに私は今の仏教に舵を切ることになったということ。

 そう言った意味では私には「はずせないご縁」だったことになります。

 「なんでアドヴァイタから仏教へ?」

 ということですが……

 これはなにも『アドヴァイタの思想は仏教との親近性が高いといわれるから』なんていう(例えば創始者ともいえるシャンカラが「仮面の仏教徒」と言われた)高度な哲学、思想的な話をしたいのではなくて(いや、私にはそんな話はできない)もっとシンプルなテクニック、方法論的に、当時の私に大きなヒントをもたらしました。

 上述した「ラマナ・マハルシ」と「ニサルガダッタ・マハラジ」は(おそらく)同じ境地にたどり着いたが、二人は全く違った、場合によっては真逆の方法によってたどり着いたという印象を受けます。

 「ラマナ・マハルシ」が主張した覚者になるための方法とは「私は誰か?」という問いかけを只管続けるというものでした(真我の探求=アートマ・ヴィチャーラと呼ばれます。)

(マハルシの図書は私は以下の本が読みやすいと思います)

 この方法の骨子は、「私」をとことん探し続けるとそれが、それがついに存在していないことに気づき、その気づきによっては「私が消え去る」という手法。最終的には(ここからはちょっと私はイメージできないのですが)「私」が根源である「真我」に溶け込み、消え、純粋な意識であり絶対的実在の「真我」のみが残る……というもの。後半の記述は私には全く理解できませんでした。

 しかし(私のように)これができない人向けに「マハルシ」が進めたもう一つの方法があります。それが「徹底した帰依」です。

 これは「バクティ」ということばで説明されます。この言葉は他人によっては聞いたことがあるかもしれませんね。これは崇拝する神や師事するグル(聖なる師)に自分自身を委ねる(明け渡す)ことの意味です。このポイントはこれが究極に達成されれば、自分をすべて投げ出すわけだから自分の欲望は完全に消えるというところ。マハルシはバクティと「真我の探求」には優劣はなく、どちらを選ぶかは修行者の性質によると言っています。ただ、このバクティという方法は、よく悪質な新興宗教の「財産を全て投げ出せ」という論拠として使われて誤解を招きやすい話にもなっていますが、本質は全く違っていて「自他の境界をぶち壊す」ための方便だと私は考えています。

 マハルシの話を聞くと、前者が「真我の探求=アートマ・ヴィチャーラ」が「自力」の修行、後者のバクティが「他力」と解釈すると親鸞の論説との共通点があるのかな?なんて門外漢ながら思いました。少なくとも前者、後者ともに「私(=エゴ)を排除する」という目的においては同じで違いは単に方法論の違いであることがよく分かります。

 この後者、つまりバクティによって「覚者」となった(と思われる)のがもう一人の覚者「ニサルガダッタ・マハラジ」です。その経験は以下の著書で読めます。

  その著書には、マハラジが多くの瞑想をした訳でもなく、難行苦行をした訳でもなくただただ「バクティ」に徹したことでその境地に到達したことが語られています。

 さて、この「神に委ねる」という「神」の部分を、「仏」に変えると「仏に帰依する」という我々仏教徒では当たり前に日常目にして、そして意識する言葉になります。

 つまりこのバクティ=仏に帰依するという発想こそ、私が仏教に舵を切るきっかけを作った一つの要因になってきます。

 ただ、今の私はこの「仏にすべて任せる」という話をするとき、どちらかと言うと「自分の人生の方向性を仏さまにお任せする」というニュアンスを多く含んで使っていることに気づきます。

 だから……

「自分が間違った道を歩まないように」

仏道に反した行動をしてしまわないように」

ということを常に意識することで、逆に自分の意識しえない無意識領域の行動全て「仏」にお任せする……そんな意味での「任せる」で使っています。

 ただ時折、この二人の覚者の図書に、特にその「バクティ」という事の意味を思い出して私が日常行う「仏への帰依」が冒頭で話した「自他の区別を破壊する可能性」を意識するようにしています。

 こんなことが、簡単に起こるなんて思ってはいないのですが……でも仏教徒としては意識の外に追い出してしまっていい話でもないと思っています。

 だから仏教徒になった今でも「マハルシ」「マハラジ」のお二人の覚者の図書は時折眼を通す様にしています。

 ただ難しいのが「私=エゴ」の問題。つまり、それを追い求めすぎると、その求めるのは「自分=エゴ」ということになるので、(私のような凡夫の場合)エゴがより強化されてしまって結局「自他」の「自」のための行動という本末転倒になるというジレンマに捕まりますから注意が必要だとは思っています。だからこれについては私の中では「程よく意識する」という微妙な感じが現時点での正解となっています。

 今は実践することに重きを置く密教と言う立場おりますので、あまり「頭でっかち」ばかりにならないようにとは思いますが、このように「考えること」は実践と並行して続けるべきだと私は考えてます。


※アドヴァイタ・ヴェータンタについては数冊の図書を読んだ程度の門外漢なので間違いなどございましたらご指摘いただけると幸いです。

 

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