准胝院のブログ

八王子市で准胝仏母を本尊とする天台寺門宗祈願寺院「准胝院」のブログです。准胝仏母祈願、不動明王祈願、人型加持(当病平癒)、先祖供養(光明供)、願いを叶える祈願(多羅菩薩)、荼枳尼天尊(稲荷)の増益祈願等

雨乞いとシンクロニシティ

 今日は皆さんが大好きな(←勝手に決めつけてる)シンクロニシティの話をしたいと思います。

 分かりやすい例は「大きな古時計」でしょうか。

 おじいさんが亡くなった時に、その時計が止まった。偶然ですね。それはそうです。おじいさんが亡くなることと、時計が止まることに全く因果関係がありません。ただ私たちはこれが「ただの偶然」と知りつつも、他方では因果律を超えた「繋がりがある」と感じます。

 ユングという心理学者は、このように因果律を超えた(「非因果的な」と表現します)関係の存在を認めて、それを「意味のある偶然の一致」として「シンクロニシティ共時性)」と呼びました。

「下駄の鼻緒が切れ」て同時刻に「近しい人が亡くなった」なんて言う話もそうですね。

 めっちゃオカルトじゃない!って思った方が多いと思いますが、この話の本質はオカルト的なことではないんです(そう思っている人も多いのですが)。ユングだってオカルト話がしたいためにこんな説は唱えません!!(笑)

 この話のポイントは「その人が『意味がある』と感じた」というところ。

ですから、それを感じた人がいなければ、その偶然はただの偶然です。ただそれを観察して「意味がある」と感じた人がいれば、その人にとってその偶然は意味を持つと考えます。

 だから仮に、「下駄の鼻緒が切れて」「近しい人が亡くなった」ことに意味を全く感じなかった人にとってはやはりこのことは「ただの偶然」でしかないとなります。

 つまりシンクロニシティという概念は「観察者がいて初めて成立しうる諸事象間の関連」なんですね。

 では、その観察者にとってその偶然はどんな意味を持つのか?

 ユング心理学では多くの場合、その人の心が変容を起こすためのトリガーとしてこのシンクロニシティが起こると説明されます。

 ユング心理学というのは、自分が意識しようがしまいが「自己実現」という(ユングがが考える)人生の完成形に向かっているという仮説が前提にあります(「個性化の過程」なんて言い方もします)。

 その人の人生に問題があって、無意識サイドが「なんとかこいつ変わってもらわないと」と、無意識は色々な「事を起こして」その人が「間違ってるぞ」ってことを教えに来ます。ユングはそんな無意識の「変わろうぜ」という働きでシンクロニシティが起こると説明します。

 有名な故・河合隼雄先生の「無意識の構造」(中公新書)で紹介された一文を紹介します。

『勤厳実直な人がちょうど給料日の翌日に、昔の友人にひょっこり出会う。友人に誘われるままに競馬を見にゆき、そこで給料袋を落としてしまい、同情して友人が買ってくれた馬券が大当たりをする。これが、この実直な人の競馬に溺れて借金を重ねる話の始まりである』

 この人は「実直で真面目な人」なんだけど、きっと無意識の「完成形(自己実現)」の人生を歩むには「あまりに実直に偏り過ぎてしまったため」にこんなシンクロニシティを起こして歩むべき道への軌道修正を仕掛けてきたという解釈になります。怖いのは「自分で正しい」と思った人生が、無意識の側からすると「正しくない」可能性も大いにあるということになります。

 このように「意識」と「無意識」に乖離があるとこういった不幸が続くことになる。だからユング心理学では「意識」と「無意識」の齟齬を埋めていく作業が重要と考えます。

 ちなみにこの「意識」をアートマンに、「無意識」をブラフマンに見立てて「意識(我)」と「無意識(梵)」を結びつける(ヨーガ)「梵我一如」と同じだ、なんて強引な解釈をする人もいるようですが、私はこれについては門外漢なのでノーコメントにさせていただきます(この議論には乗りませんよ:笑)

 さて、ここでシンクロニシティについて「祈祷」と関連したエピソードを紹介したいと思います。

これもユングが大好きな「雨乞い(レインメーカー)」の有名エピソードです。

『中国のある地方でひどい旱魃があり、万策尽きた村人たちは、有名な雨乞い師を呼びにやった。しかし、その雨乞い師はその村に近づくなり不快そうな表情を見せ、一刻を争う事態だというのに、人払いをして村境の小屋に籠ってしまった。ところが、それから三日後、多量の雨のみならず、雪さえ降ったのである。驚いたヴィルヘルム(リヒャルト・ヴィルヘルム。ユングと親交のあった中国学者。「黄金の花の秘密」という道教書の訳書が有名。この本でユングが解説をしている)がそのわけを問うと、雨乞い師はこう答えた。この村と村人たちはタオから外れており、自分にもそれがうつってしまった。そこで小屋に籠もって、まずは自分がタオに戻るようにした。雨や雪が降るのは当然のことではないか、と。(「無意識に出会う」老松克博著・トランスビュー社)』

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 「タオ」という表現があるので、きっとこの雨乞い師は道教の術者なんでしょうか。この雨乞い師は小屋で「瞑想」をして自身が「タオに戻る」ということに専念したと想像できます。ユングはここで言う「タオに戻る」ということが「自己実現の道に戻る」と同義だと捉えているのだと思います。

 つまり雨乞い師がこの村に関わった時点で(仏教的に言えば縁を持った時点で)、旱魃という場の「一員(観察者)」になってしまったということ。

 だからこの雨乞い師も影響を受けて、彼の「自己実現の道」に歪みが生じてしまった。そして、その場の一員(観察者)として雨乞い師が瞑想をすることで、雨乞い師の「自己実現の道」に修正がかかり、その村(雨乞い師もこの時は村にいる存在)の歪みも同時になくなってしまったという話です。

 この雨乞い師の話にように、ユングはこういった無意識の働きは周囲に伝染していく(同時発生する)と考えていたようです。だからシンクロニシティという話題でこの例を好んで話したのだと思います。

 この話は密教の祈祷とはちょっと考え方は違う感じがまします。

 でもこんな風に考えてみると共通点もあるのかも?と思ったので参考程度に一応記しておきます(賛否あると思います)。

 この話は行者が祈祷の依頼者と縁を結んで依頼者の「場に」関わっていくという部分では共通しています。そして文中の「タオに戻る」ことが「仏に帰依する」と解釈すれば、「その祈願が縁になって仏道に進むことができた」という話と齟齬はありません。

 だとすれば「祈願」というのはやはりその人の人生の進むべき道(自己実現)に向かわないなら叶わないと解釈できます。私利私欲で仏の道から外れる祈願は叶わない。逆に祈願が叶ったのなら、それが自己実現(仏の道を進む)のための一歩になっている可能性がある。etc……なんて想像してみました。

 わざわざ心理学で解釈し直すことは野暮だとは思いますが、こういう解釈をされたほうが「受け取りやすい」ならこういった「方便」も必要かな、なんて思って敢えて記事にしてみました(^^)

 

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