コメント返信シリーズです。
前回の下記記事「夢のメッセージにどう付き合うか」に「どうたぬきさん」からコメントを頂いたので返信をしたいと思います。
コメント
行中に出てくる神仏の声は、禅宗でいうところの「魔境」なのでしょうか?
幻視のある人と多数関わりましたが、この手の幻はかなり能動的なのかな。
病と瞑想の体験は違うもの、というのはわかっていますが、私の場合は無意識との対話は相当プロテクトかけています。
能動的に無意識と向き合うって、相当自分自身での研究がなきゃ無理じゃないですか?
いつもコメントありがとうございます。
このブログは「カテゴリー」が仏教なので、記事についても「仏教視点だろう」という意味合いが付されてしまいますが、先の記事(『夢のメッセージにどう付き合うか』)に限っては完全に「心理学視点」で書いています。
それを踏まえていただくと、スタートとして、例えば「幻視、幻聴」はむろん「無意識の主張」として書いています。
これらは仏教的には「魔境」として遠ざけますが、深層心理学的には無意識の声を聴いてあげる(無視しない)を「よし」と考えます。
ですから「魔境と同じか」という問いは、とても難しい問題だと思いますが、上述したように禅の目指すところが「三昧」であるなら、「取り合わない」が正解なのだと思いますが、心理学的に無意識を取り上げる場合は、目的は「三昧」ではないので、無意識の声を救い上げ、無意識が悪さをしないように「生き方を替えるべく、人生のヒントにする」というプラスの情報を引き出そうとするのを「よし」と考えます。
むろん密教の行では「三昧」を達成するという側面があるので「幻視」「幻聴」には過度に関わらないが正解かもしれません。ただ、自行であれ化他行であれ仏と一体になる法の最中に現れる神仏を「全て魔境」と捨ててよいのか?という問いに関しては慎重な態度が必要だとも思います。特に私のような初行の者のは。
ただ、冒頭で書いたように、「心理学的視点」に立てば「神仏」の名を借りようと、借りまいと、「少なくとも表に出たがっている無意識の声」と言う意味で「無視はするべきではない」と思います。
例えば、「どうせ無意識の雑音だ」と思っても、万が一神仏の声だったらどうするの?という思いもない訳ではない(笑)
…… …… ……
次に「能動的」という言葉の説明を補足しておきます。
先に「心理学的スタンスで記事を書いている」と記しましたが、心理学的には「無意識に近づきすぎると危険」という考えが根っこにあります。
理由は小さな小さな「意識=私」に対して無意識のパワーがあまりに強大過ぎるからで、本来意識がコントロールできる代物ではないから。本来的には適切な距離を保つべき存在と言う意味で「無意識」は「触らぬ神に」という一面がおおいにあります。
だとすると無意識に近づくには「それなりの防衛策」が必要と言うことになりますが、その最たる武器にが、例えばユング心理学では「能動的」という態度とされます。
能動的=アクティブと訳すと「ピン」と来る人もいると思いますが、ユングが「夢分析」と両輪とした「アクティブ・イマジネーション」というイメージ法で重視されるテクニックです。
アクティブイマジネーションとは、例えばテーマを決めて、そのテーマからイメージを膨らませて浮かんでくるストーリーを書き留めていく作業です。最初はただの自作の妄想ストーリーが大抵展開していきますが、だんだんとそのストーリーが勝手に動き始めます。
さらに、だんだん無意識の介入が大きくなると自分では思いもよらないストーリーが浮かんでくるようになります。
その時に、浮かんでくるままのイメージを「受動的に」受けてつづけると精神的に「やられてしまう」ので、「意識(私=自我)」がしっかり能動的に介入する必要があるという説明になります。
つまり流れていくままにイメージを追うのではなく、イメージの中で主体的に行動を起こし、イメージがどう変化するか、という応答を常にやり続けることが肝要ということ。あくまで自分の行動(アクティブ)が先でイメージは自分の行動によって引き出される「結果」になるようにしていきます。
先の記事の中で幻視、幻聴の「神仏」や「霊」に「勝手にしゃべらせない」と書いたのはこの説明を意識して書いていました。
私の場合は、良くも悪くも深層心理学の影響を強く受けてしまっているので、幻視、幻聴の類を手放しに「神仏のメッセージ」と受け取れないという、「癖」があります。だから自称霊能者の方にはめっぽう嫌われる(笑)
例えばスピリチャルに傾倒する方は、「神仏の声」じゃなくて「無意識の声だよ」と私が言えば(そんな野暮はめったにしませんが!?)嫌な顔をされますが、私の中では世間一般よりも「無意識を畏怖」しているので決してそれらの「神仏の声」を卑下しているという意識は全くないんですけどね。
むしろ自分の中では、その無意識の「ごく一部」にきっと「神仏の情報」が入り込んでいるかもしれないという期待は大いにしていますし。
要は「無意識だ」「神仏だ」と拘るよりも、その情報を「冷静に、正確に」「害のないように」受け取るか、だと思います。
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