昨日、鎌倉の長谷寺の話をしたが、もう一つ関連ネタを書いてみます。
長谷寺には『観音ミュージアム』と呼ばれる展示場がある。
(リンク)
鎌倉 長谷寺 観音ミュージアム
間近で素晴らしい仏像を拝観できるのでお勧めだ。
例えば長谷寺の本堂隣にある阿弥陀堂の阿弥陀如来の脇侍だったとされる鎌倉時代作の勢至菩薩坐像が個人的にはとても美しいと感じた。
ただ、今回の記事で書きたいのは別にある。
このミュージアムには『観音菩薩三十三応現身像』がある。
参考リンク
三十三応現身像 - Wikipedia
観音経を典拠にする「広く衆生の機根(性格や仏の教えを聞ける器)に応じて、種々の形体を現じる。これを観音の普門示現(ふもんじげん)という」という話。混乱しやすいものに「三十三観音」があるが、三十三応現身像は、三十三観音のように〇〇観音という観音さまの姿で出てくるわけではない。だからミュージアムに展示されている三十三応現身像はどれも観音さまの姿をしていない。
さて、観音の普門示現、つまり三十三応現身を日常の話に落とし込んでみる。
三十三応現身に倣えば、我々人間の前に現れる観音さまの姿は当然「人間」の姿をしているということになる。余談だが、昔話にある「実は観音さまの化身だった」という落ちのある話でも皆、観音さまは人間の姿をしている。
そう考えれば、観音信仰がある方は、皆さんの周りにいる誰かが観音さまなんだ、という話にもなってくるが……
現実的には「実は私の正体は観音です」なんて人はいるとは思えない。ならこの三十三応現身はどう考えたらいいのか?
「観音さまの布置」
ということを考えたい。
「布置」というのは、物の配置という意味の他に心理学では「その人を成長させるためにしかれた環境という名の配置」という意味合いで使われる。
例えば問題を抱えている人に影響を与える人との出会いがあったとする。これは問題を抱える人の心が無意識にその人を呼び寄せた(布置した)と解釈する。
私の考えはこうだ。
この場合は、それを無意識にさせたのは問題を抱える当人だが、この人にとってその出会った人は「観音さま」ということになる、と言う解釈。実際その人はただの人だが、役割としてはその人を救う存在になるという意味で観音さまに他ならない。
とすれば我々の解釈は心理学の解釈を少し変える必要がありそうだ。
つまり「その人」を呼び寄せたのはその人本人の無意識ではなく、その無意識に訴えかけた観音さまの力につきうごかされて、その人の無意識が動いたと。
神仏は人間に関わる時、無意識を通じてなされるという話はこのブログでも何度もしている。
となると、結論はこうなる。
今日会う人、会う人、誰もが観音さまの布置によって決められてた出会いである可能性。
言い方を変えれば会う人全てが観音さまの化身である可能性。
あなたが会う人全てが観音さまなら?
あなたがその人に会った時にとる態度はどう変わりますか?
そうですね。
感謝しかないです。
出会いはすべてあなたのために観音さまが「布置した」ものだから。
私はそれを信じるようにしている。
そしてそれは確かだと思うのだ。
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