『准胝独部法はどこでも修することができる』
独部法ならではの、メリットだから……
「時には電車の中でも袖の下で念誦を繰りながら」
という説明もする。
するとこんな質問が割とある。
一回目でも二回目でも複数人から同じ質問があったので、きっと皆が思う疑問点なのだろうと思い、少し取り上げてみる。
「特に数珠をとることなく、ただ電車の中、歩きながら准胝さまの真言をお唱えすることも行の数としてカウントしていいですか?」
という質問です。
さて、皆さんはどう考えますか?
個人的に思うは「質問する前にご自身はどうお考えですか?」ということがいつも気にかかる。
それはこの「考える」ことが、修行の一助になると思うからです。
私が「YES」「NO」と回答するのは簡単だ。でもそうすると皆様の修行の機会を奪いかねないとも思う。
例えば上述した質問を「私なり」に考えてみる。
そもそも何のために准胝独部法をするのか?という根本的なところ。
中には「願望達成」といったような祈願を叶えるために行をするという人もいるかもしれない。確かに独部法の次第には「祈念」をするパートもあるからそれがダメとは言わないが、それ以前の話がある。
皆さまの独部法をするのは准胝仏母さまと繋がりたいから行をするのではないか?ということ。
その意識がちゃんとあるだろうか?
さらに言えば、准胝仏母という尊格は「仏弟子を生み出す母」であり、その母に対して向ける真言も「准胝さま!」と強い呼びかけの言葉になっていることをご存知だろうか?
私のブログでも何度もこれに関する解説はしてきています。
皆さまはこれらを意識して真言を唱えているだろうか?
難しい話ではなく、独部法の行をする時に、あなたの心の矢印の先に准胝さまがちゃんといますか?というだけの話です。
願わくば、そんなことまでをご自身で考えて「ならこうすべきだ」という結論を導き出していただきたいな、と思う。
繰り返しになりますが、それも修行の一助になると思うから。
准胝独部法は、確かに「十万遍達成すること」は重要なことですが、それでもそれが最終目標でもなんでもない。ようは准胝さまとどれだけ繋がれたか?です。
ここもまでの結論にご自身でたどり着いていれば、例えば電車の中、歩きながら准胝仏母さまの真言を唱えることはとてもいいことだ実感できると思う。私も、そう思お気持ちは大切にして頂きたいと思います。
ただ、目的は真言の数を数えることではなく准胝仏母さまにより繋がるために、という本質を見失わないことこそ意識すべきことにも気付けると思います。
メール等のご質問の返答としては「最低限、数珠を用いて念誦するという行としての体裁が整わない場合はその念誦はカウントされないのがいいと思う」としています。でもその心は、「数をカウントする」ということに捕らわれすぎないでくださいということ。
では、皆さまのご真言が准胝さまに届かんことを。
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