「嫌な予感がする」
誰でも、そんな感覚はあるように思う。
私はこのような感覚はそう頻繁ではないが「胸騒ぎ」のような独特の不快感を感じることがたまにある。
私が感じるその「嫌な予感」は、めったにないという意味で、この感覚を感じると、緊張が走る。
偶然と言ってしまえばそれまでだが、確かにこの感覚があると、決まってその後なんらかの「精神的ダメージ」を負うのが常だった。つまり「嫌な予感が的中した」となってしまう。
これは仏教の修行を始めるずっと前、すでに幼少期からあったよう記憶する。
大学生のころ、一時的にこの感覚が頻繁に起こり困っていた。
だから、私は一旦立ち止まって慎重に「嫌な予感」と「精神的ダメージ」の因果関係を「調査」をしたことがある。
つまり上述した「嫌な感覚」が的中するかどうか?という個人的な調査だ。
結果「なんかあるな(偶然ではないな)」というのがその時出した結論だった。
しかし、その後、ひょんなことからこの「嫌な予感」に対抗する術(すべ)を偶然身に付けることになった。
今思えば「できすぎ」の話だが、それは「ある真言」をひたすら唱えはじめてから。
その真言とは、ここの読者であればだれもが知る、般若心経に出てくる「ぎゃーてい、ぎゃーてい……」という真言だ。
むろん当時は仏教の修行をしていた訳ではない。
では「なぜ急に?」ということだが……
私は大学時代、心理学を学んでいたので、その頃「心理学周辺」と称して精神世界とか宗教系の本はよく読んでいた。困ったことに、そのどれもが実は「やや怪しい本」ばかりであった(笑)
そんな心理学周辺の「怪しい本」の中に、般若心経の真言を唱えれば「何でも望みは叶う」というなんとも安易なことを解説する本があった。いまでは鼻で笑ってしまいそうな内容だが、当時は「これだ!!」と思ったものだ(汗)。
凝り性な私は、以来口癖のように「ぎゃーてい、ぎゃーてい」とやるようになる。
すると色々な変化が顕れ始める。
まず冒頭で書いた、「嫌な予感」。
この感覚が生じた時に無意識に般若心経の真言を唱えるようになった。その怪しい本による「何でも叶う」ということを特別意識していたわけではないが自然とそういう癖がついた。
それからしばらくして「おや」と思う。
「嫌な予感」があった時。「あれ?今日は何もなかったぞ?」
という日が日に日に増えていることに気が付いたのだ。気のせいかもしれないが、少なくともそう思う自分がいた。
先の「調査」の時は「嫌な予感」と「悪い出来事」の因果関係に「なんかあるな」と思っていたが、今度は逆だ。つまり「嫌な予感」と「般若心経の真言」との間に「なんかあるな」と感じるようになってきた。
以来、大学生から何十年。毎日ではないが、ことあるごとに「ぎゃーてい、ぎゃーてい」と言い続けていたので、今更カミングアウトすると実は今でも咄嗟に出る真言は本尊の准胝仏母の真言と同程度(もしくはそれよりも多いかもしれない)般若心経の真言が口をつく。やはり何十年の蓄積(薫習)のなせる業であろうか。
さて、そろそろ結論です。
私が最初に般若心経の真言を唱え始めたきっかけは「怪しい宗教書」がきっかけでした。動機も不純。もしかしらならやり方もダメだったかもしれない。でもそれを何十年も続けた結果、今では最も頼りになる「真言」に一つになっている。証拠に時折現れる「嫌な予感」がしたときは、数十年の癖で咄嗟に般若心経の真言を無意識に唱えている。そして、かつてあったような「難」を逃れることも恐らくできているように思う。
このエピソードは、は結局のところ「継続は力なり」「継続に勝るものはない」という使い古された格言に行きつく。
「またそれか」と思われるだろうと思う。でも、皆これができない。
この歳になってもまだ思う。継続程難しいものはないと。
だからこのブログでも簡単でもいいから短時間の瞑想をやれといったり、少しでも毎日の勤行を続けろと声高に書く。
むしろ簡単なことがいい。一生涯続ける必要があるから。できれば一日も欠かさず。 今日のわずかな一回が、数十年後、とんでもない力になっている。
きっとこれは抗いようがない事実だと思う。
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