朝、「にゃあ、にゃあ」という「しゃみい」の煩い鳴き声で目が醒めた。
いつもの朝の風景。
上体を起こして「さあ」と手を畳について起き上がろうとしたら掌に「ズキン」という激痛を感じた。
「ああ、そうだった」
と、昨夜の「惨劇」を思い出す。
いや、惨劇というほどでもないのだが、性懲りもなく、またもや「しゃみい」に「がっつり」と掌を噛まれたのだ。
「がっつり」というのは、「手を畳ついただけで痛い」ことからも想像いただけると思うが、その手は傷口を中心に赤く腫れて熱を持っているほど。
さて……
「痛みの心理学」
というユニークな心理学がある。
「痛み」を注意深く観察なさいというのだが、何のために?
「痛みの目的を探るために」
だそうな。
「痛みに目的もへったくれもあるか!」
普通は、そういう感想だと思います。
でも皆が「そんなバカな」と思えるようなことだからこそ「ユニーク」とも言える。
でもちょっと考えてみてください。
「痛い!」という感覚は、少なくともめちゃくちゃ主張が強い。
心を乱される最たるものでもあることに異論はないでしょう。
なぜ、そんなにも心に訴えかけるのだ?
現代科学的には(医学的には)、痛みによって身体を庇うよう心を仕向けるためと説明される。
でもこの心理学は……
「いやいや、もう一つ意味があるんだよ」
という。
つまり痛みには意味が二つあると。
一つは身体を守る事。
もう一つは?
「間違った生き方を正すためのヒント」
だそうな。
「だから、その生き方、間違ってるんだよなあ」
というときに「痛み」が生じるとある。
「なにそれ?!」という人が多いでしょうか。
百歩譲って「原因不明の痛み」だったらそんなこともあるかもしれない。
でもネコに噛まれたのは偶然でしょ?全然内面からの痛みではない気がするが?
その通り。ネコに噛まれた傷は、外的要因であって心が「生き方違う」と先導したものとは考えにくい。
でも「痛みの心理学」は強引だ。
「どんな理由で生じた痛みであれ、”全ての痛み”に意味がある」と言い切るのだ。
むろんネコに噛まれた痛みも。
「痛み」だけが重要であって、そこに「どんな原因の痛みか?」という因果律は一切受け付けない。ただただ「全部の痛み」が対象になる。
その強引な論法の根底には、むろん皆が大好きな?ユングのシンクロニシティ―(意味のある偶然の一致」が横たわっている。ユングのシンクロニシティ―は別名「非因果律の原理」といいますからね。だったら痛みの原因を探ることに意味はない。
問題は「その痛み」が何を意味するか?という探求にある。
例えばこんな感じで探求します。
「なぜ噛まれたのか?」
をまず考えてみる。
実は最近、とみに噛まれる頻度が上がっている。
理由は明確です。
しゃみいとの距離が近くなったからです。
かつてのようにこちらから近づけば物陰に隠れて半日そこから出てこない……なんて状況では噛まれようがなかった。
それが今では機嫌がいいと、纏わりついて離れません。だから可愛くて身体を撫でてあげるまでになりました。嬉しい事です。
ただ最初は「丁寧に」あやしてあげますが、だんだん面倒になって扱いが「雑になる」と、「ガブリ」とやられます。
普通の猫であれば例え噛んでも「アマガミ」だと思うんだが、しゃみいの場合はいつでも「ガチガミ」。時に噛みついてから首を振るので完全に肉を引きちぎりにきています。
ここから「ワーク」に入ります。
「雑にやると痛い目にある」という部分に注目してみる。
「噛まれた痛み」に「雑はいけない」という、イメージを重ね合わせて「その感じ」をイメージしてみる。
時に「ああ、やっぱりそうだ」となるし、時に「いや、これじゃないな」となる。
この繰り返し。
今回の私の場合は「慣れてくる」と「雑になってしまう」という悪癖は、確かに思うところがあり過ぎて「ここを正さねば」という結論をこの「痛み」から掬い上げることができた。
私は、これも仏教の修行に通じるものがあると私は思って、意識してこのワーク(瞑想といっていいかも)をやる。
しゃみいは、ただただ私を痛めつけるためにやったのではなく、私の「気づき」に与えてくれて、修行に協力してくれたんだと思えば、より愛おしくもなる。むしろ私からしたら観音さまの変化(へんげ)と言える。
だからきっとしゃみいはこういいたかったに違いない。
「丁寧に修行するにゃん!」
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