准胝院のブログ

八王子市で准胝仏母を本尊とする天台寺門宗祈願寺院「准胝院」のブログです。准胝仏母祈願、不動明王祈願、人型加持(当病平癒)、先祖供養(光明供)、願いを叶える祈願(多羅菩薩)、荼枳尼天尊(稲荷)の増益祈願等

いまさらですが、不偸盗戒のすすめ

 不偸盗戒(ふちゅうとうかい) - 他人のものを盗んではいけない

 仏教徒なら言わずもがなだと思います。

 おおよそどの勤行要集でも出てくるので、勤行の習慣のある方なら「毎日」唱えていることと思われます。

 ただ多くの人は「いや私は流石に人さまのものを奪うなんて犯罪行為はしないから」とこの「不偸盗戒」に関しては軽視している人が多い気がします。

 果たしてそうでしょうか?

 私の職場で実際にあった会話をちょっと紹介します。

 休憩室で、数名いた女性社員の会話です。。

Aさん「これお土産です。昨日ディスに―ランドに行ってきたので。新しいアトラクションがあって……」

Bさん「ああ、そうよね。9月から新エリアできたものね。『美女と野獣』でしょ?大型アトラクションとかやショップ、レストランがオープンしたものね。まるで映画の世界のような風景だったでしょ?それから知ってる?トゥモローランドにはアトラクション「ベイマックスのハッピーライド」やポップコーン専門ショップ「ビッグポップ」、トゥーンタウンにはキャラクターグリーティング施設「ミニーのスタイルスタジオ」がオープンしたのよ?え?知らない。なんだもったいない。せっかく言ったなら見てこなくちゃ。私は全部見たわよ?娘がはまってしまった何度も付き合わされて。楽しかったわ」

Aさん「はあ……よかったですね(苦笑)」

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 さあ、どうでしょう。何か感じましたか?

 私は端で聞きながらなんとも不快に気分になりました。

 Bさん、自分の話をさんざん話すことができてさぞ満足だったと思います。実際に「どや顔」でご満悦でしたしね。

 でもAさんはどうでしょう?Aさんは「何か」を奪われていませんか?そうです。「話す機会」をすっかりBさんに奪われてますね。

 こういうのを「会話のハイジャック」と呼ぶそうです。

 つまりBさんはAさんの「機会」を盗んだ訳です。これ偸盗違いますかね?

 でもいますね。複数人で会話していて、すぐに「私は、私は」と自分の話を被せてくる人。

 ただ、これはついついやってしまいがちな行動かもしれません。

「話を聞いてもらう」ということはそもそも「快楽」「報酬」と言われます。だからその「快楽」という「報酬」を求めて「無意識」レベルで多かれ少なかれ人間はそうしてしまうのは致し方ないと思います。

 だからこそ。

 毎日「不偸盗」とお唱えしたときに、一日一回でも「注意せねば」と真剣に思うことは重要かなと思います。

 特に仏教徒なら他人の「時間」「機会」という「大切なモノ」を「奪っている」ということは意識したほうがよさそうです。「機会を奪う」という行為で「功徳」をすり減らしていると積極的に意識するべきだとも思いました。

 だからこの場合の正解は「自分が話したい」という気持ちをグッと抑えて「相手の話をじっくり聞いてあげる」ということでしょうか。これなら「奪う」のではなく、相手に話す機会を「与える」という行動になりそうです。

 一度このブログで紹介した鴨さんこと「鴨頭義人さん」も実は同じ話をしていて「そういう人(会話を奪う人)って経験的に不幸な人が多いですよね。だって他人から奪いまくる人生が良くなるはずないですよ」と言ってました。その通りだと思います。

 今日から皆さんも「不偸盗」と唱えた時には「相手の話を聞く」ことにこそ重きを置く行動原理を身に付けようとしっかり意識してみては如何でしょうか?

 もしかするとこれだけで人生が上向きになるかもしれませんよ!?

