昨日、ほんの些細なことで会社の上司と口論になった。
いや、厳密には口ではなくメールでの諍(いさか)い。
よく指摘されるのだが、私は時にメールで物言いがキツいらしい。どうやら受け取った相手の心をグサグサとやってしまうようだ。
企業であれば、「意見の食い違い」があるならばそれはむしろどんどんやって解決すべきこと。国民性もあると思うが、米国などの会議では毎回喧嘩腰でやるが、終われば喧嘩していた相手とすぐに「じゃあ、ランチに行こうか」と何事もなかったかのようになるらしい。つまり仕事のプライベートは別物という切り替えが上手いのだろう。
ただこれを日本でやろうとしてもなかなか難しいように思う。私が古い人間なのかもしれないが。
さて、企業の話はこのくらいにして「感情」の話にフォーカスしてみる。
口論の背後には、自身の怒りがある。怒りの感情が大きい時ほどやっかいな「魔」が潜む。その魔の名前を「自我」という。
他人を守るための怒りならまだいい。ただ残念ながらその正体は「自分を守る」ために怒る。自我を守ることに必死なのだ。
言葉にすれば簡単だ「自分のために相手を傷つける」ということを人は簡単にしてしまう。今回の私のように。
やっちゃいかんよね、仏教徒なら言わずもがな、人としても、と思うのだ。
人間どんなに歳を重ねても、成長しない自分にうんざりする。
だからこそ奢らず修行を積まねばと発心もするのだが。
怒りのあとには、後悔がくる。
昨日もそうだった。最後は自己嫌悪でがっくり落ち込むというのがお決まりのパターン。
相手に向けていた「怒り」という矛先が、実は自身にも同時に向いていて、自分も他人と同じように(もしかするとそれ以上に)傷ついてたというオチ。
最近の脳科学では、これを脳にはミラーニューロンがあると説明する。その場所は「主語」を受け付けないから他人に対する暴言は自分にたいする暴言と同義と脳は受け取るとか。だから悪い言葉を使うと自分を貶める。ポジティブな言葉を繰り返そう!という自己啓発系で好まれそうな理屈。でもこれあったると思うな。
仏教では「自他不二」「主客一如」と言う言葉がある。しかし、私が発した言葉で他人を「傷つける」というもネガティブな「主客一如」が起こっていることがなんとも情けない状況。
私は欧米人のように仕事とプライベートをキッチリ切り離すことはどうもできない。
ただ今の私にできることとして、一日たって、上司には昨日の非礼を詫びて今日はいつもの通りの平穏を取り戻している。
私も多いに修行させていただいたが、上司は上司の縁でなにがしかの「学び」があったと思いたい。都合のいい解釈かもしれないが、それであれば僅かでもプラスの「自他不二」は起こっていたに違いないのだから。
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