准胝院のブログ

八王子市で准胝仏母を本尊とする天台寺門宗祈願寺院「准胝院」のブログです。准胝仏母祈願、不動明王祈願、人型加持(当病平癒)、先祖供養(光明供)、願いを叶える祈願(多羅菩薩)、荼枳尼天尊(稲荷)の増益祈願等

鑑真和上に学ぶ「我を通すのか?神仏の意向を尊重するのか?」

 「英雄たちの選択」という歴史番組を何度かこのブログでも取り上げ、私はこの番組の「大ファン」であることをお伝えした。

www.nhk.jp

 その番組でつい先日、「鑑真」の特集があったので、仏教徒の私としてはとても興味深く拝聴することができた。

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 この番組の特徴は「すでに定説になっていること」はざっくり解説しつつ、さらに「最近の新説」とか「新たな仮説」ということを主要テーマに、その専門家たちがかなりエキサイティングな議論をするので、エンターテイメントとしてもとても面白い。

 今回の「鑑真」について、今まではあまり知られていなかった「なぜ聖武天皇は鑑真にこだわったのか(他の高僧ではいけなかったのか)」ということについて興味深い新説が紹介されていた。

 興味ある方はNKKのオンデマンドで見れるのでご覧になってみてください。

www.nhk-ondemand.jp

 さて、「歴史」については専門外の私がこの番組の内容をここで解説しても大したレビューはできないと思うので「仏教徒」視点で一つだけ「考えさせられた」ことがあったのでそれを紹介したいと思います。

 鑑真は日本への渡航を「五回」も失敗して、その過程で失明までしまった話はあまりに有名です。歴史教科書でも習うし、井上靖氏の小説「天平の甍」を読んで涙した人もいるかもしれません(映画化もしてますしね)。ちなみにかみさんは井上靖の歴史ものは結構好きらしく、「天平の甍」も好きな作品の一つだそうです(私は読んでいませんが:汗)。

ja.wikipedia.org

 さて、私はよくこのブログでも「神仏からの声なき声」に「気づく」ことの重要性を声高に語ってきました。時にはユングやミンデルといった天才心理学者の論説まで引っ張り出してきては「日常起きる何気ない出来事にも意味ある。それに気づいていく生き方こそ神仏と共に生きることだ」という話を力説してきた。

 それが間違っているとは(今のところ)思っていはいないのだが、この鑑真の話を突き付けられると流石にこの生き方に「手放しに」しがみ付いていてもまたそれは違うのではないか?と思えてくる。

 つまり「神仏の声なき声」を意識するなら、普通に考えれば「五回も失敗した」「失明までした」という困難に直面すれば「神仏からの声なき声」は当然ですが「日本には行くな」といくことを示唆していると解釈してしかるべきだと思われます。

 当然鑑真だって「仏さまのご意志は中国に残れという事か」と何度だって思ったであろうことは想像に難くない。

 では果たして、鑑真が遭遇した、ここまで明確な「困難」にぶつかっても「それを推してまでその目的を達成しよう」としてしまうのは「神仏の意識に背いて自分のエゴをごり押しする」という、ネガティブな態度ということになってしまわないのか?

 結果、鑑真は最後には日本への渡航を達成し、日本ではじめて「戒壇」をつくり、正式に「戒を授ける」という日本の仏教史において歴史的な「功績」を残すことになります。

 この「英雄たちの選択」の番組内では、その功績は日本の仏教界のみならず、日本という「国家ができる」ためになくてはならないターニングポイントだっとすら解説していました。

 ……そんな偉大な功績は「日本に渡航する」ことを諦めなかったから達成したということ。言い方を変えれば、一見すれば「神仏の意向に背くような」無理強いをしてとった行動が最後にはそれが正しい判断だったという事になる訳です。

 私はちょっと困難にぶつかると「これは止めた方がいいという神仏からのシグナルだ」と臨機応変といえば聞こえはいいが、結局は「安易に」方向(方針)転換をすることはざらにあります。

 だから、今回、この「鑑真」から学ぶべき教訓は「諦めるための言い訳」に「神仏」を「安易に」持ち出すべきではないということでしょうか?