 

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夢うつつ映像の対処法

 先の記事では行中「睡魔」に襲われることがもっとも難儀だ、という話を書きました。

ryona.hatenadiary.jp

 時に強烈な睡魔だと起きながらに「夢ううつ」の状態になるので、行中に「夢の映像」が視界に混じりこんでくることは案外多くある。

 こんな時は「なんとか起きておかなければ!!」という自分との戦いが勃発する!?

 ほとんどの映像は「夢うつつ」なので取り留めのないものが多く、壁から人がすり抜けて部屋に入ってきたり、いつのまにか隣に女性が座っていたり、本尊の顔が笑ったり怒ったり。

 レベルの違いこそあれ、これも一種の「魔境」ということになるのでしょうか。

 私も場合は、幸か不幸か強烈な「眠気」が伴っているのでそれが「夢の映像」とすぐに看破できていますが、これが「リアルの映像だ」などと勘違いするようだとかなり厄介なことになりますね。例えば私のように「夢うつつ」ではなく「深い瞑想状態」だったりしたならば「霊が出た、神仏が出た」という話になってしまうんでしょう。

 さて、このように意識レベルが下がってくると色々な幻視、幻聴が起きやすい状況になる訳ですがこの時に「やっかいなポイント」を取り上げてみようと思います。

 問題は「私は起きていた」「客観的な私が確かにいた」という主観が正しいとは限らないという事。

 「私は起きていた」と言っても脳波をとってみたら寝ていてたなんてことが大いに起こり得るという意味です。

 例えが適切ではないかもしれませんが、明らかにお酒に酔っている人が「俺はシラフだ!!」と頑なに主張する場面を想像すると分かりやすいかもしれません。こんな時、その人の主張は全くあてにできませんよね?

 「夢うつつ」とか「泥酔」など、もしくは場合よっては「深い瞑想状態」でも程度の差はあれ、自分でいくら「正常」と思っていても、そうではない可能性が高い。つまりそれは「自我が頼りない状態」であることを知っておくことが重要かな、と思う。ひいては安易に「魔境」のとりこにならない智慧にもなるのかなと。

 このような「覚醒状態」ではない特殊な意識状態のことを「変性意識状態」と呼びますが、この「変性意識状態」の難しさを知る上でよく話題になる「臓器提供の意志」に関する話があるので紹介します。

 このブログで再頻出の心理学者「ミンデル」がする昏睡状態の人と対話する「コーマ・ワーク」(コーマとは「昏睡状態」のこと)の解説にあった事例です。

 ある方は元気な時、「臓器提供」に前向きに合意したのですが、いざ病気になって意識が混濁して「変性意識状態」に入ってしまうと「臓器提供なんて絶対ヤダ!」と主張を始めたそうです。さて、家族はどちらの意見を尊重すべきか?という問題です。

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 元気な時の「健全な意識状態」の意見を尊重するか、意識が混濁した、つまり冷静な判断力を失っている「変性意識状態」での意見を尊重するか……なかなか難しい問題ですね。この場合、何といっても「一人の人間」が時と場合で「真反対の意見」を主張していることころが悩ましいです。

 ミンデルの主張は、この時点で「どちらかを選ぶ」のではなく「どちらの意識をも尊重する」ために「ワーク」を行い「意識」と「無意識」の対話で「意識」と「無意識」の溝を埋める手続きのための技術を提供します。

 ここから我々が学ぶべき「魔境」との付き合い方は、大げさに受け取ったり、反対に激しく拒絶したり、もしくは「くだらない」と捨ておくことでもなく「フラットに」「ニュートラルに」観察の対象として「その意味」を救い上げて上げることでしょうか。

 あくまで「冷静な時の自分で」が条件になりそうなので、(例えば行が終わった後の)覚醒状態の「私」が冷静な判断力で分析してあげることがまずは安全な気がします。

 「魔境」をあえて拒絶することなく、あくまで「慎重に」「フラットに」「ニュートラルに」という態度で「冷静に」無意識の主張を救い上げ意識と無意識の統合をはかる。

 ……言葉にすると難しそうですが、だからこそ「夢うつつ」の「魔境」でにしも「くだらない夢」と捨ておかず「無意識の統合」という「せっかくの機会だ!」と前向きな対処法を試みる「きっかけ」にすることで、頻回にそんな経験を積むのもいいのかなと。

