このブログの読者さまでもあり、当道場の篤信者さまもあり、また神仏をとても研究されている「どうたぬきさん」から考察メールをいただきましたが、上記フレーズはその考察にあった一文です。
「確かに!」
と私は声を上げて唸ってしまいました。
常に「天にある存在」としてまず思い浮かぶのは「お天道さまが見てる」のフレーズ通り「太陽」であることに異論はないでしょう。
世界を見渡しても太陽を神格化した「太陽神」がもっとも崇められる存在であることは周知のこと。
ただ、太陽は日没となれば、地球の裏に去っていく。月もそうですね。もっと言えば天にある惑星、ほとんどの恒星は地球の自転により「天にはいない」というタイミングがある。
ただ例外がありますよね。
北極星(厳密にはその周りの星々も)です。
北極星は、沈むことはない。もちろん日中は太陽の光によって見えなくなるが「天にありつづける」ことには違いはない。
だから24時間356日、欠かすことなく我々の頭上にあるのが北極星ということになる。
……とするならば『星は数あれど北極星より衆生を観ている星はいない』というどうたぬきさんのフレーズが「確かに!」となる。
さて、最近よく話題にしている多羅菩薩。
その多羅菩薩が生まれたエピソードを思い出してください。
『ある時、観音様が全ての衆生を救い尽くして、これからブッダの世界に行こうとしたときに、後方の遠くの方で微かに鳴き声が聞こえました。何かと思い振り返ると、遥か彼方に未だ救われることなく「助けてください」と苦しみの声を発する衆生が大勢いたのでした。「あぁ、可哀そうに」とその衆生を思って流された涙が「ターラ菩薩」に変化したといわれています。(中略)ターラ菩薩は慈悲の目で全ての衆生を見て(※観音様でも見逃してしまった衆生を見つけ出して)、救いの手を差し伸べる愛溢れる女性の菩薩です(慈悲の光彩 林久義著(星雲社)より引用)※は私が入れた注釈です。
こんな説明でした。
この話の本質が「衆生を見逃さない」ということであるなら、それはつまり「常に見ていてくれる存在」と言い換えることもできそうだ。
もうピンと来たと思います。
この多羅菩薩の説明は、常に我々の頭上にいて見守ってくれる存在である北極星と近しい説明になりました。
そしてなんと多羅菩薩のTaraには上のエピソードから「瞳」という意味があると同時に「北極星」の意味があるとあります。
そんな話から「どうたぬきさん」は鋭いことを言ってきます。
何度もこのブログで書いている話ですが、得度前の信者時代、師僧の著書「密教宿曜占星術」に収録されていた「在家星祭」を毎日数か月(200座くらい)続けたのが、最初の「尊星王さま」とのご縁。
直近では去年、道場を立ち上げ信者さまのために(初行ゆえに)星祭を100座やった。そして、それを機に尊星王のお像を作ることにした。
そしてよく覚えている。そのお像が完成した直後、多羅菩薩の話を師僧から頂いた。
このご縁の根幹に何があったのか?を改めて考えてみる。
すると、やっぱり「在家信者時代からよく拝んだからなのだろうか?」と思う。
正解は分からない。ただ、私個人の感想としては強く「これこそ重要なことだったんだ」と肚に落ちた。
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