「昨日、突然榊が枯れました」
今朝、開口一番そう言ってきた会社の女性の同僚がいる。むろん彼女が私にそんな話をするのは私が仏教の教師であることを知っているので、事あるごとにアドヴァイスを求めてくる。
その方は信仰厚く、決めた神社でお札を受け毎日神棚に手を合わせている。その信仰は「しっかりされているな」という感想を持っていた。
そして、冒頭で触れた「榊」だが、その榊の水は朝晩と一日に二度換えているそうだ。
「きっと、昨日愚痴を言ったのを諫められたんだ」
彼女はそう続けた。
気温もずっと下がったこの季節にいきなり榊が枯れるのは、確かに不思議な感じがする。すくなくとも一日に二度しっかり水を替えているなら尚のこと。しかも枯れた榊は左右のうち片方だけ。その姿は異様だと。
さて、このエピソードからの「学び」を考えてみたい。
ポイント①当人が「榊が枯れた」ことに気づけたのは毎日神棚の前に立ち、榊の水を替えていたという「日常」があったから。だから、その「変化」に気付けた。まさに日常のお勤めこそ、験を受け取る「土台だ」ということを教えてくれる。
ポイント②
彼女が「神さまから諫められた」と感想を持ち、「その悪しき行動」を正すきっかけになったということ。
ここから少し「野暮な」説明をしてみましょうか。
「愚痴を言う」「榊が枯れる」
一般的にはただの偶然の一致と捉える。
ただ心理学的には「偶然の一致」には2種類あると考える。
「意味のある偶然の一致」と「意味のない偶然の一致」だ。
この差はどこからくるか?
少し考えてみてください。どうでしょう?
答は簡単です。
本人が「意味がある」と捉えれば、それは「意味のある偶然の一致」となって「意味を持つ」ということなり「たまたま」と思えば「たまたま」以上の意味はないという解釈。これを「たまたま」ではなく「意味がある」という発想まで引き上げてくれるのが「信仰」であろうと思う。
また、「意味がある」と思うには「ある条件」が必要になりますね。
それは、まずその偶然に「気付ける」ということです。そもそも偶然に気付けなければ「何も起きません」
「気付く」とは何に気付くのか?「変化」に気付くです。
つまり「変化」は「日常の土台」なければ気づきようがないという話です。今回のエピソードで言えば毎日榊の水を替えてていたという「日常」が土台です。
……そして私も朝からそんな「気づき」を貰えたことに、ご本尊に感謝ということですね(^^)
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