夕食後、つい「うとうと」してしまったときのこと。
祖父(故人)と会話している夢を見た。
ただ「夢」と言っても、「うとうと」しているレベルなので完全に寝てはいなかった。
だから私はその「夢」を客観的に「夢と知りながら」会話をしている自覚があった。
広義ではこれも「明晰夢(夢と自覚のある夢)」と呼ぶのだろう。
「祖父」はおそらく私の無意識の代弁者として登場したのだろうと解釈した。
この夢で「なぜ祖父なのか?」を考えるとき、いきなり「祖父があの世から語り掛けてきた」なんて先走りはしない。
冷静に「自分の内面にある祖父らしい側面」が人格化したと考えるのが正しい。
この夢は「意識的に会話した」という意味でとても興味深い。
なぜだと思いますか?
順に説明しますね。
このブログでも何度も話しているように、人間の心は「意識」と「無意識」がある。
厳密には無意識を認めない心理学の派もあるが、今そんな議論はしません。
「意識」と「無意識」を議論するときに、最も重要なポイントは、「意識=私」は決して無意識に直接は触れることはきない、ということ。
だから本来は上述した夢のように「意識=私」と「祖父=無意識」が対話するなんてことは起きない。
心理学でいう「無意識」は「意識」では直接には決してアクセスできない不可侵領域のことを言う。
ただ……
「無意識側」からすると「表に出たい=意識されたい」という強い意志がある。
だから無意識は意識という「バリア」を突破するべくあの手この手を使って表に出ようとする。
上述の説明であれば、意識が無意識と決して出会えないとなる。では無意識は表に出る機会を得ることは永遠にないのか?
実は手はあります。
確かに先に強調したように無意識はアクセスできない不可侵領域ですが、それはあくまで「直接的に」はアクセスできないという意味。
だから「間接的」なら無意識が表(意識上)に出てくる術(すべ)は沢山あります。
一番有名かつ簡便なのが「夢」。
無意識の主張を救い上げるために深層心理学者が「夢分析」をするのは正に無意識の主張を「間接的に掬い取ろう」ということ。
…… …… ……
さて、今日の本題。
冒頭の私が見た夢の話。
実はこの夢、普通の夢とは少し違いましたね。
そうです。「夢に気付いている」ので「意識的に会話をしていた」ということです。
心理学者が普通の夢を分析することと、夢に気付いて意識的に会話をしている夢とで決定的な「違い」がある。
なんだか分かりますか?
これは例えば神仏と向き合った時に、偶発的に発生する「対話」の時でも意識しておいていい話だと思います。
ポイントは「受動的なのか」「能動的なのか」という違いです。
「受動的」というのは一方的にメッセージが流れ込んでくることを言います。普通に夢を見るパターンは全部「受動的」です。だから無意識のメッセージも玉石混交で価値ある情報をごみの中かから探すのは大変な作業です。
ただこれが意識的な会話となると「能動的」に会話に参加できることになります。つまり例えばこちらが質問したいことを質問すれば、相手が(無意識が)想像だにしない答えを適格に返してくれます。
なぜこれが重要なのか?
それは無意識に主導権を持っていかれないから、です。
無意識はパワフルですが「良くも悪くも」でもあることを知っておく必要があります。無意識は時に「野獣」でもあり「魔」でもありえるということ。
それを制御するのは「主導権を奪われない」ことにつきます。
言い方は乱暴だが……
「こちらから聞くこと以外、勝手にしゃべらせない」
です。
だから、時に勝手にしゃべったとしても無視する態度が必要です。
ただ、「能動的」が過ぎて「意識的すぎる」と、もちろん無意識は引っ込んでしますので対話はたちどころに終了してしまいます。
そのバランス感覚は難しい。
以上は、あくまで夢の話。
でも例えば行中に神仏の声が聞こえた時なども、私は(あくまで個人的には)同じ態度で挑むようにしている。
つまりまずはそれらの声は、「自分の無意識の一面」と考え、安易に「神仏が」「霊が」とは思わない。
かつ、主導権はあくまで自分で「勝手に流れ込むメッセージ」に過度に取り合わない。
夢の場合は、無意識に主導権をとられるとプロテクトがかかって「寝てしまう」ということで問題にはならないが、行中などは特に注意が必要かな、と思う。
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