 もしくは「時」という要素をもっと意識することでしょうか?つまり「それはやめておけ」ではなく「『今は』やめておけ」という柔軟性を持たせるということ。

 

 この話を考えれば考えるほど「神仏の意向に従う」ということの難しさを感じました。

 

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知られなければ、いないのと同じ

 衆生無辺誓願
(生きとし生けるものの数は限りないが、誓って救いとることを願う)

 五大願の冒頭で、毎日お唱えし、その誓願を「心に刻む」ことが習慣になっているはずである。しかし「唱え」て「心に刻む」だけでいいかといえばもちろんそんなことはないはずです。

 それをするために「具体的に何をしているか?」ということは本来意識して然るべきです。

 「おまえは具体的に何をしてる?」

 と自分に問うてみる。

 なさけないことに即答できない自分がいる。

 ここに「都合に良い言い訳」がある。

 「いるだけで救える」という話。

 仏教の修行をしていれば、その人の存在そのものが周りに良い影響を与えて自分が意識的に「救おう」という具体的なアクションを起こさなくてもOKという考え。

 この「都合にいい話」をさらの推し進めて究極にしてしまうと……

 前に一度記事にした「レインメーカー」のエピソードになってしまう。

覚えてますでしょうか?忘れてしまった人は前の記事を是非読み返してほしい。

ryona.hatenadiary.jp


 これはその人の存在が「場を整える」ので人に関わる関わらない関係ないという究極の姿がある。

 出所は忘れてが、天台大師智顗もそれができたとどこかの記事で読んだことがある。

ja.wikipedia.org


 「いるだけで救える」という話は「バタフライエフェクト」なんてSFのタイムマシン物で頻出の単語を持ち出せば「さもありなん」という気にもなってくるが、もちろん我々大乗仏教徒がそれで(いるだけで救えるから何もしない)で良いはずがない。

ja.wikipedia.org

 少し話が変わるが、最近では「お金」よりも「影響力」が欲しいという有名人を多く目にするようになった。これはSNSにはじまりいまではYoutubeなどの動画発信サイトで自分の声がどれだけ多くの人に届くかに価値を置く人が増えているということ。インフルエンサーという言葉もすっかり市民権を得ていますしね。

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「慎ましく生きる」

 宗教家には、どこかそんな生き方をするべきなんだ、という「イメージ」がついて回るように思う。

 だから「企業」が行うような「発信」……分かりやすく言えば「広告」に関してはネガティブな態度をとる人が多くいるように感じる。「発信」だろうと「広告」だろうと多くの人に自分の存在を知らしめるという意味で大差はないと思う。

 しかし理屈で考えれば「多くの人に声が届く」方がより多くの衆生を救済することができるのは火を見るより明らかである。

 でもやはり宗教家は営利目的の企業ではないからと、「マインドブロック」が働く人が多い。

「知られなければ、その商品はないのと同じ」

 これはよく企業の「広告」の重要性を説く論説で言われる文言。これを少し我々むきにアレンジするとこうなりますでしょうか。

「おのれの存在が、誰にも知られなくば、おのれはこの世に存在しないのと同じ。だからおのれの仏教徒としての教えは、この世に存在しないのと同じ。誰にも布教できなくてどうして大乗仏教徒といえようぞ」

 これは我々も十二分に噛みしめるべき言葉と思います。

 私は少なくとも「いるだけで」で周りに影響を与えるような徳の高い存在には当分(一生?)なれそうにないので、積極的な「発信」は今後も続けていく必要がありそうです。

 こと「発信力」に関しては「慎ましく」というマインドブロックがかからないよう意識的にその「ブロック」を外しにかかっています。

ひよっこの癖に何を偉そうに」

「初行の分際で」

「お前が語るな」

etc……

 「発信」をすることでそんなことを言われるリスクは当然承知しています。でも私は大乗仏教徒として「いないのと同じ」存在にはなりたくないので、そのリスクを受け入れてでも「発信」を続けるという「選択」をしました。

 

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重要なエピソードは幼少期に出そろう~倶利伽羅龍との出会い~

 密教に登場する神仏の尊格はあまりに膨大でなかなか全ての尊格のことを詳しく知っておくことは難しい。

 だから私の中の最低限のルールとして自分がお迎えした仏像の「尊格」については掘り下げて詳しく調べるようにしている。ただそれは「ルール」といっても「義務感」からではなくてむしろ「自分にご縁のあった尊格」という意味で、興味を抑えきれずディープにディープにそれを調べてしまうというのが本音。

 また将来的にそのご尊格で祈祷をするとなれば、その尊格のことをより知っていれば祈祷の応用の幅も広がるのでは?とも考えている。

 さて、もう一つ。

 私がお像を迎えた時にやることは「過去の記憶をたどる」ということ。深層心理学者のユングはその人にとって重要なエピソードは幼少期に出そろっているといいます。

 だからきっと幼少期を辿ればどこかに「ご縁」がすでに結ばれていたのでは?なんて想像を巡らすのは自分の信仰を確かめる意味でも興味深い試みだと思いっている。

 昨日の記事の通り「倶利伽羅龍王さま」のお像にお越しいただいた。

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 記憶をたどると、私の幼少期の遊び場の一つに「東村山市」の「秋津神社」があった。

ja.wikipedia.org

 物心ついたころから神社境内で遊びまわったこの秋津神社。その神社のことを調べてみると、主祭神は「日本武尊」とあるが、実際に本殿に祀られれているのが江戸時代初期の「不動明王」の石仏だった。例によって明治政府の神仏分離で祭神が日本武尊に改められ、現社名に改称されたようなのだ……そこにまだお不動さんのお像がまつられているのに……なんともなあ。

