一昨日書いた記事。
あまりこの話題を引っ張るのも良くないとは思うが、先の記事で「見て見ぬ振りしない」と言った以上、私なりの見解をさらに述べたいと思います。
先の記事でコメントを頂きたましたので、私はこのように返答しました。
『先入観なしにこの絵を見たら私は「素晴らしい」と言ってしまうと思います(^^;
心の底が顕現しているという意味で人間の琴線に触れること自体はいいのだと思います。それは無意識は普遍的であるという意味において、それは「個の善悪」を超えていえると思うから。
だから「否」と言えるのは「個」が混ざりこんだ「その部分」を感じれるかどうか?なのかな?とも思う。
難しいですね……』
私はこのブログで「深層心理」の話題を多く取り扱ってきた。その根幹にあるのは最も奥にある「無意識」の層は、人類普遍であり、きっとそれは「底」では繋がっているだろうということ。
深くに行けば行くほど「触るな危険」の領域であって、最奥の無意識の中心に触れようとして命を落とすという例が実際にあるということをきっとどこかの記事で書いたと思う。
だから「その奥の部分」が顕現すると、人は誰でも心動かされてしまう。それは人間誰にも共通で(普遍的で)、触ってはいけない領域だからこそ心乱され、時に魅せられてしまう。
ある意味、「あの絵」はそんな魅力を放ってしまう「危険」を大いに漂わせていたのだろうと思う。
そんな危険な領域に不用意に接近したからこそ、彼は自我肥大を起こし制御不能になった。悲しいほど教祖が陥いる「テンプレート」と言っていい程の罠に陥った。彼の言動を見ればおおよそ想像がつく。
「触れてはいけない」ところに触れてしまう人はいる。DNAかもしれないし、育った環境かもしれないし、意識的な深層心理への接近が原因かもしれない。
ただ我々がまず知っておくべきは「無防備で近づいてはいけない」ということ。深層心理学、特にユングはその危険性に触れ、それを回避するノウハウを具体的に提示している。
でも近代の心理学者を持ち出すまでもなく、仏教では魔境という名で昔からその危険性は熟知していた。我々がする密教は、敢えてその「危険な領域」に近づくことをする。ただその密教の法が長い歴史の中で洗練されてきたという意味で、「如法」を忠実に実践すれば、その危険からは回避できる。
逆にそれをしなければ簡単に自我を失い狂人と化すリスクもある。そのことは慎重に慎重を重ねてもやりすぎることはないと思う。
気づけば無意識の暴走に振り回されて、生活が、人間関係が、身体の不調が、刻々と訪れる。私も痛い程経験した。この先もないとは限らない。
上では方便で「無意識」という言葉を用いたが、私の中ではそれは「神仏の領域」と認識している。
当たり前だが、神仏の領域に「必要以上に」「深く」近づくことが「危険」がない訳がない。
誤解をしてほしくないのは仏教を信仰することイコール即「危険」と言っている訳ではない。神仏に必要以上に近づこうとすると、ということを話しています。ただ時に熱心過ぎる「信者さん」でも起きうることだと思います。
だから深く行き過ぎて「あれ?なんかおかしい」と思ったときはアドヴァイスができる行者さんを頼った方がいいと思います。
さて、中にはどうも「ピンとこない」という人もいると思いますので、お勧めの本を紹介します。
「(心の)深いところ」にあるものの「魅力」と「危険」を知るのにお勧めの本です。まだ無意識と未分化の子供を命がけでカウンセリングする著者のスリリングな体験談がとても参考になります。読み物とのしてもとても面白いです。
★ご相談はこちらから・准胝仏母道場リンク★
記事が面白かったら
クリック↓お願いします!