最近、瞑想の話をしていないので少ししてみたいと思う。
まずは「耳たこ」の何度も記してきたことから。
大切なことは何度でも書く(ネタがない訳ではないのだ!汗)
ネットでいくらでも情報がとれる、この情報過多の時代、「瞑想」と名のつくものが溢れる。
曰く……
禅、ヴィパッサナー、マインドフルネス、気功法、クンダリニー瞑想、TM瞑想、仙道の周天法、自律訓練法、大地の瞑想法、エトセトラ、エトセトラ。
ナニがホンモノでナニがニセモノで、なんて野暮な話はしない。
まずはご自身で「これ」と思ったものを選んでみるといい。
そして、頭でっかちにならず「すぐに実践」してみること(独学がヤバそうなのはやめてね(笑))
さらに、それを「継続」すること。
こんなことを書けば「なんだ当たり前すぎる話だが」と言われそうだが、後半の「継続する」は瞑想を実践したことのある人ほど「そう簡単にはいかないから」ということは身にしみて知っているはずだ。
瞑想を日常の一部に組み入れて毎日欠かさずに行うことが出来るか?
何か月という話はしていない。
もっと言えば何年という話でもない。
何十年、一生という話だ。
だから「どんな方法がいいのか?」という問いよりも、まず先にその瞑想は「あなたが」続けられる方法なのか?ということこそ大事だということ。
過去の記事では「三分間」もっと言えば「一分間」でも続けましょうと話しました。
この時間は「忙しいから」という言い訳が全く通用しない短時間。
この記事を読んで「やってみた」と言う方に問いたい。
「まだ続けてますか?」
ということで、今日はもっとやりやすい「瞑想」を紹介してみたい。
皆さまがもっとも入りやすい瞑想といえば、やっぱり信仰に基づいたものだと私は思う。
もちろん仏教徒ゆえの「えこひいき」もあるが。
だから、皆さまが一番やりやすいのは「祈り」という名の瞑想だ。
お経を読む。真言を唱える。
「それって瞑想?」
これは十分瞑想になり得て、しかも継続しやすいというメリットがある。信仰があるここの読者様であれば。
「それは禅定ではないでしょ?」とか「止観ではないでしょ」なんて、言葉の定義に拘泥するよりは「祈り」と「禅」が別物と考えずに、それらは最後は一つに収束するという考えが私は気に入っています。
神仏に近づくための所作はとりあえず瞑想と考えていい、が私のスタンス。
先日信者さまからの報告で「勤行中どうしても睡魔に襲われて」という質問を受けた。
その意味することは、二つ。
眠気が起こる程疲れていても勤行だけは毎日欠かさないで継続できているということ。
また継続して「拝む」ということを続けると色々なコンディションでやらざるを得なくなる。その中でも「眠気」は誰もが通る「魔」でもある(睡魔というからね)。
つまりこの「睡魔」という「魔」が出てきたといことは「ほら超えてごらん」と言う神仏のメッセージであろうということ。そう考えてみる。進歩の証だと。
複雑な方法を求める人は多く見かけるが、それを継続している人となると一気にその人数は減る。
だからよく瞑想の方法を詳しく教えて欲しいと言われることもあるが、「じゃあ、とりあえず毎日の勤行を継続してみてください」という。
さすれば「何か」掴むことが必ずある。それができている人はおいそれと「どんな瞑想が効きますか?」なんて質問はしてこない。
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