 今日のところの私のベターな考えでした。

 

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猫の時間感覚に学ぶ

 警戒心が強く、自分からはめったに人間に近づいてこない姉の「檸檬」。

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 そんな檸檬が私が座るすぐ横まで来て「にゃあ」と話しかけてくるタイミングが2パターンある。

 一つはPM6:00の給餌タイム。時間の正確さたるや「1分」のズレのずれもない。電波時計並みの正確さだ(笑)

 それともう一つが「うんち」をした後。

 檸檬は手先がどうも器用ではなく、自分のした「うんち」に猫砂をかけて隠すのがとても苦手。それは完全に見えなくなるまで猫砂で自分のうんちを隠してしまう妹の「みいこ」と大きく違うところ。

 だからだろうか。隠しきれない「うんち」を「かたずけろ」とばかりに私の横まで来て「にゃあ」と鳴く。普段近寄りもしないのにね(苦笑)

 猫にすれば「におい」を発する「うんち」を放置しておくことは自分の居場所を察知されて、危険に晒されるから「野性味」を残した猫ほどうんちを放置することを嫌うとか。

 確かに人間に近寄らないという「家猫」らしからぬ「野性味」を残した檸檬ならではの行動なのかもしれない。まあ、野生猫らしく上手くうんちを隠せればいいのだが(笑)

 さて、先ほど「猫の時間の正確さ」の話題を記したが、おそらく人間にも本来的にはそのような「体内時計」はある。難しい言葉を使えば「サーカディアンリズム」なんて呼ぶ。

 私は自分の行を「効果的に実行する」ためにこの「サーカディアンリズム(概日リズム)」を整えることがことのほか重要だと思い始めている。

ja.wikipedia.org

 行をするタイミングが「いつでも、どこでも」「臨機応変に」ということも時に重要になる場面もあると思う。例えば祈祷をする場合など。ただ「自行」のための毎日の行は「同じコンディションで」ということも重要かな、と感じている。
 その生活のリズムは主に就寝時間と起床時間が大きなファクターになるのだが、私の場合「行」での集中力を邪魔する最たるものが「睡魔」です。これがあると途端に行の精度が落ちる。「言い間違い」「つっかえ、つっかえ」酷い時には「ふらっ」と意識が眠気で飛んでしまうことも。

 これを回避するには「行の時間に眠気を感じない」ような生活のリズムを整える工夫が必要と考えた。つまり行をする時間には「眠気」が起きないように生活のリズムを「日常から」意識する。

 「日常」というのは「毎日」の積み重ねなので、実はもっとも「自行の積み重ね」に影響を及ぼすファクターかな、と感じるこのごろ。

 私は「檸檬」の体内時計の正確さに感心しつつ……生活の乱れがちな私は大いに反省し、自戒の意味も込めて記事にしました。

 

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猪と女神

 前に「近所の里山で修験を」「里山に祈りの痕跡を見つけましょう」という記事を書いたことがあった。

 私もその一環で、仙台市内の里山には意識的に登るという習慣を持つようになった。とはいえ「修験装束を着て」というところまではやっていないので「修行」というよりは「登山」なのだけれど。

 そして、かみさんも毎回同行していのだが、毎回ちょっとした「事件」が起こる。

 なんと、ほぼパーフェクトの確率で「イノシシ」に遭遇するのだ。もちろん危険なのだが、今のところは襲われるような場面には遭遇していないので事なきを得ている。

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 確かに仙台市のいたるところに「イノシシ柵」が設けられているのを見ればきっと畑へのイノシシの被害が多いのだろうことはボンヤリ理解していた。だから里山にだって多くのイノシシがいておかしくない。

 しかしである。

「毎回、毎回イノシシに出くわすか?」

と疑問に思う。

 また、かみさんはたまたま帰郷していた次男を連れて里山トレッキングに言ったときも(つまり私がいないとき)「またイノシシにあった」という。

 ここからはいつもの「妄想タイム」なのだが、「これは私ではなく、どうもかみさんがイノシシ引っ張ってきてるな」という気がした。

 かみさんが「亥年」だったら短絡的に納得するには好都合だったのだが、むろん違う。


 イノシシと神仏の関係と言えば「摩利支天」を思い浮かべる人が多いのだと思います。猪の上に乗る姿はあまりに印象的です。

youtu.be

 