 明治以前には「秋津の不動」と呼ばれ地域で信仰されていたそうである。

さて、その境内を紹介しているサイトがあったので写真リンクします。

http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/46/c9/90d4347fb200ad2ef409f01218f4adc1.jpg

 たいそう立派な倶利伽羅龍王の石仏です。

寛延三庚午年九月吉日 武州多麻郡 下秋津村」と彫られているそうなので1750年江戸初期ですから、この石仏も本尊と同時期に作られたのでしょうか。

 それほど大きな境内ではありません。

 むろん子供の頃間違いなくこの「石仏」を何度も見ていたはずです。

 拝んだこともあるかもしれません。

 「あの頃からご縁があったのだ」

 私の中ではそう合点がいきました。

 そういえば昔、自転車の「補助」を外して始めて乗れた場所がここだった。父親に自転車の後ろから支えてもらいながらペダルを漕ぎ、父親が手を放してからフラフラと一人で自転車を走らせて喜んだ記憶が蘇る。

 あの時、後ろから龍王さまが押してくれてたのかな?なんて想像しながら自分の中での「ご縁の歴史」「ご縁の長さ」をしっかり心に刻み込む。自己暗示かもしれないけど、やり方はきっと間違っていない。

 

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倶利伽羅龍王さまのお像

 私には「気になるお像があるとすぐに手に入れたくなる」という悪癖?があります。これはこのブログの記事で何度も書いている通り「信仰」の前に「仏像マニア」という経歴を併せ持っているために「お像」への関心が高いのは自他共に認めるところです。

 そのため、以前は(今はそうでもないんですよ?)考えなしに「お像」をもとめて「開眼お願いします」とお寺にお像を持ち込んでは師僧を困らせ、また時に厳しくご指導もいただきました(滝汗)

 さて、そんな私が先日の護摩加行で炎が「倶利伽羅龍王」様に出現しました。

 さて、私は何を思ったか?

 ご想像の通りです。

「せっかくお出ましいただいたのでお像を手に入れてご供養せねば」です。

 以来、オークションで「倶利伽羅龍王像」を探すこと一か月。なかなか見つかりません。絵画はあってもお像はほぼ出品されていないんですね。新品ではいくつか見つかったもののどうも私の感性に合いません。

「まあ、気長に出品されるのを待つか」

と長期戦を覚悟しておりました。


 ところが……

 昨日、突然師僧より倶利伽羅龍王のお像を賜りました。

 あまりのタイミングに驚きました。

 「実は探していたんです」

 「そんなことだろうと思ってたよ。また変なお像買ってきて開眼してくれって言ってきそうだからな」

と、見抜かれてしまっておりました……

 「は、はい……その通りです。でもなかなか見つからなくて困ってました」

 「そう簡単にある訳ないだろ。これだって作らせたものだから」

 とのことで、木彫りの儀軌に忠実な立派過ぎるお像に平身低頭の思いでした。

 今は毎日、自行で不動明王さまの供養をしているので、まさにお不動様の前に安置し、お不動様の化身でもある倶利伽羅龍王さまも毎日ご供養させていただこうと思います。

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護摩の炎と並べてみました。

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日常生活の中での修業の難しさ

 「加行」と呼ばれる初行では完全に「娑婆世界」、つまり「日常生活」から隔離された状態でただただ神仏と向き合うという修行をする。「日常生活から隔離される」という意味では現代社会に住む我々は、それを「厳しさ」として経験することになる。

 

 私は一か月前に行った「加行」はまさにそう言った修行であった。しかし今は「補修」として自宅で毎日「加行」を続けている。

 

 この場合、当然だが「日常生活から離れて」ということは不可能で、仕事に行き家族や知人とのコミュニケーションもありという中で修行になる。

 

 これは日常生活から離れないでいいから「楽」という面はあるにはあるのかもしれない。しかし、日常生活に接しているからこそ「厳しい」面が実は多くあるのだ。

 

 昨日から今日にかけてそれをまさに経験する。

 

