仏教、禅、瞑想の説明で「気づき」というキーワードをよく聞く。
スピリチャルも、自己啓発でも「気づき」「気づき」と連呼しているので少し辟易しているひともいるかもしれない!?
さて、その「気づき」がなぜそんなに皆が皆、連呼するのだろうか?
私なりに少し考えてみた。
「気づく」ことは誰でも日常あると思うのだが、ここでいう「気づき」は普段我々が使う「気づき」とは少し違ったニュアンスを含むように思う。
例えば仏教徒であれば、禅、瞑想に限らず日々のお勤めや修法を行っている時、または神社仏閣を参拝したときでもいいでしょう。そんな「仏教」に関わっている場面で、つまり心が神仏に向かっている時は、無意識という名の神仏にアクセスしやすい状態になっている。だからそのような「気づき」は日常の気づき以上「意味のあるメッセージ」を持っている可能性があるという話だ。
一つ参考になるが、ちょっとだけ読みにくい?文章を紹介する。
私が最もリスペクトする心理学者「アーノルド・ミンデル」の著書からの引用です。
『もしあながたファシリテーターとしてワークを試みるならば、クライアントのどんな小さなプロセスであっても宇宙に投げ捨ててはなりません。それはエコロジーの精神に反します。捨ててしまうと誰もその問題がどこにいったか分からなくなってしまいます。もし、あなたがクライアントの問題に感染したならば、それについて、内的に、あるいは、声に出して自分自身のものとしてワークしてください。(中略)自分が感じたことや、自分が拾い上げたこと全ての問題をプロセスし、リサイクルする方がいいと私は思います。あなたが怒りや不幸を投げ捨てておくと、拾い上げられることがないため、それは路上をうろつき、誰か他の人に憑くことになるかもしれません。(中略)私たちは、私たちすべてが生きている大きな「場」の一部分を拾い上げているのです。何かを見たり、聞いたり、感じたり知覚したなら、それが何であったとしても、それを知覚したことに感謝し、できるだけ自分たちのために、そして他の人々のためにそれを使おうとするべきです。つまり、すべては私であり、何も私ではないのです(引用:「後ろ向きに馬に乗る」~プロセス・ワークの理論と実践 著者アーノルド・ミンデル 春秋社)』
訳文だけに言い回しが分かりにくいと思いますが、この人の考え方は「気になったこと」すべてに意味があるからそれを逃さず拾い上げろということを強く主張します。
その「わずかなこと」でも「本人」のみならずそれに関わる全ての人(例えばワークをしているのであれば参加者全員)に意味のあることだと。
この考えはユングの集合無意識の概念がベースにないととても理解しがたい話ですが、その場にいる人全員が集合無意識で繋がっていて変性意識状態になっていればお互いが感応しあうから、お互いが僅かなシグナルをも捨て置いてはいけないという理屈。
さて、ここからはもう少し簡単な場面で説明します。
『仏教という「縁」で結ばれた方々であれば、お勤めでも修行でも仏教の勉強でも仏教に関わる「何か」をしているのときの「わずかな気づき」は自身の修行に於いて、もしくは施主様の祈願達成に対して、神仏の「メッセージ」である可能性が高いので捨て置かない。その意味をよく考えて、よく行動してみる。』
その心は?
仏教に関われば関わる程、気づきが増えて修行が進むし、祈願達成に近づくが、仏教から遠ざかれば修行も進まないし、祈願も達成しない。
ということで、仏教に関わっている時の「気づき」は捨てないで大切にしましょう。
このブログを読んでるときも、ね?(笑)
★多羅菩薩の祈願はじめました
★ご相談はこちらから★
記事が参考になったら
クリック↓お願いします!