 しかし、私は摩利支天とのご縁はあまり強いという印象がない。

 だから私がかみさんの「毎回イノシシ遭遇事件」の話から咄嗟に思い浮かんだ神仏は七母天のメンバーである「遮文荼(しゃもんだ)天」だ。

 七母天といえば、私と非常に縁のある「焔摩天」の眷属であり、インドではヤマ(つまり焔摩天)の妻とされ、准胝尊の「容像形成」に大きな影響を与えたドゥルガーの眷属でもある。

 ただし、遮文荼はチャームンダーの音写だが、本来のチャームンダーは猪面ではないので、日本の遮文荼は七母天の他のメンバーであるヴァーラヒーと混同されたものと言われる。

 確かに遮文荼天は「女神」だけど、かみさんが素直に「猪面」の女神を信仰するとは今のところ思えない。

 ただ、ボスである「焔摩天」や「七母天」と同じく焔摩天の眷属である「荼枳尼天」は私の守護神にとお願いしてる尊格、私が強く関わっていく尊格なので今のところは「様子見」で良しとすることにした。

 私は、かみさんの信仰を念頭におきつつ、今まで以上に七母天の中でも「遮文荼天」を意識しようと思う。

 師僧のブログでも「猪面」の詳しい考察があるのでご参考までに

konjichouin.hatenablog.com

 

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その批判をグッと飲み込め!手酌で黄金水を注げ!

 今日は私が最もリスペクトしているビジネスパーソンの動画を紹介します。仏教、信仰に熱心な方も是非参考にしてほしい動画です。

 今回紹介する方は、「鴨さん」こと鴨頭義人(かもがしらよしひと)さんです。

 今ではYoutubeで100万人以上の登録者数を誇っているので、ご存知の方も多いと思います。

 肩書は「炎の講演家」だったり「Yotube講演家」だったりと「話すこと」の生業としている方ですが、もともとはマクドナルドで伝説的な実績を残したきた生粋のサービス業のスペシャリストでもあります。

 私は最初「講師」という仕事柄「話す技術」を学ぶために好んでこの方の動画を見ていましたが、最近では「話し方のテクニック」よりも「教育」とか「生き方」とか多くの学びがあるので完全に「鴨さんファン」になってほぼ毎日この方の動画を見ています。

※実は私のような人が大勢いてそんな人たちを「鴨チューバ―」と呼ぶようです(笑)

 鴨さんは「見た目」のインパクトがありすぎて?しょっぱなは「うさんくさい」と嫌悪感を示す人が多い事と、動画を見ていると「聞き手」のリアクションがオーバー過ぎて「気持ち悪い」と感じる人とがいます。見た目の嫌悪感は仕方ないとして?(私は全く感じませんが)、「聞き手のオーバーアクション」に関しては、鴨頭さんの教育の中で「聴き力」を養うために「オーバーアクションの練習」のためにワザとしているので、それを知らないと「わざとらしい盛り上げ役」とか「カルト宗教みたい」とか感じてしまうようです。

 さて、前置きが長くなりましたが、今日紹介する動画は、最近、なにかと聞くようになった「承認」の話題を解説している動画です。

youtu.be

 心理学をかじった人間は「承認」と聞くと「どうせ、またマズローでしょ?」と分かったような顔をするのですが、鴨さんのはちょっと違います。リーダーやマネジャーで「部下」「後輩」の教育に少しでも携わる人、もしくは「子育て」をしている人には是非とも見ていただきたい動画です。

 また後半(7:00くらいから)の「バケツの話」は、ここでも何度か話題にした「利他」「衆生救済」「偽善」という話題に多くのヒントがあるように感じます。いや少なくとも私はこの動画にある「バケツに黄金水を手酌で注ぎ続けるしかない」という行為はかなり衝撃を受けました。鴨さんが動画の12:00近辺で「もう祈りに近いよね」といったとき「ザワザワ」したのを憶えています。