 昨日、仕事上でちょっとしたトラブルがあった。私はその件で、精神的にかき乱された。具体的にはそのトラブルを思い出すたびに「怒り」の感情に捕らわれてイライラが止まらなかった。

 

 「怒り」にもいろいろあると思うが、多くの場合そこには「怒り」を向ける「人」が存在する。今回の私の場合がまさにそうだった。

 

 だから知らず知らずに「怒り」を心の中で「その人」にぶつけてしまう。

 

 そして、このような状況で「修行」を行うことになるのだ。

 

 なんとも恐ろしいのは本来「神仏」と対話するはずの場面で、そのトラブルの張本人の「その人」に対する怒りの感情を「このやろう」とばかりに吐き出している自分に気づきゾッとした。

 

 こんな経験をすると日常から離れての修行では決して経験できない「厳しさ」「難しさ」がそこに存在することを痛感する。

 

 そして自分の未熟さをいやと言うほどに突き付けられる。

 

 激しく怒り、そしてそれを制御もできず、さんざんな行をして「自己嫌悪」で泣きたくなった。

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 ……今朝、行を終えて、暗い顔でリビングに戻ると、私に気づいた猫がお気に入りのマットの上で「きょとん」と私を見た。

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 その姿が愛らしく、落ち込んでいた自分なのに「ふと」ほほ笑んでしまった。

 

 今朝は少しだけ猫に救われ、そのタイミングでそこにいてくれた猫に感謝した。そして、これも「日常」だからこそだとも思った。

 

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「根拠のない信頼」のもつパワー

 「根拠のある信頼」と「根拠のない信頼」

 どちらが強いでしょう?

 先日もこのブログで取り上げた「我が家でマイブーム」となっているアニメ「赤毛のアン」をみて「根拠のない信頼」がより強いと感じるエピソードがあった。

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 ご存知の方も多いと思いますが、赤毛のアンの主人公「アン・シャーリー」は後半、とても優秀な学力を発揮して地元の学校でも常にトップ、そして名門校の試験でもトップ合格を果たします。

 そんな優秀なアンは「コンサートで詩の朗読をすることになりプレッシャーで押しつぶされそう」になったり、「試験で上位合格できないのでは」と不安になったり「大学への奨学生として選ばれるか」と思い悩んだり……そんなシーンが多く登場します。

 「どれほど優秀か」を「リアル」に分かっている友人たちはいつも「心配ない」と励まします。これは「根拠のある信頼」ですね。アンの実力をいつも目の当たりにしていますから。

 ただアンはいつも友人の励ましでは、なかなか心を落ち着けることができません。そしてアンを不安から解消するのはいつも育ての親であるマシュー・カスバートという人見知りで、無口な老人のこの言葉でした。

 「わしのアンが誰にも負けるはずがない」「わしのアンができないはずがない」

 マシューはおそらく学校もでておらず?アンの成績のことなんか正直よく分かっていません。つまりマシューの言葉はいつも「根拠がない」のです。

 周りから(特に妹のマリラから)は「何も分からないで勝手なこと言いなさんな」と窘められますが、マシューは決して論を曲げません。

 普段は無口で自己主張を全くしないマシューなのに、アンのことになると、いついかなる時でも「わしのアンが負けるはずがない」の一念で全ての反対意見を受け付けないという頑固さを見せます。

マシュウの愛www.pixiv.net

 結局、アンは常に友人ではなくマシューの言葉を思い出すことで不安に打ち勝っていきます。友人たちの「根拠ある信頼」ではなくてマシューの「根拠のない信頼」の方にこそ力があったというエピソードです。

 私は普段無口なマシューが執拗に「わしのアンが負けるはずがない」と食い下がるシーンに涙がでました。全幅の信頼とはこういうものかと思い知らされました。

 

 また、実は「信仰」「信じる」も実は同じなのではと考えさせられました。

 

 「根拠がある信頼」は「根拠がある」のだから信頼というよりは「予想」に近いんですよね。

 しかし、そこに根拠がなければ……全幅の信頼をするなんて簡単にできることでありません。だからそれができた時、人の心を動かすことができるのだと思い知りました。また、きっと神仏への「信頼」もこれに近しいものに違いないとも思いました。

 

赤毛のアン」……この作品が全世界で愛させる理由を、今日は涙しながら実感することになりました。

 

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「言い訳」という負のスパイラル

 人間というのはつくづく「私も含めて」なかなか自分の非を認めたくない生き物だと思う。

 私は二十代のころ(あったんですよ、私にも二十代:笑)、座右の書としていた図書に「デール・カーネギー」がありました。「人を動かす」「道は開ける」の二冊が有名ですが、個人的には「道は開ける」が好きでよく多く読みました。

ja.wikipedia.org

 仕事に不慣れな若いころに、仕事で思い悩んではこの著書に何度救われたことか……

 

