「なんで准胝院の亮和は瞑想の話をするんだ?」
そんな感想を持たれる方が多いのかな?
だって「瞑想」の記事を書くとアクセスが途端に減るからさあ~(笑)
仏教の修行者は『仏道を修行する者がかならず修めるべき基本的な修行項目』として「三学」は常に意識するところであるが、信者さまの中には「祈願」はお願いするが「修行はちょっと……」となるとこういったことに関心がなくなるのだと思います。
三学とは「戒(戒を守る)・定(禅定を修める)・慧(智慧を修める)」のことで、たった三つのうちの一つに「禅定を修める」があります。
戒のことは割と気にする人は多いし、また「般若の智慧が~」と学問的、哲学的な方向に行く人もいる。でも「禅定」をやろうという人になるとぐっと数が減る。
禅定とは「禅」のイメージで概ねあってると思いますが、大乗仏教の、特に天台系では「止観」という言葉が好まれます。
まあ、言葉の話は置いておいて、一般信者からするとひっくるめて「瞑想」と捉えてもらっていいと思います。
ただ「仏教の三学だから」という理由だけで「だからやりなさい」では言葉が足らないのかもしれない。
ということで、私も「教師」の端くれなので少し理屈をこねてみる。
皆さんは「祈願」が叶いたくて仏教に触れている人が多いと思う。
それは大いに結構。
でも祈願を叶えるためには、その想いが神仏に届く必要がある。
「それはあなた(行者)の仕事でしょう?」
と聞こえてきそうだ(笑)
でも、「それだけ」でしょうか?
むろん私からすればそれに全力を尽くしますが、その祈りの中心に「あなた」がいなければ話にはなりません。
「あなたの願い」ですからね。
では「あなたが願いを神仏の届けるには?」
このブログでは「日常の変化に気付け」「そして行動をあらためろ」ということで願 いに近づことを期待しようと書いてきた。
これに今日はプラスして「瞑想」を加える。
なぜか?
それは……
「瞑想状態の方が神仏への扉が開いているから」という説明になります。
瞑想状態は、より願いが神仏へ響きやすい状態だから、ということです。
また、別の観点として……
私が勧める1分間の瞑想を続けると、瞑想状態が努力しなくても維持されるようになります。これを瞑想状態が「般化する」という言い方をします。1日中という訳ではないにしても、質の高い心の状態になりやすくなります。
とするならばあなたが本当に願うことが、心の深いところに落ちる確率が上がるという理屈になります。
そして、その繰り返しが「薫習」となって心の奥底で厚みを増せば、神仏が掬い取りやすくなるはずなのです。
祈願と禅定……信者さん側から見ると関係が見えにくいと思いますが、実はとても重要な事です。
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