 私の周りにも「バケツ」に黄金水がたまりにくい人と思える人が何人かいます。言い方を変えれば「自己肯定感の低い人」です。

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 彼ら彼女らが「なぜいつも批判的なのか」「なぜ悪口が好きなのか」「なぜすぐに噛みついてくるのか」「なぜ両親を憎むのか」と疑問を感じると、ついついイライラして「反論」したくなります。

 しかしこのバケツの話を思い出すなら……「批判」をすればこんな自己肯定感の低い人たちの「バケツにある黄金水」の量を減らしてしまうのです。

 だから私はその「イライラ」をぐっと飲みこんで、今自分ができる黄金水を注ぐ「リアクション」をする努力をするようになりました。

 これは自分の忍耐力も試されるので決して楽な話ではないのですが「ビジネスパーソン」ですら「祈りだよね」といって実行していることを宗教家がしない訳にはいかない。そう思います。

 この動画に共感する人、反感を持つ人、色々いると思います。でもこの承認で救える人がいるならやってみてもいいんじゃないですか?

 

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涙がとまらない

あまりに感動したので、リンクします。

 

 

 

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在家でできる行

 在家信者時代に「在家星祭」の行を只管やっていた時期があります。

 現在は、ここに毎年拝受する家族全員の「星供」のお札をお祀りし、その名残で今でも供物には「ナツメ」を必ず加えてをお供えしています。

 さて、冒頭の話を読んで……

「え?在家信者が行できるの?」

と思われた方がいると思いますが、私が当時行っていた「星祭」は在家でもできるもので師僧が以下の図書で紹介されていたものです。

 在家の信者でも、毎日の勤行では満足できず「行がしたい」と思う人は少なからずいると思います……まさに私がそうでしたから。

 言わずもがなですが「密教」ならば「行がしたい」と言っても勝手に始めることは叶わず「伝授」が必要になります。そして行者を目指して「伝授」してもらうにも超えるべき段階が多くあってそう簡単に「伝授」までたどり着けるものではありません。

 「ではなんでこの行は在家信者なのにできるの?」

 という疑問が当然出てくるわけですが、その答えはこの行の典拠が密教経典ではなく、中期大乗仏教経典である「金光明最勝王経」だからです。

 「金光明最勝王経」と言えば、聖武天皇は『金光明最勝王経』を写経して全国に配布し、また、741年(天平13年)には全国に国分寺を建立し、金光明四天王護国之寺と称された(ウィキペディア)』ことで有名ですね。

 このお経は上述の通り『インド中期大乗仏教』のお経なので「密教経典ではない」ということなるのですが、内容的には成立時期が「密教成立時期=後期大乗仏教」に近しく、内容もすでに密教的要素を多分に含んでいるお経として知られています。
 事実チベットでのこのお経は「密教経典」に含まれているようです(下記引用参照)。

「『最勝王経』は、高野山金剛峯寺において現在も毎年旧暦六月十・十一日に厳修されている「御最勝講」で論義される基本的経典であるが、チベットでも密教経典として扱われるので、密教と不可分の関係をもっているといえよう。(『金光明最勝王経』重顕空性品に見る空性論と実践論 古坂紘一より引用)」

 さて、上で紹介した「在家星祭」の行は、短いながらも緻密な作法になっており初行者の私から見て「ほとんど密教だな」と思えてしまいます。なんと本尊の略式開眼法まで解説されていますからね(驚)。ちなみに上の写真の中央にある尊星王菩薩の仏画は、当時本の通りに略式開眼を自分で行いました。

 また本尊の仏画は『仏画工房 楽詩舎』の白画に色を付けてもらったものです。

これです

rakushisha.ocnk.net

 当時、「星」に対する信仰が、いまいちピンと来ておりませんでしたが、この行をほぼ毎日2座、半年くらい(おそらく数百座)続けたので、「在家の行」と言えども「星」に対するご縁は多く頂けたものと信じています。

 「在家星祭」……冒頭でお話ししました通り「行がしたい」と前向きに考えている方にはお勧めです。

 

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