 さて、このカーネギーのロングセラー「人を動かす」の冒頭に、ある凶悪犯のエピソードが書いてあります。

 その凶悪犯は、『免許証を見せてくれ』と頼んだ警官を何も言わずに乱射するという極悪非道な人間です。誰の目から見ても「悪」です。しかし、彼自身は自分のことをどう思っていたのか。なんと死刑が執行されるその瞬間になっても自分は悪くないのになんでこんな目に遭わされるんだと本気で思っていた……というエピソードです。

 そしてこのように多くの犯罪者が自分は間違っていないと信じ切っている人多くいると聞きます。

 この意味するところは、なんだと思いますか?

 これは何も犯罪者だからそう思ってしまうのではありません。自分は悪くないと思うのは人間の特性です。例えば明らかに自分が悪いのに全く非を認めようとしない人、このような人がいてイライラした経験皆さんにもあると思います。

 それは、人は批判されると『自分を守るため』に自分を正当化しようとする本能があるからだということです。

 だから、人は他人から批判されると簡単に「間違い」を認めようとしません。

 

 ここで少しだけ心理学的な話をしますと、このように「非を認めない」人の特徴として概ね2つの原因をよく聞きます。一つは「プライドが高い」もう一つは「精神性が低い」です。

 ただこの二つの根っこにあるのは共通していますね。

 つまり表現を替えれば「自分を守ることに必死」です。少し心理学的用語を使えば「自我を守ることに必死」となりますね。

 このような特徴を示す人は「精神性が低い」というセンテンスで概ね予想できる通り、基本的に「自己肯定感が低い」という特徴があると言われます。

 だから批判されて、自己肯定感が下がってしまうことを何よりも「無意識に」恐れている。「無意識に」というところが厄介ですね。だから本人にその自覚はもちろんありません。

 私も仕事場では「部下」や「後輩」がいます。彼らの中には注意するとまず「言い訳」から入る人がいる。なかには最後まで「自分が悪くない」と頑張ってしまう人もいます。そんな彼らを見ていると「すいません」の一言をいうことがそこまで「恐ろしい」ことなのと閉口してしまいます。

 

 そんな「他人」のことを偉そうに言っている私ですが……

 私もそんなことしょっちゅうやらかします。

 特に仏教の修行という場面では、それがより「シビアに」試される場面に遭遇することが多くあります。

 私が先月行った護摩行。

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 その行をするための伝法や準備で、一日おきに二日間、行をする道場となる師僧のお寺にお邪魔していた時のことです。一日目に自身が行う「行」のと為に内陣の準備をおおかた終えて、その翌々日に再度お寺を訪れました。

 ただ朝、お寺に入るなり師僧からかなり厳しく指導が入りました。理由は護摩の灰を入れるバケツが庭に置きっぱなしになっていたからです。師僧からは「今回だけは私は許すが、本尊が許すとは限らない。だから行中どんな障礙があるからしれないからそのつもりで行に挑め」と厳しく諫められました。

 この時、私は危うく「あ、それは私が置きっぱなしにしたものではないので」と口から出そうになりました。しかし「幸いに」寸でのところでその言を発することを止めました。それはきっと私が訪れていた2日前にもそこに置かれていて、内陣で準備をしていた時に、内陣にそれがないことに気づけなかった私にも落ち度があったことが間違いないからです。そしておそらく師僧も、この「言い訳しやすい」場面で「分かっていて」私の反応を試されているように思いました。

 また、少し「宗教的」に話を振ると、これも師僧が試したことと同時に「神仏」にも試されていると解釈する目を我々は持っていないといけないと思いました。つまり「護摩加行」という重要な行の直前に、このような「トラブル」をどう受け止めることができるのか?私はきっとそれを神仏から試されたと後から思いました。

 今にして思えば、あの時には既に護摩の加行がスタートしていた、そう思えてなりません。

 

 さて、「言い訳」は必死に自我を守っている「私」も無意識にそれに気づいているといいます。つまり「言い訳」という行為そのものが、自分の自己肯定感の低さを認めてしまっている行為=自己肯定感をさらに下げてしまう行為→さらに言い訳がましくなるとまさに負のスパイラルに捕まっている状態。

 だからその「負のスパイラル」を断ち切るために、その根っこにある「自我を守ろうとする自分がいる」に気づけるかどうか?難しいようですが、「あ、これは言い訳だ」と気付けるかどうか。

 「言い訳しない」……結果的にそれが自己肯定感を上げる第一歩だと感じています。

 

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