輪廻があるかないか?
輪廻が教義の前提である仏教では、その有無に議論はない。
しかし、頭では充分、分かっても」実際はどうなんだろう?……」なんて人も案外いるかもしれない。
現代社会においてどうしても日常的に科学的な法則を無意識に信じてしまう土台がある人は多い。
私もおそらくご多分にもれずだ。
宗教だから科学的に証明される、されないという議論とは全く違う次元にいるのは確かにそうなのだが、無意識に「でも」と思ってしまう人の心は如何ともしがたい。
私は、このブログの読者の方は薄々気付いていると思うが、スピリチャルなことは安易に肯定しないというマインドブロックがある。
宗教とは言っても、何でもありなはずはなくて、そこはしっかり線引きする必要があるからそれはいい。
幸い、冒頭で書いた輪廻は、科学というメスが入り込むにはあまりにも遠すぎる位置にいて、議論の余地はなく、むしろ手放しで安心して信じれるという側面がある。
※カリフォルニア大学では輪廻を科学的に研究しているという例もあるが
さて、「あえて」仏教の教義から一旦離れて、自分の心で「輪廻」のことを直に感じてみるというワークをしてみるとどうだろうか?
私が直感的に感じた本心は、自分がこの世界からいなくなるという感覚がどうしても想像できないということ。これは無論、自分は死なないなんて幼稚な事を言っているのではなく。いまある「私」という感覚がなくなるという想像ができない。
こんな個人の感想だけで輪廻があることの根拠とするにははたから見れば「ばからしい」と思うかもしれないが、私は割とこれが納得がいく根拠になっている。
去年、肩の手術で人生で初めて全身麻酔というものを経験した。全身麻酔というのは睡眠とは似て非なるもので、人間が想像しうる「無」に、限りなく近い状態になると感じた。特に睡眠と大きく違うのは「時間」そのものも全部を「無」に持っていかれる。意識が飛んで、手術が終わって意識が戻るまで体感では1秒程度。時間をも消失しているのだ。
この体験は、「死はきっとあの状態だろう」と思ってしまうには、あまりにも説得力ある。個人的には一旦は死によって「その状態」になるだろうとも思う。
ただ、果たしてそのままなんだろうか?
と考えてみる。
考えてみる……というか「感じてみて」というほうがより近いのだが……
私はおそらく違う世界で、相も変わらず存在しているのではないか?というのは希望的観察ではなく、根拠はないが信じるにはたる「実感」だったりする。
過去生の記憶がなく今「私」がいるということは、来世でもきっとその時の私には「今」の自分の記憶はないのだろう。
でもきっと相変わらず「私」は、存在して、きっと仏教を学んでいる。
今、それを信じて疑わない自分がいる。
繰り返すが、根拠はない。
でも、私にとってはこれが輪廻に関して感じた、確かな「リアル」なのだ。
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